15-2-A
大地の上を撫でるように走り抜ける風。もう冬の到来を間近に感じさせる冷たさだった。空には雲の下を悠々と泳ぐ怪鳥がいる。遮るもののない無人の色あせた草原にノヴァはエリエルに呼び出されていた。
ちょうどノヴァもエリエルに話、というかお願いがあったのでちょうど良かったとばかりに浮き足立っている。
セアは残念ながら神殿だ。あちらはあちらで旅に出るには色々とやることがあるらしい。
ようやくノヴァの周辺も落ち着きを取り戻していた。装備も新しく国王から下賜され、色々と旅に必要な道具や乗り物の手配もほぼ終わっている。
いよいよ旅立ちの日が近づいていたのだ。
ノヴァは師匠にも一緒に旅に付いて来て欲しくて、何が何でも頼み込むつもりだった。
「僕と一緒に来てくれるかなぁ……」
待ち合わせの場所が近づくにつれて駆け足が早歩きになり、早歩きはやがてトボトボ歩きになる。
断られたらどうしよう。そんな不安がどんどんノヴァの心を黒く塗りつぶしていった。
「おう、来たか坊や」
「師匠!」
それでもエリエルの姿を見つけた途端、ノヴァはまた駆け足になる。
今まで抱えていた不安はどこかへ吹き飛び、とにかく今は側に行きたかった。
エリエルは剣士姿だった。赤い服とズボンの上に革鎧を身に付け、鞘に納められた鋼の剣を腰に帯びている。
そんなエリエルは駆け寄ってきたノヴァをヒョイっと抱き上げ、そっと優しく抱きしめる。ノヴァが抵抗するヒマもなかった。
「わっ、師匠!?」
「うむ。坊やは可愛いのぅ。ふふ」
「む。や、やめろよな! もう僕は子供じゃないぞ! ちゃんとした勇者になれたんだからな!」
「そうか。そうじゃな……」
「……師匠?」
エリエルのいつになく神妙な様子にノヴァは戸惑う。いつもの明るさが影を潜めており、それがわずかに不安を掻き立てる。ジタバタさせていた両手両足から力が抜け、自然と目と鼻の先で見詰め合う形になった。
一度風が枯れ始めの草の海を薙いでいった後、エリエルはゆっくりと口を開いた。
「今日は坊やに別れを言いに来たのじゃ」
「え?」
ノヴァは意味が分からなかった。
そんな弟子をそっと大地に下ろしながらも師匠は言葉を続ける。
「実はの、今儂は命を狙われておる。そう、恐ろしくも強大な悪魔に」
「な、なんだよそれ……」
ノヴァはわけが分からなかった。分かりたくなかった。
「これまでは上手く撃退しておったが、あやつが出てきた以上もはや儂は助からん。そう遠くないうちに殺されるであろう。じゃからこうして最後に一目坊やの成長した姿を焼き付けておきたかったのじゃ」
「そんな、嘘だろう……師匠。なあ、師匠!」
ノヴァがエリエルの手を取り、何度も力なく引っ張る。
すがるような瞳の弟子に、エリエルは小さく困ったように笑う。それはまるで聞き分けのない子供を諭すようでもあった。
「もう坊やは強い。儂が持つ基礎的な技は全て叩き込んだ。これからはしっかりと自分に合った技術に昇華してゆくがよい。師匠としてそれが最後の言葉じゃ」
「いやだ! そんな事言うなよ! 僕は絶対にいやだからな!」
勢いよく首を横に振るノヴァ。
いつも強くて、綺麗で、堂々として、能天気なくらい底が抜けたように明るく、だが修行の時は容赦なく厳しくて、時々ゾッとするようにどこか怖い笑みを向けられる事もあった、それでも抱きしめられたりすると温かく、どこまでも安心できる。そんな師匠だった。
どこの誰よりも格好よくて、誰にも負けない無敵の師匠だと思っていた。
だからそんな事を言う師匠の顔は見たくなかった。嘘だと言ってほしかった。
ずっと側にいてほしかった。
