14-4
E国勇者ノヴァは人を待っていた。
収穫祭1日目の喧騒が耳に痛いほど伝わってくる中、小さな小屋の屋根の上で遠くを眺めながら集中していた。
午前中にいつもの基礎体力メニューを消化し終え、時間があれば師匠から教わった特殊な呼吸法を行い、体内で『気』を練って循環させる。
手の中で転がしていた瓦礫をそのまま握り砕き、遠く離れた人気の無い大木の幹を的に見立てて投げつける。
結果、投擲のコントロールは上出来。8割が的中。誤差は10cmに満たない。
全力で投げ続けたら大木が抉れて倒れかねないので手加減はしている。
まだ待ち人は来ない。
ふと気がつくと、すぐ近くに人だかりができていた。
どうやら大きな男が怒鳴り散らしているようだ。見ていると、一度は騎士に取り押さえられようとした男が光り物を持って駆け出すのが見えた。
ノヴァは「いけない!」と思い、咄嗟に手の中の砕いた石を投げる。
石はイメージ通りの軌道を描いて男のナイフへと当たった。
「ふう。良かった。けど石は投げなくても良かったかな」
見れば、他にも反応していた人がいた。
その人だけでも十分だったようで、ノヴァはほっと一息をつく。
ケガ人が出なくて何よりだと、小さな少年はわずかに相好を崩した。
「勇者様ー! お待たせしましたー!」
「おっ、セア!」
待ち人来たり。
セミロングのプラチナブロンドを小さく揺らして、質素な白のコットンスカート姿の幼い少女が通りの向こうからやって来た。頭にはフリルが付いた薄いピンク色のリボンが可愛らしく花のように結ばれている。
ノヴァは小屋から飛び降り、息を切らす事無くセアへと駆け寄る。
「へー。なんか今日は……うん、可愛い、かな。似合ってるぞ」
「ほ、本当ですか! えへへ」
セアの姿に意表を突かれたように目を丸くしたノヴァ。
一生懸命お洒落してきたセアはその言葉に頬を紅潮させ、胸を手で押さえながら蕩ける様な笑顔になる。
「師匠だったらどんな服着てきたんだろーなぁ……」
そこらを歩いているお姉さん達の服を見て、想像の中でエリエルと服を合わせてみるノヴァ。ほんのり幸せそうだ。
けれどその言葉は減点だ。
精一杯頑張ってきたセアはノヴァの意識がすぐに逸れてしまった事にちょっぴりしょんぼりしてしまう。けれど、まあ同じくエリエルを慕っているセアはすぐに気を取り直して、ノヴァと一緒にあんな服はどうでしょうと盛り上がる。
一方、ノヴァの着ている服はいつぞやフレアから贈られた物だった。上流仕立て屋のあつらえた服は動きやすく、ノヴァの大のお気に入りだった。
やがてフルートの音色が聞こえてきた頃、ノヴァはセアの手を取って、歯を見せて笑う。それは遊び盛りの少年の顔だった。
「さっ、行こうぜ。明日から大会だから、今日はいっぱい遊ぶぞ!」
「はい!」
大輪の花のような弾ける笑顔のセア。そんな彼女をぐいぐいと引っ張りながらノヴァはセアと一緒に駆け出した。
「次、セアは何食べたい?」
「えっと、ええっと」
「あっちからいい匂いがするな!」
「行ってみましょう」
「ほらこっちこっち」
「わ、わ。待ってください」
活況の人ごみの中、二人は食べ歩く。その様子はまるで、いやまさに兄妹だった。
お金にはもう困っていない。鍛冶屋で特注の棒手裏剣を揃えたり、装備を整備に出しても今は懐に余裕がある。特にこの前のキマイラの魔力結晶の換金は額が大きかった。
なお、換金はエリエルがやっている。子供のノヴァだと強力なモンスターを倒した事を信じてもらえず、挙句盗みの疑いすら抱かれる始末で、更には子供な事をいいように値段をごまかされる恐れもあった。
実際には脳筋のエリエルは誤魔化されても分からないため、もし騙していたらどうなるかを商人の目の前でキッチリ実演した上で取引をしていたが。
果物を剣で素早く斬って、すぐさま切断面同士を合わせるとまるで斬られた事がなかったかのようにピッタリくっ付いてしまった『戻し斬り』をやってのけて、エリエルは言った。
「お主の首でもできるかの?」
