第七話
「フィリス嬢、おはよう。今ちょっといい?」
学園に着いて早々、玄関口でビリーに話しかけられた。クラスメイトとはいえ、彼と話す機会はほとんどなく、登校時間もバラバラなので挨拶を交わすことも珍しい。加えて、賭けを提案した彼に対する腹立たしさがいまだ残っていたのもあり、ビリーに対する警戒心は強かった。
訝しく思いつつも、「何でしょうか?」と淡々と返す。
「ここだと話しにくいから、そうだな……中庭でもいい?」
「え? えぇ」
反射的に頷いてしまったが、もう遅い。
「行こう」と言われ、今更断ることもできず、私は仕方なくビリーに付いていった。
着いた中庭には相変わらず人がいない。まだ登校時間のため、学校にいる生徒もまばらだというのもあるけれど。
「まず聞きたいのは……とりあえず、昨日は大丈夫だった?」
「昨日?」
聞かれて思い出すのは、ラッセルと少女の姿だった。見たくなかった光景がよみがえり、私の胸がずきん、と痛む。
けれど、彼はその場にいなかったはずだし、私の気持ちなんて知るはずもないのだから心配する必要はない。ならば、消去法でその前に女の子たちから呼び出された件を言っているのではと思い至り、「あぁ、彼女たちの事ですね」と口に出す。
「あの方たちなら『ラッセル様に近づかないでほしい』と頼まれたので、お断りさせていただきました。そのことでいろいろ言われたりしましたが、別に平気です」
「そっか。実は昨日、彼女たちの一人が君の机に手紙を入れているところを目撃しちゃってさ。ラッセルと一緒にいるところを見たことがあるから、なんとなく面倒ごとに巻き込まれているんじゃないかって。意外と平気そうで安心したよ」
なるほど。彼なりに一応心配して私に声をかけてくれたらしい。それでビリーに対する嫌悪感が多少和らいでしまうあたり、なんて私は単純だろう。
「気にかけてくださり、ありがとうございます」
「いや、大丈夫ならよかった」
そう言って歯を見せて笑うビリー。今まであまり話したことはなかったが、こうしてみると普通に好青年だ。
「ところでさ……ラッセルの事なんだけど、君はあいつをどう思っている?」
先ほどまでの雰囲気とは打って変わり、ビリーの表情は真剣なものになる。
「どう、とは?」
「はっきり言っちゃうと、恋愛的に好きかどうか……かな」
「それは先日のわたくしを落とすという賭けと関係するからでしょうか」
直球で尋ねると、ビリーは「まぁ、そういうことだね」と言い辛そうに認めた。
「やっぱりあの日の話を聞かれていたか。誰かが聞いているっぽいとは思っていたけど……まさか君とは」
ビリーの言葉に、今度は私の方が驚く。
「気づかれていたのですね。と言うことは、他の二人も……」
「あー、あの二人は気づいていないと思う。チェスターは鈍いし、ラッセルも考え事をしていたみたいだったから」
それを聞いて少し安心する。もし、ラッセルに知られていたら、相手からすれば私の行動は意味不明なはずだ。今は落とそうという気持ちが薄れてきているとはいえ、私の行動の理由を知られれば、私に対して良い印象は持たないだろう。
「それで話を戻すけど、君の気持ちを教えてくれるかな。賭けに関係すると言っても、別に面白半分で聞こうっていうわけじゃないし」
「嬉々として賭けを提案したあなたの言い分を、どうやって信じろと言うのでしょうか」
「そもそも、ゲーム感覚で俺は賭けを提案したつもりはないよ。もしそうなら、負けないためにとっくの昔に君を口説き始めているでしょ」
ビリーに指摘され、その通りかもしれないと納得する。確かに、賭けなのだから負けないために私を落とそうと躍起になるはずだ。けれども、ビリーがあれ以来私に接触してきた様子はなかった。そう考えると、賭けを持ち出した理由は別にあると考えてもおかしくないかもしれない。
とはいえ、私が自分の気持ちを言うかどうかは話が別だ。
「あなたの言い分は間違っていないのかもしれませんが、質問にはお答えできかねます」
