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ショタ勇者さま育成計画  作者: めそ
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6






 はじまりは魔王城。


「大魔王様ー?」


 側近が大魔王の部屋をノックする。


「……返事がないな」


 嫌な予感を覚えた側近。

 「開けますよ」と一言断ってドアを開くと……部屋はもぬけの空だった。


「あの方はまた……」


 ガックリと肩を落とす。

 ふとよく見ればテーブルに書置きが一つ。


「ろくでもない物なんだろうな」


 手紙を広げるとそこには大魔王の力強い筆跡で一言。


”自分探しの旅に行ってくる”


戦闘中毒者(バトルジャンキー)の大魔王が今更自分探しもくそもあるかああああああ!」


 頭を掻き毟りながら絶叫。

 そしてまたちょっとばかり前髪が後退し、ハゲ化が進んだとか。


 合掌。



 ☆☆☆☆☆



 勇者に師匠ができて一つの季節が過ぎた。


 いつもの基礎体力メニューも目に見えて早く消化できるようになっていた。


 エリエルとの受け稽古も、初めの頃は一合剣を合わせるだけで地面に転がされていたのが、今では2,3合を剣で打ち合えるようになっていた。

 受けるエリエルも、ダメで元々だった勇者の思った以上に成長していく姿にこっそりほくそ笑む。

 これなら面白いことになりそうだ、と。


 そうして今日も遠泳を終わらせて、今は20kgの丸太を背負って南の山と谷を往復する9歳の幼い勇者と師匠。


「ぜーはーぜーはー」

「よしよし。これで今日の基礎体力メニューは終わりじゃな。少し休んだ後にこのまま受け稽古に移るとしようぞ。ほれ、儂が整理運動を手伝ってやろう」

「い、いいよべつに。って、こら。勝手にくっつくな!」

「ほーれほーれ。嫌なら振りほどくのじゃな」

「くっ……」

「ふーむ。この調子じゃと丸太を50kgに替えるのもそう遠くなさそうじゃな」

「げえ。また重くなるのか……」


 和やかな雰囲気でじゃれ合う師匠と弟子。

 照れているのか、顔を赤くしながらも嫌そうな表情で勇者が抵抗する。

 その可愛い姿にますますSっ気を出す大魔王様。

 そんな勇者の胸元には誕生日プレゼントとしてエリエルからもらった呪氷のペンダントがぶら下がっている。


 少しばかりの休憩の時間。

 そこに何か不穏な空気がほんの微かに流れ込んでくるのをエリエルは察知した。


「――む」


 眉根を寄せて西を見る。

 見えるのは空と緑の山肌。変わり映えのない山の風景だ。

 だが、何か近づいている。

 まだよく分からないが、決して看過できるものではないとエリエルは嗅ぎつけた。


「……坊や。儂が戻るまでここから動くでないぞ。少し西の様子を見てくる」

「え?」


 これが鬼気迫るというのか。

 師匠の初めて見た険しい金色の瞳に、勇者は咄嗟に怯えたように頷くだけだった。


 エリエルは続けて一瞬で指先に魔法陣を作り上げ、それを勇者の足元に投げつける。

 軽い何かが弾けるような乾いた音がしたと思ったら、地面に非常に緻密で大きな魔方陣が描かれていた。

 その広さは一軒家程度ほどだ。


「よし。もしモンスターどもが寄ってきても大丈夫なよう結界を張っておいた。

 よいな。くれぐれもそこから一歩も動くでないぞ」


 そういい残してエリエルはすぐ地を蹴った。

 身を低くし、長いタテガミのような赤髪を上下に揺らし、雌豹のように駆ける。


「は、速えぇ……」


 師匠の本気の動きに度肝を抜かれる。

 地を踏み抜いた後は大きな穴があき、その姿はわずかな残像だけを残して瞬き一つの間に見えなくなった。


 そうして師匠がどこかに行ってはや1時間。

 剣の素振りをしたり精神集中したりしながら、言われた通りに結界で待つ勇者。


「遅いな……」


 待つ間に2,3匹のザコモンスターが近づいてきたが、魔法陣の支配圏に踏み込んだ途端に氷の彫像と化していた。


「師匠、剣だけじゃなくてこんなすごい魔法まで使えるのか……ほんと一体何者なんだよ」


 ガサっ。

 突然草の鳴る音に慌てて振り向く。


「女の子……?」


 少し離れたところに必死な様子で駆けていく勇者と同じくらいの幼い女の子の姿があった。

 よほど切羽詰っているのか、苦しそうに喘ぎながら怯えたように、勇者に気付くことなく走り去っていく。