「どんな悪魔だよ! 一体どんなやつが師匠を……!」
「それは――」
その時だった。
空の果てに突如黒雲が湧き上がり、あっという間に空を塗り替えていく。
太陽は隠れ、辺りは薄暗くなる。
続けて風が吹いた。
一際強い、身を切るような冷たい風だった。
そして季節としてはあまりにも早い吹雪が前触れもなしに吹き荒れる。
ノヴァはこれが魔法であると気付き、そしてそのあまりの魔力、規模の違いに緊張が全身を駆け抜ける。
中級魔法以上の力。そう、これは世界でも極一部の者しか扱えぬはずの上級魔法に匹敵していた。
その事にノヴァはただ息を飲む。
「な、なんだよ、これ……」
「もう来たか……」
「え?」
吹雪は始まりと同じく唐突に止み、慌ててノヴァはエリエルを見上げる。
そして新たな気配に気付く。吹雪が吹き荒れる前にはなかった気配。
やや遠い薄暗い草原の中、そこにはいつの間にか赤黒いローブ姿の人影が身じろぎひとつもせず立っていた。
それは不気味な存在だった。まるで吸い込まれるような虚空の穴。底知れぬ深き闇。這い寄る沈黙の影。そんな印象をノヴァは受けた。
居るだけで虚無の恐怖を撒き散らす、そんな静かな威圧感とどこまでも正体不明な禍々しさがある。
敵が一歩ずつ二人までの距離を歩いてくる。まるで死を宣告するように、余命を削るように。
やがて十歩以上の距離まで詰めたところでローブの敵は足を止める。
深く被ったフードから目は隠されてその表情は見えない。ただ口元だけが無感情そうに閉じられていた。
ノヴァは直感する。
こいつが師匠の言っていた敵だ、と。
「まさかこうも早く見つかるとはの」
「な、なんだよあいつ……!」
ノヴァが本能的に死線に立っている事を感じ取る。
そして知らずの内に咄嗟に戦闘態勢をとろうとした時とそれは同時だった。
ローブの敵は短い呪を唱え、即座に黒い氷の矢が虚空に生み出される。
鋼鉄はおろか金剛すら貫き、呪いで侵食する矢だった。
死の氷矢。
それがノヴァの目にも止まらぬ恐るべき速さで放たれる。
それはエリエルではなく、すぐ側のノヴァを狙った。
エリエルに比べて取るに足らぬ邪魔者を無造作に先に排除しておこうと考えたのか、ノヴァの敵意に反応したのかまでは分からない。
すかさず何かが閃き、黒い矢はノヴァを逸れて遥か彼方へと飛び去る。
「危ないのぅ……この子には儂の命にかけて手だしはさせぬぞ。もしするとあらば相応の報いがあると知れ」
そこで一度言葉を切り、瞬き一つの間に濃密な殺意が場を埋め尽くす。
側のノヴァですら足が竦み全身が総毛立つほどの恐怖が辺り一帯を支配した。
その大元が言葉を続ける。
「二度目はない」
「チッ」
初めてローブの敵から感情が覗く。それは凄まじく忌々しそうな舌打ちだった。
ノヴァは絶句していた。
エリエルの手にはいつの間にか抜剣された鋼の剣が握られており、刀身が目の前にあったからだ。
そしてそれが何らかの命に関わる脅威から守ってくれた事を知った。
ノヴァ自身は指一本動かすことすらできず、またその暇すらなかったというのに。
実力がかけ離れていた。ローブの敵とも、エリエルとも。
そんな彼我の力量差にノヴァはただ呼吸すらままならないまま目の前のエリエルの背を見上げる事しかできなかった。
だがそれでもその黒の瞳から抵抗の意志だけは消える事はない。
膝を無理矢理屈させるような重圧の中、必死に抗ってエリエルの隣に立とうともがき続ける。
「魔界の大敵エリエル、その命、我が主のために捧げてもらおう。全ては大魔王様の御命令の下に」
淡々とローブの敵がエリエルへ死を突きつける。
