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魔王城。
「大魔王様。なんだか最近ご機嫌ですね」
「そうか?」
「ええ。ここ2週間よく抜け出してますが、城放り出してどこ行ってるんですかコノヤロウ」
「それは内緒じゃ」
唇に人差し指を当てて茶目っ気たっぷりにウインク一つ。
赤黒いローブ姿の側近デルフォードが半眼ジト目で睨んでくる。
魔王城の玉座の上にふわふわ浮いている絶世の美女が現女大魔王にして堕天使エリエル。
悩ましげでグラマラスな肉体はそれだけで歩く犯罪とは誰の言葉か。
その背中にある3対6枚の漆黒の翼はバッサバッサと機嫌がよさそうに上下に動いていた。
「さーて……」
ぴく。
なんでもない風なエリエルの声に側近の顔が緊張に引き締まる。
今日もまたこの時が来たか、と全身に力を入れる。
「これから出かけてくる。3日したら戻るから、それまで留守をよろしくの。なんだったら魔王の座を奪ってもよいぞ」
「魔王の座なんていりませんし、今日こそは行かせませんよ! 大魔王なんですから城で大人しくしててください!」
ディーフェンス。ディーフェンス。
両手を広げて行かせまいする側近。
「ふふっ、脇が甘いぞ!」
その横をフェイントをつけたダッシュで華麗にすり抜け、そのまま窓に体当たりし、自由な空へと飛び出す。
「ああああああああ。貴重なステンドグラスがあああああ! 高かったのにぃぃぃぃ!」
「あはははははは。さらばじゃアケチくん!」
魔界に今日も側近の絶叫が響き渡る。
☆☆☆☆☆
「ん? な、なんだ師匠、今日はきたのか」
「おう。元気そうで何よりじゃ、坊や」
王都の宿の馬小屋に泊まっていた幼い男の子の勇者ノヴァ。
そこに現れたのは黒のズボンに白のチュニック姿のエリエルだった。
エリエルは流れの女剣士という設定で、ふらりとE国に立ち寄って幼い勇者の男の子に稽古をつけるようになっていた。
大魔王と勇者が半ば無理矢理師弟関係を結んで2週間。
傍から見た限りでは、渋々といった感じで勇者とエリエルの師弟関係が続いていた。
「儂に会えなくて寂しくしておらんかったか?」
「そ、そんなわけねーし! ばーかばーか!」
「ほほう。生意気な。そういう素直でない坊やはこうしてくれる!」
「や、やめろこのへんたい女ー! 抱き上げるな! い、息がむがむがーーー!」
「おお。もうちょっと大人しくしておれ。くすぐったくてかなわん」
真っ赤になりながら空に浮いた両手両足をバタバタ泳がせる男の子。
顔は埋もれて見えないが、唯一空気に晒されている耳はしっかり真っ赤になっていた。
さて、ここで問題です。勇者はどうして息ができないのでしょう。
「ぜーはーぜーはー。い、いいかげんにしろよ。ぼくはもう8才だぞ。さっきみたいのなんて男のやることじゃねえんだよ!」
「ははは。許せ、こうも打てば響く反応をしてくれると楽しくてのぅ」
「ううううううううう」
狼のように唸る勇者。
「それにな、その言葉をよーく覚えておくといい。10年後の坊やにもう一度聞かせた時どんな反応するかが楽しみじゃの」
うふふ、と不吉に笑うエリエル。
それに怪訝な表情を返す幼い男の子。
さてはて。これが黒歴史になるのかどうかは勇者の成長次第か。
「まあ儂も男女の機微はとんと疎いのだがの」
エリエルの場合、その迸る闘争本能こそが至上の快楽。何より心を満たしてくれる喜び。
愛の睦言など煩わしいだけだと切って捨ててきたのが彼女だ。
ある意味、戦うことこそが最大にして絶対の愛情表現とも言える。
死力を尽くして刃を交えるあの瞬間の連続。あれこそがエリエルの愛の囁きなのだろう。
「よし、では坊やがメシを食ったら外へ行くぞ。今回は3日間たっぷり鍛えてやろうぞ」
「うん。たのむぞ師匠……って、師匠はごはん食べないのか?」
「ああ、儂はメシは食べずとも問題ない。大気に満ちるマナと太陽の光で十分エネルギー源になるのじゃ」
「え、えっと……? ま、まあごはんはもう食べたんだよな」