 プラチナブロンドをセミロングにしている女の子は、ゆったりと足元まで伸びた白い法衣姿だった。


「大神殿の神官見習いか?」


 回復魔法や支援魔法のエキスパート。それが神官だ。

 パーティには必ず一人欲しい人材である。


 しかし、何故そんな子がこんな南の山脈に一人でいるのか。

 そんな疑問は次の異変で吹き飛んだ。


「な……!?」


 始めは断続的な地震。次第に揺れが強くなり、一回揺れる度に勇者の体がわずかに宙に浮く。

 地震と共に重い音が響いてくる。

 なんとなしに、それが『足音』だと察してから少し後。

 山の影から異形が出てきた。

 それは全長8mほどもある巨大な金色の大猿だった。遠目からも分かるほど、圧倒的な存在感。

 それがキョロキョロと何かを探しながらどこかへ向かっている。


 それが探しているのが先ほどの女の子だと分かったのは、その大猿の視線が女の子の逃げた方向で固定されたからだ。


 あまりの威圧感で恐怖に身が竦む。

 勝てない。勝てるわけがない。

 あれの前に出たら手のひらで払われるだけで首の骨があっさり折れるだろう。いや、むしろ千切れる。

 それでも勇者が棒立ちになっていたのは一瞬だった。

 すぐさま我に返り、自分の使命を思い出す。


「た、たすけなきゃ!」


 勇者とは弱き人を助ける者。何度も妹にそう話し聞かせていたのだから。

 だから、ノヴァは『勇者』としての在り方を裏切らないために心を奮わせる。

 勇者は師匠の言いつけを破り、結界を出て女の子と大猿を追いかけた。




 一方エリエルは山に残された大きな足跡と、落ちていた獣の毛を前に目を細めていた。


「この力、随分と強いの。デルフォードと同格かそれ以上の魔力を感じる。レベルは少なく見積もっても80程度か」


 金色の大きな毛を手に取り、情報解析の魔法を使う。


「種別は猿。ほう、レベルはやはり85前後か。初めて見るの。これほど強い者がこんな所にいるとは。

 うふふ。これほどの相手、何が何でも戦ってみたいわ」


 笑う。

 愛おしそうに、そしてどこまでも狂ったように真っ赤な唇を舐める。


「気配は……いかんの。坊やのいる方角か。すれ違ってしまったか?」


 漆黒の翼を1対2枚だけ出し、空を飛ぶ。

 翼を仕舞いこんで結界の場所に戻ると、そこはもぬけの空だった。


「……まったく。師匠の言いつけを破りおって。まああのレベル相手にあの結界では太刀打ちできぬから仕方ないか」


 どうやら近くを例の猿が通ったようだ。

 残留している気配が猿の辿った跡を教えてくれる。


 すぐさま探索用の氷狼を10数匹召還する。

 並みの魔法使いなら1分と持たずに枯渇する魔力を惜しげもなく軽々と使い、勇者と猿の臭いを追ってその姿を探した。


「見つけた」


 再び飛ぶ。

 どうやら弟子も大猿も一緒にいるようだ。知らない小さな娘も一緒にいるようだが。

 氷狼の遠吠えと送られてくる思念を目印にエリエルは空を引き裂きながら音を超えて真っ直ぐに翔けた。


 遥か高みの大空から地上を眺める。

 下では大きな石の転がる山道で金色の大猿とそれから逃げる豆粒のような勇者と小さな女の子がいた。

 頭に金色の輪っかをはめている大猿を見てエリエルは怪訝そうに目を細める。


「あの金冠に手の仙鋼棍。まさか猿王ゴズクウか? 確かに猿であれほどのレベルといえば奴しかおらんが……千年前に伝説の勇者に倒されたのではなかったのか?」


 封印か死者召還か、或いはコピーか。

 単純に、かつての猿王のようにレベルアップして強くなった大猿がいないとも限らない。


「まあよいか。目の前にいるのだ、なにはともあれ戦えば関係ないじゃろう」


 あっさり思考を放棄した。

 基本的に脳筋きんにくバカさんなのだ。


「さて、と。折角なので、ここらで勇者の具合を見ておくとするかの」


 エリエルはそのまま空に留まり続ける。

 勇者が彼の絶望を前にどうするか興味が湧いたのだ。

 ただ、いつでも猿王を制止できるよう準備だけはしておく。

 一つ、また一つと呪文を唱えてゆっくりと大魔法が生まれていく。


 当の勇者は全ての荷物を放り出して一心不乱に女の子の手をとって逃げていた。

 彼我の絶対的な力量差を前にその判断は良しとできる。

 逃げるべき時に逃げず、蟷螂の斧で立ち向かうのは勇気ではなく無謀だ。


 大猿の手が振り下ろされる。

 周囲に影ができ、勇者は頭上に迫る脅威に気付いて慌てて横によける。

 そのすぐ隣で大猿の腕が地面に叩きつけられる。