そこに何ら感情の色は見えず、事務的ですらあった。まるで他愛のない雑草を摘み取るかの如く。
「ど、どういう事だよ!」
「坊や、よく覚えておくがよい。目の前のこやつこそが大魔王第一の側近にして魔王軍八魔将第一位、金羊悪魔デルフォード。それが儂の命を狙う者の名じゃ」
「な……!」
エリエルはノヴァから三歩離れ、指先を小さな少年にそっと向ける。
呆然としたまま硬直しているノヴァの目の前で魔法陣が素早く構築され、それがノヴァの足元へと移る。
わずか一呼吸の早業だった。
そうしてノヴァは結界に捕らわれた。それは外からのあらゆる攻撃を排し、また同時に内からも出す事のない完全断絶の守護結界だった。
「師匠!? 何を……!」
何かに気付いたかのように血相を変えたノヴァが結界の障壁へと駆け寄り、激しく拳打ち付ける。だが結界は非情なまでの堅牢さでノヴァを阻んだ。
エリエルはそれを眺めながらノヴァへと語った。
「儂には昔、たくさんの仲間がいた。しかし今はもういないのじゃ……あやつらのせいで皆いなくなってしもうた」
ノヴァが初めて聞く、師匠の過去だった。
悪魔達のせい……つまり、エリエルの仲間は皆悪魔達に殺されたという事なのだろうか。
「儂らはある日魔界へと迷い込んだ。それからは安住の地などどこにもない、ただ生き残るために戦う日々よ。仲間は一人、また一人といなくなり、最後は一人魔界に残される事になった儂は必死に戦った。命削る日々であった」
エリエルは目の前の金色の悪鬼デルフォードから視線を外さないまま続ける。
ノヴァからはその表情は見えなかった。
「魔界の民はたった一人の儂を食らおうと、大群で押し寄せてきた」
今、エリエルの目は何を見ているのだろうか。
凄惨な過去か、それとも悪魔への憎しみか。
ノヴァには分からない。
「そして……儂はそれらを振り切り魔王城に侵入し、大魔王らと戦う最中に開いた穴で地上へと飛ばされてなんとか逃げ延びた。その後も儂はあてどもなく魔界の追っ手から逃げ、各地を放浪しておった。そこで出会ったのが坊やじゃ」
そこまで話して、エリエルは突然短く魔法を唱えた。
視界に映る光景の中に一本の線が引かれ、そこを境に歪みが生じる。
空間に断層が生まれ、それがデルフォードへと伸びた。
あらゆる物質を切断する次元斬。
だがその刃はデルフォードの前に生まれた、人間一人すっぽりと飲み込む大きさの黒い穴の中へと吸い込まれていくようにして消えた。
エリエルの攻撃をデルフォードが防いだのだろう。
そして一度口を開いたきりデルフォードは無言。
何を考えているのか、じっと佇んだまま動かない。
その赤黒いローブのフードに半分隠された表情からは何も読み取れない。
魔界、いや世界最強級たる余裕から、始末すべき相手に温情を与えて見逃してやっているつもりなのか。
だが彼の思惑はどうであれ、エリエルはノヴァへと語り続ける。
「大魔王の命によりやって来た今までの追っ手は全て返り討ちにしてきた。じゃが……こやつは別格じゃ。こやつは八魔将の中でも飛びぬけて強い。儂に勝ち目はないじゃろう。逃げる事ももはや叶わぬ。
じゃがな、安心するがよい。坊やだけは必ず守ってみせようぞ」
そこで初めてエリエルは結界の中のノヴァを振り返り、笑った。
それは見惚れるようなとても優しい微笑みで、同時にノヴァの心を深く抉った。
「強くなれ、坊や。そして必ずや諸悪の根源たる魔王を倒すのじゃ。儂には終ぞかなわなかったが、坊やにならば必ずやできようぞ」
「師匠、師匠!? 待ってよ、師匠! 師匠ぉ!」
