【江戸時代小説/仇討ち編】旅籠の仇討ち
旅行客を食事つきで宿泊させる宿を、
むかしは旅籠屋いった。
旅籠屋を利用する客は実にさまざま。
これは念者(若衆の兄貴分)と思われる江戸へ下る上方訛りの侍と若衆、男芸者を連れる幇間(座敷を盛り上げる人)に、お一人様の瞽女(盲目の三味線弾き)や手に数珠こすりつけ念仏を唱える僧体など、まことに万いるのである。
今宵は、そんなわけありが六人揃った、まこと珍しき秋の夜長、中秋の名月が天に顔を見せた一晩のお話。
*
一番端の部屋の僧体の客が、隣で休む太鼓持ちと男芸者に文句をつけたことから、事は始まった。
「なに、隣が煩いのでな、そちらから一言、言ってもらえぬか」
「はい、かしこまりましてござります」
わたしはこの旅籠屋で下働きをする茶吉という。
客同士の揉め事は、先ずはわたし一人で片付けねばならないというのが、旅籠の決まりであった。
すぐさま隣の部屋に申し入れる。
「夜分にすみませぬ。旅籠の者でございます。お隣の方がお休みでございますので、あまり大きな音を立てないようにお願いいたします」
そう注意すると、襖が開き、半ば半裸の男芸者がを身なりを整えて、わたしを見ながら言った。
「それは大変迷惑をかけたな。どれ、一曲踊って差し上げたいのだが、いかがか」
わたしは男芸者の言葉を僧体に伝えた。
どうせ僧体はお断りになるだろうと思っていたが、そうはならず、二部屋の襖を開け放して繋げた大広間に良き音色が響き渡る。
わたしも聞き入ってしまい、しばし業務を忘れて楽しんでいると、この音色を聞いた者がもう一人いた。瞽女の客である。
その女客の部屋は男芸者らの部屋と襖一つで区切られているだけであった。そのためよくよくその音色が聞こえたのだろう、三味線を抱えて、男芸者の部屋に入って来た。
瞽女は一礼し、べべんと弦を弾く。しかし、それを最後に一向に続きを引く気配がない。幇間の太鼓を聞いて入る機会を悩んでいるのかと思ったが、なにやら神妙な面持ちで立っている。
すると、僧体が一言も発していないのにも関わらず、瞽女はそちらを向き、軽く首を傾げて挨拶をしてみせた。いや、わたしの目にそのように映っただけかもしれない。そう考えているうち、一曲が次第に二曲になり、二曲が三曲になる頃、瞽女が一旦弾くのを止めたので、わたしは瞽女を要望通り厠へと案内した。
*
瞽女が部屋に戻る際、翌朝、僧体に旅の安全を祈願してもらいたいという理由で、僧体が支度をなさったら起こしてほしいと頼まれた。
ふたりして男芸者の部屋に戻ると、まだ宴会状態であったので、瞽女はまた三味線を弾き出した。
すると、襖が閉め切れていなかったのだろう、向かいの部屋にいた若衆が顔を出した。
「良き音色がこちらまで聞こえていたので、気になって来てしまいました」
若衆は、少し照れながら笑顔で来られ、続いて刀を二本携えた男(侍)が着いてきた。
こんな夜更け(深夜)に演奏など、普段なら苦情ものだと思いつつも、楽しんでくださる人ばかりでよかったと、ほっと胸を一撫でする。
しかし、若衆の視線が僧体を捉えた瞬間、その美しかった面立ちが鬼の形相に変わったのを、わたしははっきりと見てしまった。
まるで見てはいけなかったものを見てしまったがために、もはや先ほどの躍る心もどこかへ消え失せてしまった。
一体どうなさったのだろうと気になって、演奏会がお開きになった折を見て、侍がわたしに耳打ちした。
「明くる朝、あの僧体がここを出る支度をしたら、呼んでもらえぬか」
わたしは瞽女のように旅の安全祈願を頼むのかと、それとなしに伺った。
「いや、我々は仇討ち旅をしているところでな、あれがその相手なのだと、連れは申しておる。本来ならばここで切り刻んでやりたいところだが、旅籠屋に迷惑をかけてはいかん。そのため、ここを出た先の橋で仇討ちといたす」
