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やっぱり魔王城。
「ど、どういう事だ……」
大魔王エリエルの私室をこそこそ覗き込むようにして側近は脂汗を流し、顔面を真っ青にしていた。
部屋の中では漆黒の翼を大きく広げ、真剣な表情でエリエルが何か手の中の小物をいじっているようだ。
エリエルの手の中にあったのは一枚の黒羽。
自分の翼から抜き取った羽だ。
強力な魔力を秘め、風と呪氷の属性を帯びた羽。活火山の火口にでも投げ入れれば一瞬でマグマが冷え固まってしまうほどの力を持つ。
それを中心に呪氷で覆い、綺麗な正多面体になるようカットを続ける。
呪氷は冷気を吐き出し続けながらも、決して融ける気配はなかった。
永久凍結。
時止めの呪法に近い性質で、封印魔法にも用いられる。極めて繊細で高レベルの魔法だ。
部屋からはご機嫌そうな鼻歌が小さく届いてくる。
「まさかここ最近よく抜け出していたのは……す、好きな人ができたからとでも言うのかっ!?
あの、あの戦闘中毒者の大魔王様が、優先順位にぶっちぎりというか別次元で闘争が第一位に輝くようなあの大魔王様に!
わ、私はどうすれば……!」
頭を抱えて苦悩する側近。完全に誤解です。
その胸には呪氷のペンダントが揺れている。
今まさにエリエルが部屋で作っている物と同じ、彼女の黒羽を中に封じたペンダントが胸に下げられていた。
☆☆☆☆☆
勇者に師匠ができて二月経った。
勇者は王都で一人、宿にいた。
相変わらず師匠から言い渡された基礎体力メニューを午前でこなし、午後は魔法の授業。
「まったく。フレアはいちいち口やかましいんだから……」
いつの間にか第三王女を呼び捨てにしていた。
今日の予定が終わった頃、王都は雨に包まれていた。
魔法使いの先生から借りて読み進めていた本を閉じ、部屋の窓に近づく。
外で石畳を打つ雨を窓から眺める。
しとしと。
しとしと。
ぼんやりと眺める。
ここ数週間、師匠の姿が見えなかった。
1週間ほど空いた事はあったが、これほど長いのは初めてだった。
「もう来ないのかな……」
脳裏にバカ笑いする女剣士が浮かぶ。
「それとも、どこかでモンスターかなにかにやられてしまったのかな」
5日間山篭り訓練など、訓練は過激よりむしろ死と言った方がしっくりくるほどだったが、それでも鍛えてくれるのは――いや自分に手を差し伸べてくれるのは嬉しかった。
こうして顔を見なくなって、初めてそんな風に思ってしまった。
「……はぁ」
何回目か忘れてしまった重いため息をつく。
また頭に陽気で茶目っ気を覗かせる師匠の顔が浮かぶ。
綺麗な女性だというのは幼い男の子の勇者も認める。
例え中身がどれだけひどかろうと、「儂」などと変に年老いた口調であろうと、それでも勇者は思う。
きっとああいうのが生きる女神なんだろうな、と。
決して忘れる事ができないくらい綺麗で溌剌とした女性だった。
会いたい。
もう一度、また師匠に会いたい……
不安だけが大きく膨らんでいく。
「くそ……べつに、平気だし」
弱気になっていた心を振り払うように頭を何度も振る。かろうじて泣くのを堪えた。
そもそも、どうして自分がこんな風に落ち込んでいるのか。
これじゃあまるで、寂しがっているようじゃないか。
「いやいやいや」
それはない、と鼻で笑おうとして……失敗する。
強がろうとして、それもできずに勇者は顔を伏せる。
幼い男の子は一人、静かな部屋に佇む。
雨の音だけがしていた。
「けど」
気がつけば、鼻をすする音がしていた。
「けど、なんでぼくはこんなに……」
また空を見上げる。
厚い雨雲に覆われた空はまったく晴れる気配がなかった。
「そうだ。墓参りに行こうっと」
気分を一転。暗い気分を吹き飛ばすように、自分の提案に大きく頷く。
そうと決めればぱぱっと準備をして宿を後にする。
目指すは街外れの共同墓地だ。
そこに勇者の妹と、遺体こそないが両親の墓が比較的新しく作られていた。
☆☆☆☆☆
E国勇者のノヴァは、元々は海を越えた先にある東の国の民だった。
町商人の両親は戦火が激しくなった国を逃れ、貿易船で一家ごとE国に渡ろうとしていた。
