8
今日も元気に魔王城。
「おーい」
「……」
珍しく猫なで声の大魔王エリエル。
それに背を向けて無視しているのは側近の悪魔デルフォード。
「いやぁ、この間の雪だるまはすまんかった。ほれほれ、この通りおぬしの好物の冷製コーンポタージュだってたんまりと作って持ってきたぞ。食べぬか?」
エリエルがよく見えるようにお鍋を持ち上げる。
青いエプロンを着用している堕天使のお姉さんの姿は非常にレアだ。
しかし側近はありありと背中で語っていた。
……つーん。
「だ、だめか? むぅ、困ったの」
しゅんとする大魔王に、側近も諦めたように向き直る。
「……べつに怒っていませんよ」
「う。いや、しかしの……」
「違います。どうかお気になさらず」
「ううー」
変わらずつっけんどんな側近。
ばつの悪い顔で凹む大魔王。まるで叱られた子犬のようだ。
エリエルにとって側近は魔界に来た時からの長い付き合いであり、一番情のある相手だった。
「はぁ……本当に雪だるまのせいではありませんよ……私が気にしていたのは、ここずっと大魔王様がフラリとどこかほっつき歩いていることです」
「あー。すまんが、それは秘密じゃ」
「……だからですよ」
「うむむ……」
真摯な目がフードの奥から大魔王へ届く。
「大魔王様はいつもすぐにお一人で飛んでいってしまわれますから……」
「あー、うむ」
「心配なんですよ……」
「すまぬな。おぬしにはよくよく気苦労をかける」
よしよしと側近のフードを撫でる。
それを受け入れる側近の顔は仏頂面で、それでもわずかに頬が緩んでいた。
だから、大魔王の次の言葉は不意打ちだった。
「ただまあ、それを言うならデル、おぬしも儂に隠し事をしておるじゃろう」
サラリと放たれたその言葉。それに側近の体が固まる。
スルリと言葉の刃が側近の体に深く入り込む。
心臓を鷲づかみにされたような緊張と沈黙が場に下りた。
「……」
「儂が気付いておらぬとでも思うたか」
「……それ、は」
「のう、デルフォードや。何故隠す」
「――っ」
大魔王の金色の瞳が冷たい色を帯びて、低い硬質な言葉と共に悪魔の背を貫く。
いつの間にか大魔王は上等の『敵』を前にした獣のように側近を見つめていた。
それから必死になって目を背けるデルフォード。
張り詰めた糸は、始まりと同じく大魔王によって呆気なく切られた。
「……ふ。まったく。今のは無しにしておこうぞ」
気がつけば既にその金色の瞳には穏やかな色を湛えるのみ。
重圧から開放された側近はたっぷりと重い息を吐き出した。
「とはいえ、そなたの気が落ち込んだままというのも悪いしの……。おお。よし、では景気付けに久しぶりに儂と手合わせでもするか! そうすれば元気もでるじゃろう!」
「え゛?」
逃げる間もなくむんずと首根っこを引っ掴まれ、連行されていく側近。
ずるずるずる。
「ははは。おぬしと戦るのはいつ以来かのぅ……最近は何かと忙しそうでとんとご無沙汰じゃったから楽しみじゃ!」
「いや、結構ですから! そんな気をまわしていただかなくて平気ですから! 大魔王様手作りのコーンポタージュでもう十分ですから! ねっ。だから勘弁してください。だれか助けてー!」
そこに運よく通りがかったのは側近と同じ魔王軍の頂点に立つ八魔将の二人。
「あ、ちょうどいいところに来た! あなた達も来なさい! 私一人で死んでたまるか!」
「おいばかやめろ! オレ達を巻き込むんじゃねえ! 逝くならてめえ一人で逝け! オレらが束になったところで同じ結果が増えるだけだろうが!」
「儂は別段かまわんぞ。いくらでもどんとこいじゃ。ではおぬしらも共に楽しもうぞ」
むんず。
「いやああああ! はなしてくださいいいいいいい! 折角のオフの日があああああああ!」
「くそっ、デルフォードてめえ今度覚えてろよー!」
「ふはははははははは! 私らに明日が来るとでも思ってるんですか! あははははははははははは!」