 土ぼこりが舞い、乱暴に大穴が掘られる。

 勇者は必死に手を離さないようにして逃走を続ける。


 大猿が大地を蹴飛ばせば、抉り取られた岩石ごと土砂が二人目掛けて襲いかかってくる。

 勇者のすぐ後ろに大岩が降ってくる。子供などペチャンコにしてしまう大きさだ。

 もう少し遅れていたら死んでいた。

 ゾっとしながらも勇者は足を止めない。

 大岩が着弾した時に少々地面が揺れたが、強靭な足腰は崩れかけたバランスをかろうじて保ち続ける。


 繋がっている手の先にいる女の子を見る。

 苦しそうに溺れるように息をしながら、汗でプラチナブロンドの髪を額や首にはりつけている。

 もうとっくに限界だろう。

 それでも、足を止めれば無残な死しかない。

 走るしかないのだ。


 だが、やがて運命は閉じる。

 勇者と女の子は切り立った山の断層に追い詰められてしまった。

 正面左右全て高い崖の袋小路に阻まれ、もはや逃げ道はない。

 勇者は覚悟を決め、短剣を抜く。目の前の強大なモンスターを相手に、それは余りにも頼りなかった。

 それでも女の子をその背にかばって震える両足で前に出る。

 女の子は勇者の服の裾を握り、涙目で全身を震わせて怯えていた。


「ちくしょう……ちくしょう!」


 勇者は己を叱咤し、目前に迫る大猿を睨みつける。

 カタカタと短剣が鳴っていた。


 ゆっくりと歩みを進め、二人の退路を断つ大猿。

 そこで初めて大猿がその口を開き、鈍い大声を轟かせる。


「……憎イ。オレヲ封ジ込メタ、憎イ神官ノ臭イガスルノハオマエカ」


 かつて千年前の勇者には中核となったメンバーが2人いた。

 一人は格闘家。もう一人は神官だった。

 その神官の子孫は世界各地の大神殿へと散らばり、無論E国にもその血筋は続いていた。


 女の子はその血筋を引いた一人だ。ただし、不義の子という醜聞として大神殿によってその素性は一般から隠されていたが。

 そしてこの山に単身赴いたのはエリエルと同じ理由。不穏な気配を感じ取り、弱い魔物よけの水を使って山脈を西に向かっている所を不運にも先に大猿に見つかってしまった次第だ。


 大猿が右手に持つ巨大な金属でできた棍を振り回す。

 棍は仙鋼という、神の金属(オリハルコン)と双璧を為す東の最高位の金属でできた武器だ。

 振るわれた棍は、上手く狙いが定められずに勇者を掠めるにとどまった。


 だが、それだけで十分だった。

 短剣で受けようとする間もなく、洪水のように押し流される衝撃に勇者は木の葉のように宙を舞った。


「……猿の動きが鈍いの。本調子ではないのか?」


 空のエリエルが思案顔で一人首をかしげる。

 それからレベル1勇者と呼ばれ蔑まれてきた男の子の抵抗を観察する。


 今は修行でレベル30前後の格上のモンスターをあてがっているとはいえ、それはあくまでエリエルが命の保障をしている上でだ。

 勇者として旅立てば否応無しにもこうした恐ろしく強い敵と戦うことになる。それは決して避けられない。

 時には瀕死に追い込まれる時もあるだろう。


 痛みは恐怖だ。

 大の大人でも腕をひねり千切られ、肋骨を折られ、目をえぐり取られるのを想像するだけで身体が震える。

 幼い子供ならなおさら痛みには耐えられないだろう。


 本来ならもう少し育ててから、地獄の痛みと共に命を落とす事を意識させようと思っていたが、思わぬイベントが起きてくれた。

 これならより自然で、ちょうどいい試験になるとエリエルは思った。

 仮に死んだとしても、直後なら自分の魔法と完全霊薬エリクシールでギリギリ蘇生は可能だ。


 この経験は糧になる。

 恐怖して逃げ出すのなら、それも仕方ない。克服させるためにまた新たな訓練を施すだけだ。

 どうしても克服できないなら見限って終わりにするだけのこと。

 だがもしも恐怖を乗り越えて命をかけて立ち向かおうとするのなら、その勇気、魂は本物だ。後の訓練にも精が出るというものだろう。


 勇者の師匠は遥か高みから冷徹な目でこの突発イベントの行く先を見届けようとしていた。


 吹き飛ばされ、石や岩がそこら中に転がる地面に体を投げ出された勇者は体中傷だらけになっていた。

 足がもつれそうになりながらも女の子が勇者の元に駆け寄る。


「あ、ああ。やだ。ねえ、ゆうしゃのおにいちゃん、しっかり、しっかりして」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で懸命に勇者の体を揺する。