「まあそんなところじゃ。どれ、ここの宿のレンゲ豆スープだけでは精がつかんじゃろう。昼は儂が獣でも狩ってくるとしようか」
「ま、マジか! 絶対だぞ師匠! 肉、肉が食える!」
「うむ。まかせておけ! そう嬉しそうな顔をされるとこちらも頑張る甲斐があるというものじゃ」
師弟の二人は足取り軽く、宿の食堂へと向かっていった。
「ほれ、あーん」
「子供じゃねえっつってんだろ!」
そして些か騒々しくも食事を終え、装備を整えて王都を出る。
空は晴れ晴れと青く、太陽がまぶしい。
さあ。大魔王の道楽修行の始まりだ。
「師匠の言われてた通りのメニューは毎日こなしてたぞ。それで、今日も走るのか?」
「うむ。足と体力は全ての基本じゃ。あとは柔軟じゃな。それから受け稽古じゃ。
というわけでこの重し代わりの荷物と丸太を渡しておく」
「うげえ……」
勇者が手に持った背嚢袋はずっしりと重たい。
「さあ、まずは柔軟じゃ。ほれ、背中を押してやろう」
それから30分、みっちりと二人で体のあちこちをほぐす。
エリエルも一緒に柔軟をするが、腰を下ろして両足を地面に開いて伸ばしてから上半身を前に折る時など、そのままペタリと額と地面がくっついていた。
恐ろしいほどやわらかい体だった。
そして地面と上半身の間で潰れていたものから慌てて目をそらす勇者の姿があったのはここだけの話。
柔軟が終われば恒例の体力づくりメニュー。
鎧を着込み、背嚢を背負い、丸太もテキパキと手際よく担ぎ上げる。
勇者はもはやこの重みにも慣れてしまった。
「最低でも10kmを25分で走破できるようになるのが目標じゃ。将来的には30kg超の荷物を背負って山の中でやってもらうがの」
「ちくしょう、やってやろうじゃねえか。見てろ、いつかその師匠のすましたきれいな顔をおどろかせてやる」
「あはは。うむ、その意気じゃ。それと、ある程度余裕がでてきたら海での遠泳2kmを15分目標で追加するからの」
「かってにしやがれ、こうなったらどんな修行でもとことん付き合ってやる!」
「おお。頼もしいの。瞬発力や腕力は実戦の中で鍛えていけばよい。
まあ坊やはまだ小さい。無理につけた筋肉は成長を阻害するじゃろう。一つ一つ順番に鍛えていこうぞ」
最後にうふふと笑う。
それは勇者が今まで見たことのない、よく分からない笑みだった。
一見すると、それはさぞ恋に夢見る乙女のように愛らしい姿に見えたに違いない。
だがそれを見た勇者は、知らずのうちに一度ぶるりと体を震わせた。
何故か心胆が冷えきっている。
無理やり内蔵に氷を押し込められたかのようだった。
「そうそう。来月は標高約5000mの南の山脈をハイキングじゃ。そこに坊やを放り込んで1週間サバイバルをするぞ。
その後5日間、ぶっ通しでいくつか訓練を行う。その間の睡眠時間は合計4時間じゃ。
まあ初めから完遂できるとは思っておらん。とりあえず体力と精神を限界まで追い込ませてもらおうか」
「マジかよ……」
鬼教官ですか。いいえ、大魔王です。
果たしてどこまでついていけるのだろうか。
そんな弱気な心を振り払うように勇者は首を大きく振った。
「さあ、準備はよいな」
「いつでもいいぞ」
二人共に荷物と丸太を持った姿で草原の前に立つ。
「よーし、では10kmランニングに出発じゃ!」
元気いっぱいの号令と共に二人は駆け出した。
☆☆☆☆☆
滝のように流れ出る汗を拭く力もなく、勇者は大地に倒れ伏していた。
そんな勇者の傍で息一つ乱さずに涼しい顔をしているのは当然エリエルだった。
「よしよし。儂がおらん間も真面目にメニューをこなしておったようじゃの。最初の頃よりわずかにタイムが縮まっておる」
「あ、当たり前だ……勇者は、やくそくは、まもる」
「ほれ、そのままだと風邪をひいてしまうぞ。儂が拭いてやろう」
「ていこうする力もねえ……にるなり焼くなり好きにしやがれ……」
「ふきふきっと。ほほう。これは子供にしてはいい筋肉じゃの。さわさわ」
「く、とてつもないくつじょくだ……セクハラ女め」
やがて水を飲み息を整えて起き上がった勇者に、エリエルが剣を投げて渡す。