「おお、皆そんなに嬉しいのか。ふふふ。儂も張り切る甲斐があるというものじゃ」
「………………」
「………………」
「………………」
ルンルンルン。
ずるずるずるずるずるずるずるずるずる。
3人の大将軍が仲良く滂沱の涙を流しながら大魔王にひきずられていく。
もはやドナドナだ。
私設闘技場の扉が重い音をたてて開かれ、閉じた。
「アッーーーーーーーーーーーーーーー!」
どんよりとした魔界の空。
哀れな泣き声と叫び声が重なって響きわたり、やがて消えた。
☆☆☆☆☆
王都南の山脈、そこの拓けた湿地帯でエリエルは勇者に剣の稽古をつけていた。
今日はセアはおらず、二人っきりだ。
「うむ。随分と下半身の使い方が分かってきたようじゃの。一撃に体重が乗っておる」
「やっ!」
「お。今のは中々鋭い突きじゃ。よいぞよいぞ」
汗を流し、安物の短剣を振り回す勇者。
洗練されつつある剣の扱い。もはやその動きは一端の剣士だ。
短剣が動く度に空を鋭く斬る音がする。
体裁きも重心移動も少しずつ滑らかになり、しっかりと地に根を下ろしたように体勢が安定しつつある。
コンパクトに纏めようとする動きは、やがて息をつかせぬ連続剣撃となるだろう。
既に4合。稀代の剣士であるエリエルと剣を合わせ続けている。
隙を見せず、次々と斬撃を繰り出し続けて相手を封殺しようとしていた。
かつてへっぴり腰で剣に振り回されていた勇者の姿はもうどこにもなかった。
「ふむ。少々興が乗った。まだ坊やには早いが、儂の剣技を少しばかり披露しようぞ」
「え?」
「そのまま剣を構えたまま動くでないぞ。そしてしかと刮目して見極めよ」
エリエルの口の端が喜悦に歪む。
その鋼の長剣が勇者が構える短剣の刀身へ添えられ、次の瞬間に短剣を巻き取り、下から鋭く跳ね上げた。
そしてそのままがら空きになった勇者の胴体へ剣を袈裟懸けに振り下ろし、止めた。
瞬きする一瞬の間の出来事だった。
「これが巻き打ち。上段から攻撃してきた相手に使う技じゃ」
エリエルの剣技が続く。
右足を一歩踏み出し、水平に剣を薙ぎ払う。
受けた勇者の体が後ろに押され、エリエルはいつでも反撃を受け流せるようにしつつ剣を振りかぶり、そのまま斬り落とす。
「これが虎乱じゃ。初撃で斬撃が不十分な場合に、更に追撃をかける技じゃ。まあ2撃目を振りかぶる際に防御重視で受け流せるようにしながらするか、それともトドメ重視で素早く剣を後ろに引くようにするかはその時の判断次第かの」
それからも次々と剣技を披露していく。
「最後に、これを見せてやろう」
エリエルの足元から闘気が湧く。
湧いた闘気は螺旋を描きながら足元から右手の剣へと昇り、絡みついていく。まるで剣に竜巻が暴れているようだ。
エリエルが暴れ狂う己の剣を押さえつけていると、すぐに治まった。見ると剣には静かに超高速回転を続ける闘気の渦があった。
「まあ本来の強さでやると鋼の剣が砕けるので、劣化版じゃが十分であろう」
一歩右足を引いて左半身になり、剣を斜め下に構える。
踏み込みと同時に剣を振り上げた。
剣の軌跡が白い弧となる。
弧は巨大な斬撃として空へ飛び、その進行上にあるもの全てを切り裂いていった。
剣閃が消えた後、大空にあった雲がパックリ割れていた。
「大白刃一閃じゃ。非常に高度な闘気のコントロールと収束を必要とする技での、威力は折り紙付きじゃ」
「こんな技なんてあるのか……」
「これはそもそもがレベル60以上の剣技じゃからの。使えるのはほんの一握りであろうよ」
「よし、ぼくもぜったいにそれを覚えてやる!」
「はっは! いいぞ、その意気じゃ!」
師匠は上機嫌に笑い、弟子は遥かな高みを目の前にして燃えていた。
「無意識に最適の剣技を繰り出せるようになれば一人前の剣士じゃな。
ただし、これらの剣技は決して万能ではない。技に溺れることのないようにするがよい。必要もないのに小手先だけの技を使いたがったり、見た目にこだわって自滅する者もおる。剣技が優れている事と、戦いに強い事、生き残る事は別物じゃからな。よく覚えておくがよい」