『にいちゃ、にいちゃ』
一つ下の幼い妹ダルク。同じ黒髪黒目で大人しく、やや垂れ目のかわいい女の子。
よく兄のノヴァの服を掴んで放そうとせず、どこにでもついて回った。
長い船旅でもそれは変わらず、広いとは言えない帆船の中を二人で遊んで過ごしていた。
妹は勇者のお話が好きだった。
いつもねだるお話には必ず勇者の話があった。
特にお姫様を悪い魔王から助け出した勇者の話を話して聞かせると、一言も喋らずずっと兄を見つめながら聞き入っていたものだ。
『にいちゃはゆーしゃさま』
『ぼくがゆうしゃ?』
『にいちゃはおひめさまたすけるの』
兄の手を取って、「おひめさま」の所で自分の方へ引っ張る。
『わかった。ぼくはゆうしゃだ。ダルクがおひめさまだな』
『うん』
妹が嬉しそうに笑いかける。
ノヴァもそんな妹を見て自然と笑みがこぼれてきた。
全てが狂ったのは、E国まであと1日という所まで来た時。
船は嵐に遭遇した。
叩きつける豪雨。
大きな唸り声をあげる暴風。
碇をおろし、船を止めようとしてもまるで小船のように大波に翻弄された。
舵もきかず、やがて船は座礁して真っ二つに大破。
乗組員や他の乗客と一緒に、一家は揃って嵐の海に投げ出された。
波に呑まれる前に兄が見たのは、さらわれていく妹の姿。
悲鳴もあげられず、恐怖で必死に兄に手を伸ばそうとしながら波間に消えていく姿だった。
翌朝、ノヴァはE国王都の西の海岸に流れ着いた。
そこに通りがかった旅人に助けられて一命を取り留めた。
しかし両親は見つからず、妹は兄が倒れていた場所からやや離れたところで流れ着いていた。
二度と目を覚まさず、物言わぬ姿となって。
ノヴァは一人孤児院へと引き取られ、生きる屍として一月を過ごした。
余所者の孤児に対して孤児院は決して暖かくはなかった。
当時、強力なモンスターによる海上封鎖で主産業の海上貿易がほぼ止まり、王国の経済が混乱していたこともあって王都はギスギスした暗い雰囲気に包まれていた。
目に見えぬ圧迫感ははけ口を常に探しており、それにノヴァが選ばれる。
同じ子供達にいじめられ、大人たちにぶたれる時も多かった。
それでも癒えぬ心の傷に少しずつかさ蓋ができてきた頃、E国の勇者が死亡した。
勇者に授けられる紋章が突然王家で厳重に保管されている神器に浮かび上がった事により、E国の勇者が死亡したことが分かった。
本来勇者の紋章は神器に宿っており、勇者が指名された時に紋章は神器からその勇者へ移される。勇者が死ねば自動的に紋章は神器へと帰ってくる仕組みだ。
未だ失業と経済損失を埋めるべく奔走している国に、新たに勇者を出して支援するだけの金はなかった。
そこで選ばれたのがノヴァだった。
余所者の孤児。死んでも誰も困らず、金を出さなくても誰も文句を言わない、一時の穴埋めには最適だと勇者に選ばれた。
そしてノヴァもそれを受け入れた。
勇者になれば最低限の暮らしは保障されると約束され、今いるろくでもない環境よりはいいはずだと何も知らない幼い男の子は頷いた。
それに勇者に対する憧れもあった。
妹が瞳を輝かせて喜んでいた勇者に自分がなるんだと、わずかな期待を胸にノヴァはE国の勇者の紋章とサークレットを城でそっけない儀式と共に受け取った。
だが、勇者となってもノヴァの境遇は変わらなかった。
とりあえずといった風に安物の剣と服を与え、あとは好きにしろと放り出す。
本来なら宿や船、装備の支給など様々な便宜をしてくれるはずの国は、最低限の食事代と宿代だけを城に請求してよいと許しただけ。
勇者パーティとして一緒に大魔王を倒しに来てくれる仲間を集めに酒場や訓練場に行っても、お先が見えている勇者の仲間になろうという者は誰一人いなかった。
こうして、万年レベル1と嘲られるE国の勇者が誕生した。
そして半年以上ずっと一人でいた勇者ノヴァは、ある日流れの女剣士に身を扮した大魔王エリエルと出会う。
☆☆☆☆☆
「おう。ここにおったか」
「し、師匠!?」
降りしきる雨の墓場の中、掃除をしていた勇者の前に野獣の如き美しさをもつ師匠エリエルが現れた。
思わず手の雑巾を取り落とし、まじまじと見つめる。