 勇者は呻きながらも、また立ち上がる。

 その足は生まれたての小鹿のように震えていた。


「だい、じょうぶ……だ」


 女の子に心配をかけぬよう笑う。笑ったつもりだった。

 大猿から逃げようと手を引いた時に気づいたが、この女の子は勇者の妹ダルクによく似ていた。

 だから驚き、そして手を離せなくなってしまった。

 その泣き顔が今は亡き妹に重なってしまうから。

 格好いい勇者に憧れた妹の期待を裏切らないためにも、この神官服を着た女の子を守るためにも、幼い勇者は恐ろしい怪物に立ち向かう。


 そこに大猿の足が一歩、また一歩と迫ってくる。その度に地面が大きく陥没する。

 その目は女の子から片時も離れない。


 勇者はあちこち痛む身体をおしてまた前に出る。

 大猿に一歩近づかれる度に折れそうになる心。

 瞬きした一瞬で軽く頭から潰される想像が止まらず、呼吸が犬のように乱れる。

 それを無理矢理飲み込んで、なおも胸を張る。


「ま……て。おまえの相手は……ぼくだ」

「雑魚ガ」


 一瞥すらしない。

 鞭のようにしなった尾が小さな勇者の右腕を折りながら胴体にめりこむ。

 その余りの強さに喉から血があふれ出た。


「フン」


 大猿は路傍のゴミを払いのけ、大口を開ける。醜悪に並んだ牙に唾液が伝う。

 取って丸ごと食らおうというのか、棍を持たない方の手を女の子に伸ばしてきた。

 女の子は恐怖で動けない。

 目の前に大きくなってくる大猿の手の平を見つめるだけ。


「おおおおおおおおおおおおお!」


 不意に、死地に雄叫びが上がる。

 折れた右腕をブラリと下げ、左腕で短剣を腰だめに構えて大猿の横腹に突進してくる勇者の姿があった。


「チッ!」


 大猿が雑に腕を振るう。

 生み出された爆風は辺りの地表を根こそぎひっくり返して勇者ごと吹き飛ばした。


「きゃああああああ!」


 その余波で女の子も回転しながら空を舞い、転がっていた大岩へ頭からぶつかって気を失った。

 そして流された血に大猿は醜悪に嘲い、近づいて指で拭い取る。

 途端、大猿が歓喜の声を上げた。

 大猿の体に一瞬白く輝く鎖のようなものがからみつくように現れ、すぐ弾けとんだ。

 それは大神殿の高等封印魔法。それが今、術者の子孫の血を鍵に解呪された。


「ギャ、ギャ、ギャ。コレデ、コノ猿王ヲ縛ルモノハナイ! オレハ自由ダ!」


 大猿、改め猿王の動きがうってかわって滑らかになっていた。

 本調子を取り戻した猿王が両手を頭の上で打ち鳴らす。


「ほう、やはり猿王であったか。これはこれは、血が滾るわ」


 上空のエリエルが一人満足そうに頷く。


「忌々シイアノ憎イ人間ノ血メ。腹ノ足シニデモシテヤロウ」


 涎を垂らしながら傍で倒れている女の子に手を伸ばそうとして、止まった。

 猿王の大地に這う尻尾の先を勇者が掴んでいた。


「どこを、見てやがる……こっちだ、エテ公。あいてはぼくだと……言っただろうが」


 大猿が振り向く。

 羽虫に付きまとわれるような感覚に大猿の苛立ちが増していた。


 ノヴァがこの国に流れついた時にはもう何もかもが失われていた。

 それからしばらくの間を虚ろに過ごし、その後は生きるだけで手一杯だった。いや、このままだと次の冬には死ぬだろうとすら確信していた。

 ろくな食べ物も服もなく孤児院で働かされ、病気にかかっても休みはない。

 そんな時に国から勇者にならないかと誘いをかけられた。

 初めに浮かんだのは亡き妹の笑顔。物語の勇者に夢見た、無邪気な笑顔だった。

 自分がその勇者になる。

 勇者になって、誰かを妹のように嬉しそうな笑顔にすることができる。

 それは、とても素晴らしい事に思えた。

 妹のあの笑顔を、また見ることができるかもしれない。

 そんな夢が第一にノヴァの胸の中にあった。

 暮らしの向上はその次だ。


 そして頑張った。頑張って妹に語り聞かせたような『勇者』になろうとした。

 例え冷笑を浴びせられても、石を投げられても、罵声を受けても。いつかはきっと……。そう思ってこれまで頑張っていた。

 もうノヴァには『勇者』しか残されていない。

 だから、ノヴァは『勇者』にしがみつく。


「ぼくは……っ! たとえレベル1でも! この国の! 勇者だッ!!」


 頭から血を流しながら、吼えた。

 安物の短剣を金色の尾に力いっぱい突き立てる。

 が、猿王の剛毛は容易く剣を弾き返した。

 無残な現実に顔がくしゃくしゃに歪む。


「キサマ如デオレニ傷ヒトツデモツケラレルト思ッタノカ、愚カ者メ」


 猿王の胸が膨らみ、大きく息を吸う。


「ガッ!!」


 勇者に向けて放たれた音の爆弾。

 それは勇者の鼓膜を容易く破り去った。


 新たに耳から血を流し、バランスを失って倒れる。

 猿王はそこらに転がっている大岩の一つを取り、軽々と放り投げた。