無我夢中で新しいダマスカス鋼の剣を何度も振る。だが結界はビクともしない。
そんなノヴァを置いてエリエルは前へと歩を進める。
その先には沈黙を保ったままの悪魔デルフォードがいる。
「……別れの言葉は済みましたか?」
「うむ。待たせたの。ではいざ、参る」
エリエルを中心に大爆発が起きた。
その現象はそうとしか言いようがなかった。
エリエルが己が内から開放した闘気は激しい喜びと共に外へと放たれる。
同心円状に草が遥か彼方までなぎ倒され、空を覆う黒雲には大きな穴がぽっかりと空く。そこから光が差し込む。
ノヴァは安全な結界の中からそれを見ていた。大きく口を開けたまま。
エリエルがその身に纏う闘気は圧巻の一言。天を突く大木ですら根こそぎ空へと投げ出す竜巻のような凶暴なエネルギーが圧縮され、そのちっぽけな人間の身の中で荒れ狂っているかのようだ。
あのレッドドラゴンさえ相手にもならないであろう。そうノヴァは断言できた。
それほどエリエルの闘気はケタ外れだった。
「これが……師匠の、本気……」
ノヴァはエリエルが強い、という事は知っていた。
そう。知っていた。
知っていたつもりだった。
今目の前にいる本気のエリエルは、ノヴァの想像からあまりにもかけ離れていた。
強くなったと思っていた。
武闘大会でも優勝した。あのレッドドラゴンをも皆と強力して打ち破った。
これからもずっと修練を重ねていけば、きっとあの憧れた背中に手が届くのだと希望を抱いていた。
その希望が音を立てて崩れ去っていく。
強くなったと思っていた自分は、しかしエリエルの前では太陽の前のともし火に過ぎないと理解させられた。
その背はどこまでも遠い。
自分が一生をかけても辿り着くイメージがまったく思い描けず、ただただ打ちひしがれるほどに。
そしてそのエリエルをして敵わぬと言わしめた悪魔デルフォードとは一体どれほどの力を有するというのか。
事実、エリエルの規格外の闘気を前にしても微動だにせず、涼やかに受け流している。そうノヴァには見えた。
先手を取ったのはエリエル。
音を置き去りにして距離を詰めたエリエルが稲妻のごとき剣を突き出す。
デルフォードは強く口を引き結び、即座に手を胸の前に出す。何かの力場がエリエルの刺突を受け止め、その衝撃でデルフォードは大きく後方に吹き飛んだ。
その一瞬だけをかろうじて目に留められたノヴァは、デルフォードがノーダメージである事を見逃さなかった。
エリエルは間をおかずに追撃をかける。
デルフォードは空中で踏みとどまり、向かって来るエリエルを迎え撃つ。
衝突。
雷鳴を遥かに超える轟音がノヴァの耳を激しく打ち、その余波は大地に無数の爪痕を刻む。
インパクトの衝撃は爆風となり、転がっていた大岩を軽々と空へと舞い上げた。
大地は大きく波打つように揺れた。
そしてエリエルは続けて剣を振るい、また魔法を唱える。
それはもはや一つ一つが災害だった。
この攻防の前にはE国のコロシアムなど1分と持たずに廃墟と化し、崩れ落ちるであろう。
それをデルフォードは全て凌ぎきっていた。
双方が一つ音色を奏でるだけで世界が軋み、破裂する。
戦闘による地震と地鳴り。それが途絶える事は無い。
そうして二者は戦い続ける。
それをノヴァは必死に叫びながら眺めているだけしかできない。
戦いの舞台がノヴァのいる場所から遠く離れ行き、もはやどうなっているのか詳細を窺い知る事はできなくなってしまった。
ただ随時激しい戦闘の痕が空に、大地に一つ一つ刻まれていく。
それがエリエルの生存を知らせる唯一のものだった。
吹雪の竜巻が巻き起こっていた。