「う、うん」
その後、体術の訓練もつけて陽が傾いてきた頃に修行は終わった。
後は王都に帰るだけだが、その日は違った。
「体術の通背拳ってすげえんだな。一発で大岩をこなごなにするなんて」
「歩法や呼吸法は少しは形になってきたが、通背拳を覚えるのはまだまだ先じゃぞ」
「わかってるよ」
道なき道を飛び跳ね、息一つ乱さず雑談しながら王都まで疾走する二人。
その途中でエリエルは岩で囲まれた広い湖のような温泉を見つけた。
地下水が地熱で熱せられて湧き出しているのだ。
「ほほう。温泉か。しかもここはよい眺めじゃな」
夕暮れの迫る平地を見下ろし、感嘆する。
中々の絶景ポイントだった。
「よし、気に入った。ここで少し汗を流していこうぞ」
「ええー」
「ほれ、坊やは先に脱いでおれ。儂は先に温泉の調整をしてこよう」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや! ちょっと待てよ! まさかいっしょに入るわけじゃねーだろうな!?」
「何をそんなに慌てておる? お。あの辺りがよいか」
可愛い弟子の男の子の抵抗を不思議そうに流し、温泉が湧いているポイントと浸かる場所を魔法で作った仕切り用の壁で区切る。
「ふむ。ちと坊やには熱いか? 少し冷やすか」
エリエルが生み出した氷を次々投げ込み、やや熱め程度まで調整。
あっという間に温泉の準備が整った。
「よし、よい湯加減じゃ。いいぞ坊や……む、まだ脱いでおらんかったのか」
「当たり前だ!」
「何をそんなカッカしておるのじゃ」
「い、いいから師匠が先に入れよ。ぼくは後から入るから!」
「別に一緒に入ればよいではないか。師匠が背中を流してやろうぞ」
「いいっ! ぼくはいいから!」
そう言ってる間にもエリエルはさっさと服を脱いでいく。
まずは革鎧を外し、上の赤い上着を首から抜き取る。更に下のズボンも足から脱いで、シュミーズの下着姿になる。両肩に紐をかけて筒型の布で胴部を覆う下着だ。色は白。
「な、な、な」
哀れ。もはや酸欠になったように顔を真っ赤にして口をぱくぱくする勇者。
続けてエリエルは口にヒモをくわえ、長い赤髪をまとめようと手を後ろにやる。
髪を紐でまとめてアップにしたら白いうなじがあらわになった。
「……う、あ」
いつもは見えないそのうなじ姿の魅力は絶大だ。しかも髪を結い上げたことでよりアダルトな色気が増している。
20歳前半と思われる師匠の艶姿に年若い勇者はあえなく悩殺された。
「し、ししょう……ししょう、おねがいですからかんべんしてください……!」
「ん? どうした坊や、そんな顔を伏せて……まだ脱いでおらんのか。儂が脱ぐのを手伝ってやろうか?」
「…………いや、いいです。自分で脱ぎますから。だからこっちに来るなー!」
半泣き。
エリエルは小首をかしげ、最後の下着を脱ぎにかかった。
さすがは元天使といおうか。しなやかで美しく、スラリとした若い女の肉体が夕暮れの下に惜しげもなく晒される。
どれだけ太陽の下にいても日焼けせず、雪のように白い肌。
胸に実ったものはどこまでも立派で、肌は水を弾くように滑らかだ。
くびれは細く、コルセットいらずだった。
地上に降臨した美の化身。
芸術家がこの場にいれば、必ずや泣いて絵画なり彫刻なりでこの姿を表現しようとしたであろう。
生憎といるのはひたすら羞恥に縮こまっている幼い男の子一人だけだが。
「よーし、坊やもようやく脱いだの。ではまずは体を流そうぞ。手拭いはこっちじゃな。ほれ坊や、もっとこっちに寄らんか」
「はいぃぃ……」
オーバーヒート。
勇者は言われる事にただ頷き、従うだけの人形と化していた。
勇者。ここに大魔王に悩殺され敗れる。
死因。煩悩。
「おお。坊やも随分とたくましくなってきておるの。将来が楽しみじゃ」