国王からもらった剣は半分より少し上程度から斜めに斬られていた。
長さと重さ、重心が幼い勇者に合っていない、と剣の腹をエリエルが指でなぞったら綺麗に斬れたのだ。
やや長めの短剣もどきが今の勇者の武器だった。
「よし、では受け稽古を始めようかの。好きなように儂に打ち込んでくるがよい」
「よーし、いっくぜえ!」
受け稽古は、攻め側の勇者の攻撃を、受け側のエリエルは基本一切反撃せずに防御し続けるものだ。
勇者の振るう剣や動きに悪い点があれば注意したり、生死に関わる見過ごせない致命的な隙ができれば指導代わりにそこを突く。
体術も交えながら、これまでエリエルが実戦で培ってきた様々な我流の技術を少しずつ教えていった。
「いってー!」
「ほれ、呼吸が合っとらん。踏み込みが弱い。腰もまわっとらん。もっと全身を使うのじゃ」
「くそ、これならどうだ!」
「自分より大きな相手に対して小さい体を生かしての下からの攻撃はまあ良い。少しは考えたようじゃの。じゃが無理な体勢で姿勢が崩れすぎておるぞ」
「当たれえ!」
「『刃立て』も『引き』もできておらん。剣の刃の角度がズレておるし、剣を当てるタイミングと剣を引くタミングがちぐはぐじゃ」
「まだまだぁ!」
「回し蹴りをするにはまだ片足でのバランスがとれとらんし、足元が留守になっとる」
「ぜぃ……ぜぃ……」
「武器をちゃんと持ち上げんか。敵の大群の中に放り込まれた時も、疲れたからとすぐ剣を下ろすのか?」
勇者ふるぼっこ。
エリエルは一歩たりとも動かずに勇者の攻めをたやすく捌き続けていた。
そして時折手を出して勇者に手痛い教訓を与える。更に容赦なく地面に転がす。
そうして日が暮れるまで稽古は続いた。
「まあこんなところかの」
「ど、どんな体力してんだよ、化け物師匠め……」
今日一日一緒にフルで運動し続けたというのに、目の前の女剣士にはまったく消耗した様子がない。
一方の勇者は数え切れないほど地面に転がされ続け、顔も腕も足も土埃とすり傷と打撲でボロボロだった。
「夜間での訓練もいずれ入れていきたいところじゃの」
「ろくに見えねーよ……」
「そこは訓練するしかないの。なに、やれば分かるようになる」
「まあ、師匠がそう言うなら信じるけどさ……ふん」
「おお。何やらいつの間にか儂の信頼度がアップしておるのか? よしよし。いい子じゃいい子じゃ」
「だーかーらー。いちいちなでるなよ、くそ、かっこわりぃ」
まだ疲れきって動けない勇者の男の子がふて腐れたように顔を背けた。
抵抗できないのをいい事に、ここぞとばかりによりたっぷり可愛がるエリエル。
「まあ、今はまだ剣に振り回されておるが、じき扱いにも慣れて体がそれに合うよう鍛え上げられていくじゃろう。よく動かす部分こそ、使いやすくなるよう体が発達していくのじゃからな」
「そ、そうなのか……?」
「今は剣術メインじゃが、じきにみっちり体術、格闘も教え込んでいこうぞ。ふふふ。教えることがたくさんありすぎて楽しみじゃ」
育てる楽しみ。
エリエルは「ほぅ」と頬に手を当てて蕩けるような熱い息を吐いた。
「なあ……ぼく、本当につよくなれるのか?」
「うん? まあまだ始めたばかりじゃ。そんなに急くでない。例え物覚えが悪くとも、人間徹底的に鍛えれば嫌でも身につくというものよ」
「……そっか」
なにやら珍しく神妙な顔をしている勇者に焦りは禁物と諭す。
「よいせっと。では王都へ帰ろうぞ。明日は魔法の勉強じゃからな」
ひょいっと勇者の小さな体をその腕の中に収める。
いわゆるお姫様だっこだ。
おぶらないのは、今は隠しているとはいえ背に翼を持つ者の癖だ。
「おや、反応がないの……?」
「……すー」
「なんじゃ、疲れて眠ったのか。仕方ないのぅ」
なら隠す必要はない、とばかりに3対6枚の漆黒の翼をその背に現す。
一度風をその翼に大きく受け、長い赤髪をたなびかせながらエリエルは宵闇の迫る大空へ地を蹴り、飛び立った。
「ふふふ。坊やの寝顔は可愛いの」
大魔王は飛ぶ。
まだ未知の可能性を秘めた小さな勇者の卵を抱えて。
愛しい、とても愛おしい微笑みを浮かべて。