空から氷山が天地逆に隕石のように落ちて行く。
剣の軌跡が衝撃波と真空波となって乱れ飛ぶ。
闘気が膨れ上がり、二階建ての家屋をも呑みこむ巨大な塊が奔流となって放たれる。
大きな丸太のような黒い氷槍が天を翔ける。
地表が凍てつき、氷に覆われていく。
弧を描いた巨大な白刃が空を割る。
草原はあっという間に荒地へと変貌していった。
エリエルとデルフォードの戦いにはもはや何人たりとも割り入ることはできない。
もしここに立入ろうとした者がいれば、撒き散らされる膨大な数の戦闘の余波にその身を粉々にされるであろう。
弱者になど用はないのだ。
今、この場に残れる資格があるのは強者のみ、それもほんの一握りだけの。
それでもなおノヴァは剣を片手に結界へと斬りつける。
何度も。何度も。
「師匠! 師匠……!!」
狭い結界の中で焦燥に駆られるままに結界を壊そうとする。
その目には本人も知らない間に涙が浮かんでいる。
何も考えていられなかった。
ただこんな別れは嫌だと必死に叫んでいた。
どうしてまたいなくなるのか。
そう天を、神を呪いたくなる衝動が絶叫になろうと喉までこみ上げる。
家族を喪い、抜け殻として過ごした日々。
ぽっかりと胸に大きな穴が空いたかのような感情。それが蘇る。
心の内に空虚な空洞が広がっていく。
それは孤独という死に至る猛毒。
それがじわりと心臓へ染み込んでいく。
ノヴァの喉に痛みが走る。
酷使し続けて、それでもなお叫び続ける。
それは言葉ですらない獣の悲鳴だった。
やがて全ての音が止む。
その意味を悟り、ノヴァの剣を振るう手が止まった。
悲鳴もまた止まり、顔は全ての表情が抜け落ちていた。
ずっと続いていた地震も、轟音も、爆風も。全てが止まっていた。
決着がついたのだ。
師匠はどうなったのか。
無事なのか、ひどい手傷を負っているのか、それとも……
ノヴァはそれ以上先を考えるのを止めた。
ノヴァの所へ戻って来る人影はない。
それがノヴァの中の黒い不安をどんどん膨らませて行く。
やがて自然と結界がその力を使い果たして消える。
結界を飛び出したノヴァは疾風のように駆けた。
デルフォードが残っているかもしれないという事などどうでもよかった。
ただ今は1秒でも早くエリエルの姿を見たかった。その明るい笑顔を求めていた。
「きっと、きっと、師匠ならなんともない顔でひょっこり現れて、片手を上げてなんてことのないように声をかけて、また笑いかけてくれて……」
もどかしい思いで地を蹴る。
自身の心臓の音が大きく耳に響き、それがひどく気に障る。
「師匠は強いんだ。あんなヤツに負けたりしない。絶対、絶対に」
心の中でそうずっと繰り返しながら駆け続ける。
風を切る音が耳に残る。死霊の叫び声のように。
辿り着いた戦いの中心地は何もなかった。
ただ全てが白い雪で埋め尽くされていた。
デルフォードは既に影も気配も何もなく、そこには動かない人影が一つ。
「ししょう……?」
血に濡れた長い赤髪が冷たい風に吹かれていた。
たっぷりと時間が経つまでその人影を眺め続ける。
それが誰だか分からなかった。分かりたくなかった。分かってはいけなかった。
「……ぁ?」
ふらふらと上体を揺らしながら、一歩ずつ歩み寄る。
それは彫像のようだった。
立ったままうなだれるように顔を下げ、手は重力に引かれるまま力なく垂れ下がっている。その足元にはエリエルの剣の柄が刀身を砕かれた上で転がっていた。
一目見ただけでは特に外傷もなく、今すぐにでも顔を上げて笑いかけてきてもおかしくはない。
だがそれも胸を貫通した氷の魔槍がなければの話だった。