 倒れた勇者の上に大岩が降ってくる。

 大岩は勇者の足元に落ち、左足を潰した。


「イッ、あああああああッ!」


 絶叫。

 しかしそれもやがて途絶える。

 そして勇者はピクリとも動かなくなった。


「……ここまでか」


 エリエルは淡々と呟いた。

 だが内心は十分な満足を覚えていた。

 あそこまでボロボロになって、倒れるまで女の子を守ろうと奮闘した。

 これだけでもう望外の評価はできるだろう。


「さて。ではいくかの」


 もう限界だろう。

 そろそろ割って入らねば間に合わない。急いで癒しの魔法をかけなければ。

 そう思い、翼を鋭角にたたみ突入の準備に入る。


 その時だ。


「む?」


 視界の端で、勇者の腕が動いた。

 土を掴み、腕を立て、左足を岩から抜いて持ち上げる。


「まさか、立つというのか……?」


 咳き込む度に血を吐き、内臓は既にいくつか破裂している。

 右腕は折れ、ぶらりと力なく垂れ下がっている。

 左足は潰され、肉塊となって血を流している。

 自分の出した声すら聞こえず、目はぼんやりと霞んでいる。

 鼓膜の奥の三半規管は狂い、バランスなどとれないはずだ。


 ありえない。

 どんな勇者でも、どんな戦士でも根性でどうにかなるものではない。

 あの状態で立ち上がるなど、それこそ夢物語の偶像の『勇者』だけだ。


 決して勇者とは言えない惨めな姿。人が憧れ、尊敬する勇者の姿とは程遠い幼い男の子。

 歯をくいしばり、目を見開き、呼吸は小刻みに震える。

 みすぼらしくも、無様に震えながらか弱い者が潰れた足で血肉を撒き散らしながら大地を踏みしめ立ち上がる。

 間断なく全身を暴れ狂う激痛に目と鼻から雫をこぼしながらも、その瞳だけは目の前の死から決して逸らさない。


「……」


 それをエリエルは瞬き一つせず黙って見守る。

 そこにはいかなる感情もなく、能面のようだった。

 ただ、知らず固く握った拳には汗が一つ。


「――」


 勇者が何か言おうとして、しかし言葉にはならなかった。

 口を開こうにもそんな状態ではない。


 目は焦点が合わず、天地の感覚すら危うい。

 どう見ても死人一歩手前。

 いや、とうに激痛でショック死してもおかしくない。

 これでどうして喋れるというのか。


 だから、勇者は黙ってかろうじて動く左腕で短剣を掴み、持ち上げて突きつける。

 少しでもこちらに注意を向けるために。

 ほんの1秒でも長く女の子を助けようと。

 目を逸らさず、口から血反吐を吐きながら、全身汗と土ぼこりにまみれながら。

 醜い肢体を晒して、溢れる涙をぬぐうことすらできず。

 無様に足掻く。


 ――最期まで勇者たらんと。


 そうして、幼い勇者ノヴァは目を見開きながらゆっくりと大地に倒れていった。

 意識を失うその時まで自分への絶望に心を犯されながら。




 天空に座す大魔王エリエルはその一部始終を見届けた。


「素晴らしい」


 思わずそう恍惚と呟く。


「素晴らしい。素晴らしい。実に素晴らしい。ああ、これは」


 胸に手を当てて、ゆっくりと目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶは幼い勇者の姿。

 強く光輝く、金の卵。

 自分を存分に満たしてくれるやもしれぬ希望。


「これは至極いい勇者になる」


 こみ上げてくる笑いが抑えきれない。

 まさかこんな勇者がこんな所にいるなんて。

 今、この時をもって大魔王エリエルは勇者ノヴァに魅せられた。


「魔王城に来る時が楽しみじゃの」


 優しい、とても優しい慈母さながらの顔でエリエルは勇者の姿を見つめていた。

 胸に灯った狂おしいまでの殺し合いの衝動(あいじょう)を秘めて。


「そうとなれば坊やが死ぬ前に何が何でも助けねばな」


 瞬間、エリエルの全身を包み隠すように吹雪の竜巻が起こる。

 吹雪が治まった後、そこには完全装備の大魔王エリエルがいた。

 右手に己の身の丈の倍を超える長大な斧を持ち、厳しい竜骨の兜をかぶり、純白の雪のように白く女性的で優美かつ流麗な鎧を身に纏い、その下には鮮血のような真っ赤なドレス、白銀狼をかたどった小手を腕にはめ、右腕には悪魔より贈られし金の腕輪、右耳には天界から追放されながらも戦神より称えられた証の白羽の耳飾りが下がる。


 E:(ランクA)魔神の斧

 E:(ランクB)氷竜の兜

 E:(ランクA)月星の白鎧

 E:(ランクA)堕天使の血羽衣

 E:(ランクA)氷狼神の小手

 E:(ランクB)戦乙女の耳飾り

 E:(ランクB)金羊悪魔の腕輪


 荒れ一つない白い指先を天に掲げる。

 その先にはまるで丸太のように巨大な黒い氷槍が浮かんでいる。猿王の動きを止めるために先ほどから準備しておいた大魔法だ。しかも、たっぷり時間をかけてそれを同時にいくつも作り上げていた。