「しかし、あの方は行脚僧なのでは」
「わしもそう言ったが、連れはあの顔に間違いないという。なんでも親の敵なのだそうだから、それを見間違えるはずもなかろう。兎に角、言われた通りのことをしてくれ。くれぐれもやつを断りなく外へやるなよ。しくじれば、お主の首が飛ぶと思え」
軽い気持ちで尋ねたわたしのこころを木っ端微塵にして、侍は部屋の奥へと消えた。
*
まだ外が暗い中、僧体の部屋に動きがあった。夜明けまでまだ時間はあるが、どうやら僧体が出る支度を始めたようだ。
眠気でふらつく中、昨晩の頼まれ事を頭の中で反芻し、一人てんてこまいになりながら、瞽女と若衆の各部屋へ起床を申し伝える。
支度を整えた瞽女に続いて、昨夜の笑顔はどこへやったか、若衆がその顔に似つかわしくない刀を持ち現れた。
「漸く、待ちわびた時が来たのだ」
若衆の瞳は爛々(らんらん)としている。
そんな訳も知らずに僧体が旅籠屋を後にする。
わたしは店先でその行方を平然を装いながらお見送りしつつ、どうなるのだろうと不安を抱えていた。
すると、瞽女が後を追い、ふたりが橋の上で止まるのが見えた。
わたしは何かあってからでは遅いと思い立ち、橋の傍まで走った。
丁度そのとき、瞽女と僧体の間へ割って入るようにして、若衆が大声を上げた。
「僧侶に化けた辻斬り、ここで会った今、お主の命運は尽きたと思えッ。数年前にお前に無惨に殺された母上の敵、積もりに積もったこの恨み、晴らしてくれるわッ、参るッ」
気合いの入った言葉とは裏腹に、若衆の刀は僅かに逸れ、僧体の袈裟を切り落とした。
すると僧体は動じないと言わんばかりに平然とした面持ちで脇差を取り出し応戦した。若衆の刃をのらりくらり躱す姿は、もはや僧侶の動き(それ)ではない。
そのうち騒ぎは大きくなり、行き交う人の足が止まり、狭い橋の上に立ち往生する人々は仇討ちの見物客と化した。
人々はやれや討てと無責任に囃し立てる。
若衆はめげずに刀を振るうが、大の大人の力に敵わないのか躱されたり受けられたりして全く歯が立たない。
そのとき、観衆の誰かが叫ぶのが聞こえた。
「どなたか、同心をッ」
すると、まだ呼んでもいないのに与力が現れた。
「あの風貌、まさしく我々が捜していた下手人。まさか僧侶の風体をしておるとは。人は見かけによらぬな」
続いて、同心が捕り物道具を持ってやってくる。
「暫し待て。若者の親の仇討ち、手出し無用じゃ」
与力の言葉に同心が弧に広がり合図を待つ。
しかし、そのとき一瞬の不意をついて、僧体の刃が若衆の胸目掛けて振り下ろされた。
血を流しよろめく若衆に、見かねた侍が一歩前へ出る。
「助太刀致す」
若衆は悶絶しつつも侍の着流しの裾を引っ張った。それが仇となり侍も僧体に斬られる。
一体なぜ。若衆は侍を押しとどめたのか。この場にいた誰もがそう思ったろう。
しかし、わたしにはそのこころがわかった。若衆は自分の手で敵に報いたかったのだ。侍は用心棒であって、それ以上の存在ではなかったのだ。
一連を見ていた与力が声を上げた。
「引っ捕らえぇい」
その合図で同心が一気に方を付けにゆく。
僧体の男は暴れたが同心の刺股が重なるようにして取り押さえられた。
刹那、山間から日が差し込んだ。事が終えた希望の光に見えた。
わたしは、返り討ちにあって仰向けに倒れる若衆の元に駆け出していた。またあの笑顔が見れるようにと、その一心だった。
「若衆殿、しっかり」
胸の傷口を手で押さえてやりながら、顔を覗いたが、時すでに遅し、その瞳に命はなく、ひとつの命が散ったのを知ることとなった。
川に落ち、流れゆく血とこの溢るる涙を、止められる者など、誰一人とていなかった。
おしまい