氷槍は全部で4つ。胸から背へと飛び出し、体を雪原へと縫いとめている。その一つが左胸を貫いていた。そこを中心に盛大に血飛沫が辺りへ撒き散らされており、致命傷であった事をうかがわせる。
ポタリ、と氷槍の先から血が滴り落ちる。
大小おびただしい数の黒い氷の刃。それがエリエルの周囲にクレーターを作り出し、その中心に突き立っていた。
白い凹凸の大地の上に乱立するそれは一つ一つが恐ろしく強力な、上級魔法に匹敵する力が篭められていた。
そんな異常の中、この周辺だけがまるで流れる時から切り離されたように静かだった。
もうちょっと手を伸ばせば届く距離までノヴァが近づいても、エリエルは何ら反応を返さず、痛い沈黙が耳を打つ。
震える小さな手がゆっくりエリエルの手へと重ねられる。
「ぁ……」
冷たかった。
「あぁ……ぁ……」
徐々に温もりが失われつつあり、上から少しずつ肌が白くなっていた。
呼吸は止まっており、鼓動も何も感じられない。
エリエルが死んでいた。
「ししょう……ししょう?」
膝から力が抜ける。
愛しい人が目の前で物言わぬ骸となっていた。
ノヴァはぼんやりとした顔でエリエルを見上げる。
「あぁ……あああああぁ……」
最初は小さく。
それがやがて大きく、こみ上げてくる感情のままに。
「うわあああぁぁ――ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
幼い少年の力ない慟哭が荒地を駆け抜ける。
聞こえた者全ての心を貫く、これ以上ないというくらい悲痛で悲壮な泣き声が。
ずっと。
ずっと。
たった一人、無人の荒野で。
これ以上ないというくらい大事な人の前で。
もう二度と笑いかけてくれる事の無い大好きな人の前で。
ノヴァは溢れ続ける涙で頬を濡らし続ける。
ごめんなさい。
その言葉がずっと繰り返されていた。
☆☆☆☆☆☆
数日後。
ノヴァは口数少ないまま物言わぬエリエルを王都へと連れてかえり、神殿に葬儀のお願いをしに行った。
そして泣きじゃくるセアと共に共同墓地の墓の下へと埋められていく棺を見送った。
流れの女剣士エリエル。
誰一人、最後までその素性を知る事はなかった。
神殿などで身元を調べ、親類縁者となんとか連絡を取ろうとしてはいるが期待薄だろう。この今の世界、身元不明な死者などザラだ。それが真っ当な道から足を踏み外した者なら尚更だ。
葬儀は数少ない身内によって密やかに、しめやかに執り行われた。立ち会ったのはたった4人だった。
ノヴァと同じくエリエルに修行をつけてもらったセアが墓地までの葬送でよく通る声で粛々と聖歌を歌い、司祭ではなく大司教が死者への祈りを捧げ、王女フレアと魔法使いの先生が献花を行う。
エリエルの入った棺に土がかけられていく。喪服を着て、ノヴァの真っ赤になったその瞳は最後まで埋まって行く棺から離れなかった。
そして葬儀から一週間後。
まだ日の昇らぬ薄暗い中。朝霧の立ち込める王都の門の前、そこにノヴァの姿があった。
「本当に行くの?」
「ああ」
「まるで逃げ出すみたいねぇ」
E国の紋章が入った立派な幌付き馬車。そこに3人の子供達がいた。
御者台で二頭の上品な毛並みをした軍馬の手綱を握っているのはフレア。その隣でノヴァが馬の簡単な御し方を教わっていた。セアは幌の中で水や食料、旅の道具といった荷物の点検をしていた。
「王都中一丸となってパレードして大々的に送り出すなんて聞かされたら逃げるに決まってるだろ……! 今更ガラじゃねえよ」