 それがエリエルの指示の元、眼下の猿王に一斉に振り下ろされる。

 呪氷による捕縛魔法。

 突然の空からの超高速飛翔体にすぐさま猿王は気付き最上級の炎の結界を張るが、易々と貫通されその胸を、腕を、足を、腹を射抜かれる。

 黒ずんだ氷槍は己の役目を果たそうと冷気を吐き出し、雷を放出しながら猿王を留め置く。


 猿王は驚愕した。

 まさかレベル84の自分を縛れる者がいるなどと、当時のレベル90大魔王以外には存在しなかったのだから。

 そもそもレベル80を超える者など歴史上でも数えるほどしかいない。千年前は猿王と大魔王の2者のみ圧倒的に突出していたのだ。

 かつて封印されたのは、あくまで勇者の神剣によって極限まで弱らせられていたからだ。

 しかし今は違う。完全な力を取り戻し、全盛期の力を満足に奮える状態だ。

 なのに。

 なのに、今自分は縫い付けられている。


 猿王は吼えた。

 ありえぬ。認められぬと。

 心の奥底に鎌首をもたげて生まれた黒い絶望を掻き消すためにも。


 それが一つだけなら猿王の力でもってすぐに砕けただろう。しかしこうも同時に動きを縛られていてはそうもいかない。

 猿王は動かない体で暴れる。その度に呪黒氷の槍はその力を削られていく。


 そうして動けぬ猿王の前に悠々と一人の堕天使の女が降り立った。

 猿王からはその背しか見えず、しかしそれでも3対6枚の漆黒の大翼に目を剥く。


「馬鹿ナ……ソノ翼ノ数、ソレハレベル90以上ノ最上位ノ天使ニシカ顕現セヌハズ……伝承ノ中デシカ存在シナイハズダ!」


 ピタリと動きを止め、震える声でそう言った猿王に見向きもせず、エリエルは黙って勇者の元に歩み寄る。

 そして元天使は最大級の癒しの魔法を使い、太陽の如き眩さの光を勇者に浴びせる。

 すると、今までの勇者の傷は全て癒え、あとは失った体力を回復しようと安らかに深く眠る勇者の姿があった。


 次に同じく気絶している女の子の元に行き、同じように癒しの魔法をかける。

 女の子の息が安定したものになる頃、ようやく猿王の氷の楔が抜き放たれた。


 エリエルは最後に二人をまとめて置きやり、結界を張る。

 これからの戦いの余波は大地を削り、地形を変えてしまうくらいの規模になってしまうため、そのままではすぐに死んでしまうだろうから。


「さあ、始めようか猿王よ」


 全ての心配事を片付け終えて、エリエルははじめて猿王と向き合った。


 ほほを微かに赤く染め、童女のようにあどけなく笑う。

 可憐な乙女は、しかしその目に狂おしいまでの情動を輝かせ、笑う。

 足元から際限なく噴き出す噴火のごとき闘気が赤髪を炎のように、タテガミのようにゆらゆらと逆立たせる。


 かつて伝説の勇者が現れるまで、人の世において誰一人とてその暴虐を止められなかった猿王。

 それがエリエルの狂愛を前に、最大限の警戒と恐怖をあらわにして一歩後退った。


 ちっぽけな鎧姿の女が一歩、踏み出す。

 それだけで大地に放射状のヒビが入り、空気が震え、遥か後方で土砂崩れが起きた。


「あははははははははは。さあ、楽しもうぞ。そなたほどの相手との一騎打ちは儂も初めてじゃ。

 ああ。ああ。ああ。なんと心躍るのか。存分に互いの血肉をむさぼり合い、儂の身体を壊してみせよ。儂も全力を以ってそなたを迎えようぞ。さあ、いざ。いざ。いざ」


 エリエルは切なそうに荒く、熱い息をこぼす。

 その背には3対6枚の漆黒の大翼が広がる。

 蕩けるようなその表情。これぞ、かつて魔界をたった一人で蹂躙した堕天使。

 金色の瞳が決して逃がすまいと猿王を捕らえる。


「存分に儂の愛を(ころし)受け取っておくれ(あおうぞ)


 今代の大魔王。レベル97。氷天のエリエルが。

 今ここに舞い降りた。


「うふふ。はは。あはっ、あははははははははははははははははははははははははははははは!」



 ☆☆☆☆☆



 ……さむい。


 ああ、さむい。


 とてもさむいのに、腕がうごかねえ。


 うう、このままだとぼく風邪ひきそうだ。


 でも、どうしてこんなにさむいんだ。


 あれ、ほんとに体がなまりみたいに重いぞ。


 こまった。


 さむい風がふいてるな。


 でも、ときどきぬるくなるのはなんでだろう。


 なんだ。ときどき体がゆれる。


 ゆれるたびにどこか遠くから音が聞こえてくる。


 これって……師匠の声か?


 師匠、笑ってる?


 さむい。


 なんかすっごいはしゃいでるような……


 ほかにも、なんか太い声がする。


 こっちは、なんだろう、すごくひっしな声だ。


 ああ、さむい。


 ……ん?