きっぱりとした口調で断ったが、なぜかビリーはにやりと笑った。
「その言い方だと、『好き』と言っているみたいだね」
「なっ」
思わず動揺して声が漏れたときには遅かった。
ビリーは珍しいものを見たとでも言いたげに、「へぇ」とにやにやとこちらを見ていた。
なんという失態。そこは「何とでも言えばいい」というような態度をとるべきだった。堂々としていれば、下手に気持ちが知られなくて済んだのに。気持ち的に問題を抱えているせいで、どうも感情が出やすくなっているようだ。
恥ずかしさに耐えるように唇を噛む。そんな様子の私を見て、ビリーは「本当に珍しいこともあるもんだ」と笑った。
「でも、フィリス嬢がそこまで表情を崩すなんて、貴重だね。もっと感情を表に出せばいいのに。その方がラッセルも喜ぶよ」
「それはラッセル様の前で感情を出せば、わたくしを落とすことができたと確信することができるからでしょうか」
「ごめん。賭けについては俺が悪かったから。だから、素直に捉えてくれ」
すぐに謝られ、「わかりましたわ」と頷く。別にわざと捻くれた解釈をしたわけではないのだけれど。
「……ですが、理由はともあれ、わたくしの表情が大きく崩れたとしても、彼が喜ぶとは思えません」
「それはどうして?」
ビリーに不思議そうに尋ねられ、昨日の光景を思い出す。
「……わたくしは彼にとって、他の女の子と変わらないからですわ」
あくまでも私は賭けのために接触しようとした存在。そのおかげで以前よりは関わるようになったが、心情的には何も変わっていない。結局私は、ラッセルを取り巻いている女の子たちと同じ、彼からすれば大勢の女の子のうちの一人なのだ。
「その他大勢の中の一人が笑ったりしたところで、喜ぶどころか普通は何とも思わないのではないでしょうか」
自身の発言に胸が締め付けられ、胸の前でぎゅっと拳を握る。
「フィリス嬢……ごめん……」
「どうしてあなたが謝るのです?」
「だって……泣いているから」
言われて目元を触って手を見た。確かに指先が濡れている。人前で泣くなんて久しぶりすぎて、それが涙だと一瞬気がつかなかった。
「なぜ、涙が」
戸惑っている間にも、ぽろぽろと涙が落ちる。拭っても拭ってもそれが止まらない。いつもならハンカチで拭くだろうに、今はそんなことを考える余裕すらもなかった。
「ごめん……。俺が余計なこと言ったからだね」
申し訳なさそうにビリーは言う。けれど、これは誰のせいでもない。ただ私が自分の言葉に傷ついただけ。しかし、今の私にはそれを伝えるほどの余裕はなかった。
だから気づかなかったのだ。人が来ていたことに。
「ねぇ、これは一体どういう状況?」
不意に聞こえてきた声に、反射的にそちらを見る。
視界が涙でぼやけていて、見ただけでははっきりとそれが誰なのかはわからなかったが、声だけで何となくそこに立っている人物が判断することができた。
「ラッセル……様?」
絞り出した声が震えた気がした。
どうして、なんでここに。今はまだ気持ちの整理がついていないのに。
頭が混乱しているせいか、ぴたりと涙が止まる。と同時に私の隣でビリーが「うわぁ、最悪のタイミング……」と呟いた。
ビリーの言葉の意味が一瞬わからなかったが、今の状況を振り返って、まずい、と気づく。今の状況を見れば、普通に考えて、ビリーが私を泣かしたと思うかもしれない。さすがにそれは濡れ衣になってしまう。私は、まだ瞳にたまっていた涙をぐいっと強引に拭うと、すぐさま頭を切り替えて弁解した。
「みっともない姿を見せてしまい、申し訳ありません。いろいろ考えてしまい、感情を抑えきることができなかっただけですわ。ビリーはここにいましたけれど、何も関係ありません。なので、彼を責めないでいただけますか」
そういうと、なぜかビリーは「なんでこんな時に俺の名前を呼び捨てするんだ……」と絶望した顔で呟く。うっかりとはいえ、確かにいきなり許可もなく呼び捨てにしたことは悪いが、今口に出すことじゃないでしょうが。
「へぇ……。『ビリー』ね……」