偽者でも幻でもない、本物だと知ると勇者はすぐにでも駆け寄ろうとし、自制する。
エリエルを見て一瞬で明るくなった顔を、また一瞬で不機嫌そうに変えた勇者は睨みつけるように言った。
「い、今まで何してたんだよ。そんなバカ面ひっさげて急にでてきて」
「いや、すまんすまん。ちょいとばかり勇者の挑戦が立て続けにきてたのじゃ。それで忙しくて魔王城を空けるわけにもいかなくての」
「ふ、ふーん」
ほんの一瞬だけ獰猛な笑みを浮かべるエリエル。
勇者はそれに気付かず、ただ生返事を返しただけ。
勇者にとって師匠とは謎の人物だ。
どこからか現れ、自分を鍛え、またふらりとどこかへ去っていく。
流れの女剣士らしいが、どこかの城に仕えているのだろうか。
これだけ強いのだから、もしかしたら高レベル勇者パーティの一員だったのかもしれない。
「それと、これを作っておったのでな」
エリエルが懐から何かの鎖を取り出す。
鎖の先には綺麗な形をした大きな水晶のような物があり、水晶の中には黒い羽が一枚浮かんでいた。
怪訝な顔をしてその正体不明なアクセサリーを覗き込む勇者に、エリエルは優しく微笑んで勇者の頭を撫でながら言った。
「2日ほど遅れたが誕生日祝いじゃ。受け取るがよい。儂の手製のペンダントじゃぞ」
勇者の手を取り、その上にペンダントを置く。
受け取ると、わずかにヒヤリとした空気がその手に届く。
勇者はポカンと口を開けていた。
「ほ、本当に……?」
1年近くずっと周りから冷たい目でしか見られなかった男の子。
冷笑。嘲笑。罵声。
仲間も友達も家族もいない。ずっとたった一人。
だから、こうして誰かから温かい言葉とプレゼントをもらうことなど思い出すことすらなかった。
「久しぶりに作って、なかなか思うとおりの形にならんでの。思ったより時間をくってしまった。お守り代わりに身に着けておくといい」
「あ……」
エリエルのこれはあまりのも予想外で。
勇者は止める間も強がる間もなく、雫が頬を伝う。
黒い目から溢れた雫は雨粒に紛れてすぐに見えなくなる。
「あ、ありがとう……師匠」
「うむ。坊やが気に入ってくれるといいのじゃが」
「うん……うん」
勇者は壊れたように何度も頷く。
「あはは。坊やが素直になるとは。それほど喜んでくれたということかの。いや、贈る者冥利に尽きるものじゃ、うむうむ」
「う、うるせー」
いつもの生意気な憎まれ口もどこかさび付いたようにぎこちない。
そんな勇者の様子にエリエルはいよいよいつもと違う空気を嗅ぎ取る。
そして何を思ったのか、ヒョイっと軽々と勇者を正面から抱き上げた。
勇者が慌てて手をバタつかせるも、既に硬くロック済みだ。
エリエルの手がその小さな背中に回され、優しく撫でられる。
自然と顔と顔が近づく。
そのエリエルのあまりの造形美に思わず勇者の顔が後退る。
それに構わず、エリエルは聖女のように厳かな顔で話しかけた。
「なんぞ心が乱れておるな。誰ぞ親しい者でも思い出しておったか」
「……妹と、とうちゃんとかあちゃん。ここは家族みんなのおはかなんだ」
「そうか」
しばし安らかな沈黙が続く。
「師匠、あったかいな」
「うむ。もうしばしこうして温めてやろうか」
「…………うん。ありがとう」
「ふふ。坊やのその顔を見れただけで、お礼は十分じゃ」
「なんだよ、それ」
勇者が小さく笑う。
エリエルはその頭をそっと自分の胸に抱え込んで、抱きしめた。
いつの間にか雨はあがり、雲間からうっすらと光が差し込んでいた。
☆☆☆★★
――から今宵で千年目。その新月の夜。
E国から海を越えて西に進むと滅んだ国の島があった。
既に忘れ去られて久しい島。
かつては大きな神殿であった廃墟。そこから地響きが轟く。
地響きはやがて地震となり、島を激しく揺らす。
大津波が島に押し寄せ、海の上を竜巻が踊る。
夜空は燃え上がり、隕石が降り注ぐ。
ここに封印の力は破られ、猿王が世に解き放たれる。
かつて極光の勇者により滅ぼされた、レベル90の大魔王が率いし魔王軍。
その八魔将筆頭にして、たった一将で全世界を滅ぼしかけたレベル84の猿王ゴズクウ。
その咆哮が無人の島に木霊した。