第三話
「じゃあ今日やった分の授業をやろうか。確か魔法の歴史だったね。教科書を開いてもらえるかい?」
そんなラッセルの言葉で始まった授業もどきは、想像よりも遙かに円滑に進んだ。
始める前は、最低限の授業内容が理解できればいいとあまり期待していなかった。いくらラッセルが学年一位だからと言って、人に教えるというのは難しい。そのため、どこかぎこちなさが付き纏うと予想していた。嫌いな相手と言うのもあり、ひねくれた目で見ていたのもあるだろう。
しかし、実際はそんなことなかった。もともと今日の授業内容が、私の興味のある「魔道具の歴史」というのもあったが、ラッセルの解説はわかりやすかった。気になった疑問をぶつければ彼なりに解釈した答えを返してくるし、たまに挟まれるちょっとした知識も興味深い。思わず私自身も熱中してしまったくらいだ。
そんなわけであっという間に時間は過ぎ、気づけば今日行われた授業の範囲を終えていた。
「――今日やった授業はここまでだよ。お疲れ様、ボイエット伯爵令嬢」
「ありがとうございました。ニューランズ様」
ラッセルの言葉を聞いて、頭を下げてお礼を言う。いつもならば心の中で文句を言っていたかもしれないが、今回ばかりは心の底から感謝しての言葉だった。それほどまでに今回の授業は充実していて、楽しいものだったのだ。いくら嫌いだとは言え、彼を馬鹿にしていた最初の態度が恥ずかしい。
だからなのか、この時間が終わってしまったことが少しだけ悲しかった。私の中でのラッセルは、相変わらず「嫌い」のままだ。自分より成績がいいのは嫉妬するし、女の子たちを常に連れ歩いている状況も気に食わない。私を賭け事の対象にして何とも思っていないのも腹が立つ。
けれど、今回の授業に関しては、彼に対する感情を無視しても良いと思えるほど受けて良かったと思えるものだった。正直、ここで終わりにしてしまうには惜しいほど。いや、また彼と勉強したいと思った。だから。
「こちらこそありがとう。おかげで勉強になったよ。俺自身、楽しかったしね。それで――」
「一つお願いしてもよろしいでしょうか」
気づけば彼の言葉を遮っていた。そのことに私自身驚いてしまう。ラッセルも私の行動が意外だったのか、目を見開いていた。しかし、さすがは女性に優しいと評判の男。私を女性扱いしたかどうかはともかく、一瞬驚いただけですぐさま私の意思を尊重するように、笑顔で「どうぞ」と発言を促した。
普通なら彼のその行動はありがたいのだが、私でも無意識の行動だったので、できれば適当に流してほしかった。しかし、それももう後の祭り。私は仕方なく腹を決め、受け入れてもらえるかわからない「お願い」を口にした。
「今日のニューランズ様の授業、私自身も充実したものとなりました。改めてお礼を申し上げます。そこでもしよろしければ、また今日のようにわたくしと一緒に勉強をしていただけないでしょうか。ニューランズ様の意見は興味深く、わたくし自身勉強になります。もちろん、あなた様の都合の良い時間でかまいません。どうでしょうか」
緊張で唇が渇く。嫌いな相手に頼むことではないのはわかっているし、相手からすればとてつもなく図々しい頼みだ。でも、どうしても私はここで「はい、終わり」にしたくなかった。
だが、ラッセルは少し考えるようにあごに手を添えると、予想していなかった言葉を口にした。
「それを受けたところで、君は見返りに何をくれるんだい? まさか何もせず俺に『引き受けろ』とは言わないよね?」
「それは……」
言われてみればそうだ。確かに物事を頼む際には、何かこちらからも差し出す必要がある。見返りもないのに頼みを聞いてくれるわけがない。そのことをすっかり失念していた自分を恥じた。
とはいえ、差し出せるものは何もないからと、ここで引き下がるわけにはいかない。言ってしまった以上取り消すのは嫌だというのもあるけれど、先ほどの頼みは本心でもあるのだ。そう簡単に撤回したくはない。だからなのか、その言葉は思ったよりもあっさりと口から出た。
「では、わたくしのすべてを差し上げます」
「は……!?」