心なしか、いつもよりラッセルの声が低い気がするのは気のせいだろうか。それが原因か、ビリーの顔が青ざめている気がする。
「ねぇ、ビリー。ちょっと俺と彼女を二人にしてくれるかい? 授業には間に合わせるから」
「わ、わかった」
ビリーはこくこくと頷くと、あっという間に姿を消してしまった。
呼び止める隙も無く、私たちは中庭に残される。
正直言って今すぐ逃げ出したい。だいたい、なぜ今朝しばらくは会わないようにしようと決心した矢先にこうなるのよ。私としては、まだ気持ちの整理がついていないのに! なんて神様は意地悪なのだろうか。
心の中で神に対し文句を言っていると、ラッセルが「フィリス嬢」と名前を呼んだ。先ほど泣いたせいで感情が行動に出やすくなっているのか、「はい」と返事をした声が緊張で若干裏返る。
「君はなんで泣いていたの? 『いろいろ考えていた』って何を?」
ラッセルに問われ、答えられず口を閉ざす。
言えるわけがない。あなたには何とも思われていなくて泣いてしまったなどと。
全く話をする素振りを見せない私に、ラッセルは切なげに顔を歪めた。
「そんなに俺には言いたくない? 少しは俺の事を好いてくれていると思っていたけれど、違ったのかな……」
「そんなことは……」
ない、と続けようとした言葉が止まる。
いつの間にか、ラッセルとの距離が今にも密着できるほどに近くなっていた。ばくばくと心臓が鳴り出す。私は何とかポーカーフェイスを保とうと必死だった。
そんな私などお構いなしに、ラッセルは私の顔を包み込むように触れた。弾かれたように、私の肩がピクリと跳ねたものの、彼は私の目元を丁寧に親指の腹で撫でる。その手はまるで涙を拭うかのような仕草で、けれど、どこか緊張したようにたどたどしかった。
「……ごめん、責めるような言い方をして。でも、俺以外の人間に、君が泣き顔を見せたのが悔しかったんだ」
彼の瞳が、熱っぽく私をじっと見つめる。
「君が涙を見せる相手は、俺だけであってほしかった。そうすれば君を慰めて、君の涙を拭えるのは俺だけだったのに」
なに、そのセリフは。どうしてそんなことを……。
心なしか、彼に触れられた左頬が、熱い。
「……ねぇ、俺は、君の表情すべてを俺一人が独り占めしたいほど、君のことが好きなんだ。笑顔も、怒った顔も、悲しい顔も、全部、俺だけに向けてほしいくらいに。……他の女の子と常に一緒にいる俺を、君は信じられないかもしれないけれど……」
これだけ聞けば、愛の告白だ。私の事を心の底から愛していると勘違いしてしまうほど、情熱的な。本当の彼は、そう思ってはいないのに。
「……嘘よ。私を賭けで落とすことになったから、思っていないことを言っているのだわ」
「……っそれは!」
ラッセルは言いかけて黙り込む。そして、触れていた私の頬から手を離した。
やっぱり思っていないことを言わせてしまったのだ。そう思い、「無理して言わなくてもいい」と続けようとすると、彼は覚悟を決めたように口を開いた。
「あのときは、ああでも言わないと、君がビリーの事を好きになっていたかもしれないだろ。ビリーの口ぶりだと、君を口説こうとしてもおかしくなかったんだから」
「え……」
その言い方だと、まるでラッセルが、私に他の人間を好きになってほしくない、と言っているみたいじゃないか。
ラッセルは私から視線を逸らす。けれど、その顔は、彼らしからぬ余裕のないもので、耳まで赤く染まっていた。
……いいのだろうか。彼の言葉を信じて、心の底からの想いを伝えても。
けれど、私の感情のない顔で、想いが伝わるのだろうか? 信じてもらえるのだろうか?きちんと私の言葉は伝わってくれるのだろうか?
思い浮かぶ言葉は、陳腐なものばかりで、どれも私らしくない。ならば、覚悟を決めた私がすることは一つだった。
「ラッセル」
初めて彼の名前を呼び捨てにする。ラッセルは驚いたように私を見た。
そして、彼がこちらを見たと同時に、私は軽く背伸びをする。
もともと密着するほど近かった距離は、ゼロになった。