 なにかある。


 いったいなんだ? でもあったかいな。


 よいしょ、よいしょ……ああ、うでを一つ動かすのもつかれる。


 でもまあ、あったかいのをだきよせられたし、いいか。


 せなかはすごくさむいけど、このだいてるもののおかげで正面はあったかい。


 ……ねむい。


 だめだ、もうちょっとねむろう。


 ………………。



 ☆☆☆☆☆



 勇者が初めに見えたのは、薄暗い空だった。


「お。目が覚めたか坊や」


 師匠が上から顔を覗き込んでくる。大きな出っ張りがあって、少し顔が隠れていたけれど。

 その後ろには一緒に逃げていた、神官服の妹に似た女の子の顔も見えた。何故か女の子の顔に勇者が頭に被っているサークレットの跡があったが。

 うまくはたらかない頭でそれをぼんやりと見つめる。

 そして何故自分が倒れていたかを思い出した。


「そうだ! あのオオザルは!?」


 勢いよく師匠の柔らかな膝の上から上半身を起こす。

 そこで勇者は呆然とした。


「どこもいたく……ない? そんな、傷がないなんて、どうして」

「ああ、儂が魔法で癒しておいた。どうじゃ、師匠はすごいじゃろう」


 なんでもないようにカラカラと笑うエリエル。

 それを、何か恐ろしい夢を見たかのように絶句する勇者。


 そこでふと違和感を覚えて辺りを見渡すと一面銀世界だった。

 先ほどから寒かったのはこれが原因だった。


「夏に……雪?」


 吐く息は白く、木には樹氷が垂れ下がっている。

 一体気を失っている短い間にどれだけの雪が降ったというのか。吹雪いたとしか思えないほどの積雪量だった。

 遥か先の山まで雪を被っているというありえない光景に勇者はもう分けがわからなくなった。

 更に違和感を覚え、上を見る。


「太陽が、ない……」

「日食じゃ。まあじきに欠けた太陽も元に戻るじゃろう」


 辺りが暗かったのはそれが原因だった。

 空には黒い円が浮かび、そこから漏れる光が白い指輪みたいだ。


「ぼくらを追いかけていた、オオザルはいったい……」

「あやつなら、ほれあの通りじゃ」


 エリエルが指を指す先。起きる前まであったはずの山や木々などがなくなり、雪に埋もれた平地になっていたり、まるで隕石が落ちたかのような巨大なクレーターができていたりするずっと先。

 そこに大猿がいた。

 遠目からかろうじて分かったのは、全身の毛皮は切り刻まれて血に染まり、腹に大きな穴があいている事。

 勇者が手も足も出なかった怪物は薄黒い氷に全身氷漬けにされ、その中で息絶えていた。


「し、師匠がたおしたのか?」

「うむ。なかなか手ごわかったぞ」


 ポカンと口を開ける勇者。

 よく見ればエリエルの綺麗な顔が煤けており、頭からは血が流れ出た跡がわずかに残っている。

 革鎧と赤い長袖の服とズボンに隠れて見えないが、いくつか体に痣もできていた。


「そっか……」


 力が抜けたようにへたりこむ勇者。同時に瞳が虚ろになる。

 口の端をほんのわずかに歪め、頭を垂れる。

 自然と低く小さな嘲い声が漏れた。


「あの……おにいちゃん、だいじょうぶなの」

「ああ、よかった。無事だったんだ……うん。ぼくは大丈夫だよ――師匠のおかげで」


 おずおずとエリエルの隣から顔を出してきたのは勇者が助けようとした女の子だった。

 女の子は泣きそうになりながら、頭を思いっきり下げた。


「たすけてくれてありがとうございました、ゆうしゃのおにいちゃん」

「……勇者?」

「う、うん。だってゆうしゃだよね。おにいちゃん、だいしんでん(おうち)で見たことあるよ」

「勇者……ぼくが、勇者。ははっ」

「お、おにいちゃん?」


 突然不穏な様子で笑い出した勇者ノヴァ。

 それにどこか薄ら寒いものを女の子が覚える。


「……じゃない」

「え?」

「ぼくは、勇者なんかじゃない!」

「きゃっ!?」


 それは血を吐くような叫びだった。


「勇者はもっと強くて、もっとカッコよくて、もっとなんでもできて……こんな、だれも助けられないぼくが勇者のはずなんてない!」


 ノヴァの心が、折れた。


 今までどんな目で見られようと、どんなひどい扱いを受けようと、前を向いてこられたのはノヴァが『勇者』になろうとしていたからだ。

 妹が好きだった勇者。妹の憧れた勇者。

 それに相応しくなれるよう頑張っていた。


 そして今日、その勇者としての責務を果たせなかった。

 弱くても仕方ない。いつかきっと強くなれる。

 皆から馬鹿にされても仕方ない。今は頑張って少しでも認めてもらえるよう頑張ろう。


 けれど、襲われている女の子を前に何もできなかった。

 師匠が助けてくれなければ自分は醜い屍を晒していただろう。


 うな垂れ、顔も上げられずにノヴァは地面に降り積もる雪を乱暴に握り締める。


「ぼくは……こんなよわいぼくのどこが……ひっく、ゆうしゃ……っく、なんだよ」


 ポタポタと熱い水滴が雪の上に滴る。

 それを見て女の子はどうしていいか分からず、オロオロとする。


 そこにエリエルが嘆息一つ吐いて立ち上がり、ノヴァに近づいた。


「未熟者」


 ノヴァの脳天に拳骨が降る。

 その重さにたまらず顔から雪に突っ込んだ。


「弱いのは当たり前じゃ。格好よくないのも何もできないにも当然。人間の9歳などヒヨッコもいいとこじゃ。何を自惚れておる、坊や。未熟者の分際で欲張りすぎじゃ」


 しゃがみ込んだエリエルがノヴァの首根っこを掴んで真正面から向かい合う。

 柔らかい金色の瞳がノヴァの黒い瞳を絡め取る。


「弱き者は勇者ではない、か? なら強くなればいいだけじゃろう」


 なんでもないようにあっけらかんと言い放った。


「それぞれ成長速度がある。人間は極々一部の早熟な天才とやらを除いて20年以上かけてその身を伸ばしていく。人間の勇者はそうしてその爪と牙を研ぎ続け、儂の所――ぅん! 大魔王へと挑むのじゃ。それがたかだか9年ごときで勇者ではないと見切るには早すぎると思わんか?