ラッセルがなぜか頬を赤らめてこちらを見たが、気にせず私は話を続けた。
「これでも知識はある方です。きっとニューランズ様が知りえない知識も知っているでしょう。それをお教えします」
そういった途端、今度のラッセルは真顔になったが、理由はよくわからないのでとりあえず触れないでおいた。
「……そういうことか」
「えぇ。もし知識を必要とされないのであれば、その時はわたくしにできることは何でもします。掃除でも料理でも、何でもこき使っていただいて構いません。それともこれでは対価として小さすぎるでしょうか」
これで断られてしまえば、その時はさすがに諦めるしかない。とても残念ではあるけれど。そんなことを考えながら覚悟を決めてラッセルを見やると、なぜか私を見てぷっと吹き出した。予想外の彼の行動に、目を丸くする。
「いや、ごめんね。まさか自分自身を差し出すとは思わなくて。さすがに勉強程度で見返りを求めたりしないよ」
「ということはつまり……」
「冗談だよ」
瞬間、脱力した。いつもなら顔には出さず内心怒り狂っているところだが、今はそれを通り越して呆れている。大事なのは、私の頼みを聞いてくれるかどうかだからだ。
「と言うことは受けてくれるということでしょうか」
「あぁ、うん。もちろん構わないよ。むしろこちらからお願いしたいくらいだったしね」
「ソウデスカ」
あっさりとした承諾に、思わず返事が片言になったものの、正直頼みを聞き入れてもらえて安心した。彼の立場からすれば、よく知らない、自分にとってどうでもいい女の頼みだから、引き受ける理由はないだろうに。
にもかかわらず、ラッセルは引き受けてくれた。感謝しかない。とはいえ、今でも賭けの対象にしたことは恨んでいるし、ラッセルをぎゃふんと言わせるために彼を落とすという目的は変わらないけれど。一緒に勉強することはそのための良い機会だわ。……まあ、勉強会を申し出たときは、そのことを一切考えていなかったけれど。結果的にはちょうどよかったということで、良しとしましょう。
「じゃあ、次に勉強できそうなときは、俺から連絡するから」
「お願いします。それと送っていただきありがとうございました」
いつの間にか寮まで送ってもらうことになり、気がつけば寮の玄関に辿り着いていて、帰り際ラッセルにそう言われた。私は了承と同時に寮まで送ってくれた感謝も伝える。
「女性を送るのは男の義務だからね。これくらいなんてことないよ」
ラッセルは柔らかな笑みを浮かべて答えた。その笑みには裏があるようには思えない。けれど、「私を女性だとは思っていないくせに」とか「私を落とす賭けをしているからでしょう」とか、捻くれた考えが頭を過ぎる。そう考えてしまう自分が少し嫌になった。
「では失礼します」
そんな気持ちをごまかすようにラッセルに背を向けようとすると、「最後にちょっといい?」と彼の声が聞こえた。思わず足を止めて振り返る。
「今日俺に頼みごとをした時、『何でもする』って言ったよね。もうあんなこと言ってはいけないよ。俺だったからよかったけれど、中にはそれに付け込んで悪いことをさせる輩もいるからね」
言った相手がラッセルで良かったかどうかはともかく、確かに彼の言うことは真っ当だ。何でもかんでも「何でもする」と言っていいわけではない。このタイミングで言うことではないと思うけれど。
「以後気を付けます」
「うん。そうしてほしい」
「ですが」
「ん?」
確かにラッセルはいけ好かない。けれど、それは主に女性関係や賭けなどの遊びに関することで、勉学に対する姿勢は真摯だと思う。――だから。
「別に誰にでも言うわけではありません。あなただから言えたのです。……勤勉なあなただから。それほどまでに今日の授業は価値のあるものだったのです」
「!」
「そのことだけは覚えていてください。では、今度こそ失礼いたします」
再び頭を下げ、今度こそ寮の中に入る。自分の素直な気持ちを言えたせいか、もう先ほどの後ろ暗い気持ちは消えていた。
私は知らない。私が寮に入っても、ラッセルが私の姿をぼんやりと眺めていたことを。彼にしては珍しく頬を赤らめていたことを。