「バカね。そういうアピールは色々と大事なのよ。民衆の人気取りにも王家の権威の箔付けにもなるし。自国の代表に誇りを持つこともいい事よ。それに、それも本当は勇者の責務なの。国民の期待を一身に背負うという意味でね」
「僕は……そんな大層なもんじゃない……」
「……まだまだ完治には遠いわね」
エリエルの死がノヴァに与えた影響は大きかった。
それは家族に続いて二つ目の深い傷となり、時折ジクリと奥底で痛み出す。
「勇者様、準備は大丈夫です」
「そっか。じゃあ門が開いたら行こうか」
セアは本当は今日、父からオウジュという客人が来ると伝えられていた事を思い出し、ごめんなさいと心の中で謝った。
「まずは海沿いに北へ、それから東に向かう。それでいいわね、ノヴァ」
「うん。まずはエルスを迎えに行かないと。約束したからな、一緒に行くって」
「聖都に向かうのはその後ですね。国を出るのは初めてですから、私ドキドキします」
「セアも初めてなんだ。僕もこの国に来たきり、国外には出なかったからなぁ……途中の街々にある神殿に行けばE国とは連絡が取れるんだろ?」
「ええ。友好国であれば互いに文官武官を送り込んでたりして彼らとの接触が有効だけれど、一番一般的なのはやっぱり神殿ね。何より規模が違うわ」
「ふーん。まあそういうのはフレアを頼りにしてるからな」
「はいはい。任せておきなさい」
「セアはちゃんと体調の不調とかあればすぐ言うんだぞ。ちょっとしたことでもいいからな。僕の妹のダルクだって旅始めの内はすぐ熱出してたし」
大騒ぎしていたノヴァもまたその翌日、妹の隣に並んで熱を出していたのはノヴァだけの秘密だった。
「はい。勇者様。ご迷惑にならないよう、精一杯努めさせていただきます」
「いいっていいって、セアはそんな事気にするなって! 大丈夫だ、セアは何があっても僕が守るから!」
「あいっかわらずセアには過保護というかダダ甘よねぇ……あなた」
そのフレアの呟きは幸い二人には聞こえなかったようだった。
太陽が山の間からゆっくりと顔を出す。
それと同時に衛兵が門の閂を外し、重い音を立てて外からの風が流れ込んでくる。
セアが馬車の随所に刻まれた王家の紋章を隠し終える。
ノヴァが頷き、それを見たフレアが手綱を使って馬に命令を出す。
動き出した馬車はまっすぐ進む。
いくつかの問答を経て、敬礼する衛兵達の横をノヴァ達は何事もなく通り過ぎた。
外へと出る。
朝日が霧を照らしていた。
光芒が空から大地へと伸びている。
薄くなりつつある霧の中、馬車が走り出す。
目の前には聖都へと、引いては大魔王の手下である怪物が跋扈する世界へと続く道があった。
舗装された道を進み、ガタゴトと揺られながらノヴァは前だけを睨んでいた。
険しい顔で。決意を以って。
ノヴァはそっと剣の柄に手を沿え、力の限り握り締める。
「僕が……」
一度顔を伏せ、そしてまた力強く顔を上げる。
もうそこには今までの幼い少年の顔はなかった。
「俺が絶対に倒す」
ノヴァが幻視するは赤黒いローブ姿の悪魔。
目に焼き付けたその姿は決して忘れる事はないだろう。
最大の仇にして、障害。
「デルフォード……!」
魔王軍筆頭将軍にして八魔将第一位デルフォードを殺すために。
そして、その後ろに控えているであろう全ての元凶、大魔王を倒すために。
ノヴァは長い旅への第一歩を踏み出す。
激しく渦巻く感情を胸の奥底に抱え。
その傍らで金と白の二人の少女に静かに見守られながら。
こうしてE国勇者ノヴァは旅立った。
彼の目の前には広い、どこまでも続く果てしない空と大地――世界が両手を広げていた。
長い、長い旅が始まる。
―― 幼少期編 完 ――