 坊やはこれからじゃろう。これから努力し続け、研磨し、高みを目指せば良い。そしてそのために儂がいるのじゃからな。

 まだ歩き始めたばかりで何が勇者じゃない、じゃ。その言葉はレベル20を超えて言うことじゃな」


 そう少し意地悪げに言った後、首根っこを掴んでいた手を離す。

 フッとエリエルの表情が緩んだ。


「この国の誰もが認めずとも、儂は坊やを認めておるぞ」

「え……」


 ノヴァの目に僅かばかりの光が差す。


「坊やの身であの猿王に向かっていく姿は実に見事であった。この世界にいる数多くの勇者や戦士でも、坊やのように立ち向かえる者はそうはおらんさ。

 だからの、儂は坊やを素晴らしいと思っておる。師匠の誇りじゃ」

「あ……」


 偽りのない、掛け値なしの心からの賞賛。

 それはノヴァの心に優しく染み渡る。

 気がつけば、ノヴァの視界が少しずつ滲んでいく。


「勇者になれ、坊や。どんなに無様でも泥臭くてもみっともなくとも良い。坊やの勇気は本物の宝。それは大事に育てるべきものじゃ」


 力強い言葉。

 強く、気高く、美しい雌豹の如き女性から目が離せない。

 彼女から言葉が紡がれる度にノヴァの落ちていた心が押し上げられていく。


「ぼくは……また勇者を目指していいのかな」

「うむ。無論じゃ」

「……師匠。ぼくは、勇者になれるかな」

「なれるとも。儂が保障しよう。誰でもない、この大魔王わしがな」


 温かい言葉と最高の笑顔と共にエリエルは言った。


「わ、わたしも……そうおもうよ!」


 横で心配そうに見ていた女の子が勢いよく、勇気を振り絞るように大声で後押しをする。

 それにノヴァは一度顔を伏せ、また上げた時にはその目に強い決意を宿していた。


「…………うん。ぼく、もう一度がんばる」

「よし。それでこそ男の子じゃ」


 大人の男性に比べれば小さい、けれど子供にとっては大きな手。

 その白く繊細で滑らかな美しい師匠の手がノヴァの頭をそっと撫でる。


「よくぞ頑張ったの。偉いぞ、よしよし」

「し、ししょう……ししょぉ……」


 何度も鼻を詰まらせ、しゃくりあげながらボロボロと涙をこぼすノヴァ。


「これ、男の子がそう何度も泣くでない。

 ……仕方ないの、ほれ儂の胸を貸してやろう。たっぷりと隠れて泣くがよいぞ」

「うん……」


 そう言いながらも、互いの背丈の関係でノヴァの顔はエリエルの腹に埋まる。

 必死に抱きつきながら、ノヴァは師匠の腹の上で泣いた。

 声を押し殺して泣いて、悔しさと不甲斐なさ、苦しさ、情けなさ、惨めさ、そして嬉しさを全てない交ぜにした涙を流した。


 エリエルはそんなノヴァの再起を嬉しそうに見守っていた。


 しばらくして、ノヴァはやや顔を赤く染めながらエリエルの腰に回した手を解き、離れる。


「もう、だいじょうぶだ。その、ありがとう」

「そうか」


 泣き止んだ勇者にエリエルは花がほころぶような笑顔を見せた。

 それはまさに純真無垢を形容するに相応しい天使の微笑みだった。

 それを見たノヴァの心臓が一際大きく跳ねる。

 初めて感じる不思議な感覚に胸を締め付けられ、一気に顔が熱を帯びて火照ほてる。


「ははは。まあ大きくなったら次は好きな女子に貸してもらうと良いぞ」

「……!」


 その言葉で不意にノヴァが想像したのは大きくなった自分とエリエルが抱き合っている姿だった。

 その突拍子もなく浮かんだ光景に、ますます顔を真っ赤にして振り払うように頭を振る。


「よし。これはこの女子を守ろうとした坊やへの褒美じゃ」


 そっと幼い勇者の男の子の額に手を伸ばし、顔を近づける。

 そしてキスをした。


「……え」


 血と汗の匂いという女性らしさとは程遠いエリエルの香りが離れていく。

 残った柔らかくも温かな感触を基点に、じんわりと何か熱いものがノヴァの全身を巡る。


「えええええええええええ!?」


 壊れたように叫び声をあげる。

 気がつけば首まで真っ赤になっていた。


「おう、そう喜ばれるとは嬉しいのう」

「あ、う、え」


 イタズラに成功した子供のようにエリエルは笑っていた。

 片やノヴァは顔を伏せ、ごにょごにょと言葉にならない言葉を呟いている。

 そんな二人の様子をどこか羨ましそうに見ていた女の子に気付き、ノヴァが慌てて取り繕うように大声を出す。


「あ、そ、そうだ! きみの名前はなんていうんだ? おくって行く先は神殿でいいのか?」

「あの、わたしセアって言います。すんでいるところはだいしんでんです」

「そっか。ぼくはノヴァ」

「儂はエリエル。流れの剣士じゃ」

「はい……あの」


 セアと名乗った女の子は、もう一度頭を下げて言った。


「こわいモンスターからたすけてくれてありがとう……ゆうしゃのおにいちゃん」

「……あ」


 その女の子の顔とノヴァの妹ダルクの顔が重なる。


 ――ありがとう。おにいちゃん。


 鼻の奥がまたツンとなる。

 ずっと見たかった笑顔が、そこにあった。







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