「……」
ザバっと小さな背に湯をかけ流す。
エリエルは鼻歌まじりで勇者の黒い髪の毛から湯をふき取りながら、実に楽しそうだった。
勇者の後にエリエルも体を流し、いよいよ温泉へと入る。
動こうとしない勇者を小脇にかかえながら。
「ふぅ。いい湯じゃのぅ……」
「うう……」
「あっはっは。なーにを緊張しておる。もっとゆったりとせぃ」
エリエルが勇者をぬいぐるみよろしく腕の中に抱きかかえるようにして、二人は温泉に浸かっていた。
勇者の背中に何か大きなものが潰れているような感じがして、ひたすら心の中で神への祈りの言葉を呟き続ける。
それが「ごめんなさい」と「ゆるしてください」と「ありがとうございます」の内、どの比重がどの程度大きかったのかは勇者のみぞ知る。
「さっきから変な坊やじゃな。一体どうしたのじゃ……ん、ははーん。なるほどなるほど。そういうことか」
ビクリと勇者の肩が震え、エリエルがにんまりと邪悪に笑う。
「ははは。気にしすぎじゃ、坊や。赤くなるなんぞ坊やには10年早いわ」
「あぅ」
好きな女性のこの言葉にナイーブな男の子のハートはザクザクだ。
それでもやがて少しは緊張が取れたのか、目の前に広がる地上の絶景を眺められる程度には勇者の思考が回復してきた。
「キレイだな」
「うむ。ほれ、あそこを見るがよい。大神殿の鐘が見えるぞ」
「どこ? あ、見えた。セアはあそこかな」
「うむ。きっとそうじゃろうな」
「なんかセアだけ仲間はずれみたいだな……」
「よし、では次はセアも連れてきて一緒に入るか!」
「今度は二人だけで入ってくれ。たのむから」
「なんじゃ、それだとつまらんじゃろうが」
ほのぼのとした時間が過ぎていく。
空に少しずつ星が増え、3番星まで輝いていた。
「なあ、師匠……」
「うーん? なんじゃ」
「その、師匠ってさ、何か好きなのとかあるのか?」
「儂の好きな事か? それは無論、強いヤツと戦う事じゃ!」
「あ、えっと、いや、そうじゃなくて……その、好きな人とかは……」
「そんなのおらんわ。が、そうじゃな……まあ儂を負かしたヤツが男だったら、もしかすると考えるかもしれんの」
「本当か!」
「おっと、急に勢いよく振り向いて、どうしたのじゃ」
「そ、それよりさっきの言葉だよ。もし師匠を打ち負かせば、好きになるって」
「なんじゃ、坊やは儂が欲しいのか? いやいや、こんな子供をも誘惑してしまうとは儂も罪な女じゃの」
「う……ち、ちげえよ! そんなんじゃねーし! ただ、あれだよ。その、そう! 師匠が変な男につかまらないか心配してやってんだよ!」
「ははは。そうかそうか。なら坊やが先に儂を倒してしまえばそんな心配はなくなるのかの?」
「え、えっと……そ、そうなる、のか?」
「ではそうなると、坊やには大魔王を倒せるくらいにはなってもらわんとな」
「なんでそうなるんだよ……」
底抜けに明るい顔で目の前の愛弟子の頭を撫でる師匠。
しかし、とエリエルは考える。
今はこの国の経済が不調だからほぼ援助しなくていいようにレベル1のノヴァが勇者になっているが、これから先経済が復調したらこの可愛くも大事な弟子はどうなるのか。
「勇者の紋章剥奪の上、追放かのぅ。それまでに、そうならんようにある程度は修行を仕上げておかねばな」
密かに胸の内で今後の方針をやや修正する。
「師匠、聞いてるのか?」
「おお。すまんすまん。少々考え事をしておった」
「だからさ、師匠はぼくがいんどうわたすまでぜったいに負けちゃダメだかんな! いいな! いんどうをわたすのは弟子のつとめなんだから!」
「……ふっふふふ。わかったわかった。ではその日が来るのを楽しみに待っているとしようぞ。しかし、あまり儂を待たせるでないぞ。よぼよぼの老婆になってしまう前までに頼むぞ」
「おう! まかせとけ! 約束だぞ! ぜったい、ぜーったいだからな!」
幼い日の約束。
勇者ノヴァにまた一つ、新たに目標ができた日だった。