まあ絶世の美人のねーちゃんにだらしなく鼻を伸ばしていた商人に、そもそもそこまでの根性はなかったわけだが。むしろ、ちょっぴりオマケしてお近づきになろうとさりげなく口説かれている始末だったが。無論、エリエルは天真爛漫な笑顔で全て撃墜していた。
エリエルが換金に来る日にはやけ酒を煽る一人の客が酒場に出るとか出ないとか。
それはさておき。
お揃いの服を着た3人の青年達の壁の後ろを歩きながらノヴァははしゃぎ、セアはそんなノヴァを見て自分の事のように楽しそうに笑っていた。
時折すれ違う大人がノヴァの黒髪を見て「おや?」という風に眉をひそめていくが、概ね祭りの熱気は万年レベル1の勇者の影を薄くしていた。
「師匠が来れなかったのはつまんないなー」
「でも、三日目には来てくれるって言ってましたよね」
「うん! だからぜーったいにベスト8には入ってみせなきゃな!」
「応援してます、勇者様」
「ああ! セアも見てろよ!」
威勢よく拳を天に突き出すノヴァに、それを嬉しそうに、そして頼もしそうに純真な微笑みをセアは見せた。
「フレアもな、王様と一緒に大会を見に来るってさ」
「私もフレア様に会いたいです。フレア様、とっても優しいから大好きです」
「僕とはすっごい差があるけどなー……なんでかいっつもケンカ腰になるし」
「勇者様もフレア様も、あんまり怒ってちゃダメです」
「あいつが悪いだろ! 僕は悪くねーし、いつもあいつが口うるさいから!」
「それ、フレア様も似たような事をおっしゃってました」
「……」
「どうして仲良くできないんですか……」
「う……」
悲しそうに小さな眉を下げるセアに、ノヴァがたじろぐ。
「わ、分かったよ。ちぇっ……」
「神様もおっしゃってます。隣人を大事にしなさい、って。お二人が仲良くしてくれると私もとっても嬉しいです」
そう言ってセアは花がこぼれんばかりの笑顔になった。
その表情を見たノヴァは雪が溶けるような心地よさを心一杯に感じる。
その更に奥、微かに胸を刺す小さな痛みに気付かずに。
止まった時の中の小さな妹の面影。だがそれも形になる前に消え去った。
再びノヴァはセアの手を引っ張って氷魔法でキラキラ輝く大道芸人の人垣に向かおうとした時、事件は起きた。
「引ったくりよ! 誰か捕まえて!」
しわがれ声がした。
弾かれたように声の方を向くノヴァ。途端に鋭い目となり、自分の方へと向かってくる影を見つけた。
影は小柄な男性だった。目深にフードを被って顔はよく見えない。
人波の中を縫うようにスイスイと走っている。追いかけようとする善意の人は人ごみに阻まれ上手く動けていない。
「またか」
少しばかり呻くように呟き、ノヴァは持ち前の正義心でセアの手を離して犯人を追おうとする。
犯人は大通りから路地裏へと飛び込んだ。ノヴァもそれを追って路地裏へと入る。
だがそれより一足先に路地裏へと入った者達がいた。
ノヴァのより前方にいた3人組の青年達がただ者とは思えない素早い動きで先んじて路地裏へと入っていった。
そしてノヴァが遅れて路地裏に飛び込んだ時には既に犯人は青年らの一人によって取り押さえられていた。
「ん、なんだ坊主?」
「そいつを追いかけてきたんだ」
「そうか、まあこの通り捕まえたから安心しなさい」
「むしろ子供が首を突っ込んじゃいけない。無茶をすると親御さんが心配するぞ」
「いや、まて。こいつ、この黒髪……E国のサークレットもある。まさか『あの』勇者か?」
青年達の雰囲気が変わる。
悪い方に。
「そうだ」
ノヴァは低く硬い誰何の声にも何ら躊躇せず堂々と胸を張って答えた。
わざわざ『あの』と付けられ、それが嘲笑や侮蔑を意味すると察してなおノヴァは己が勇者だと応えた。
「はー。初めて見たぜ。万年レベル1。噂には聞いていたが……こいつ、ろくにモンスターも倒せずにずっとレベル1のままなんだろ」
「まあこんな子供にモンスターと戦えと無茶振りする王家も王家だがな……」
「ちっ、栄光の勇者の称号も落ちたもんだな。他の勇者のいい迷惑だろう」
途端、本人を目の前に好き勝手に言い始める。
その目は明らかに見下していた。
力のない者が分不相応の地位にいる。
それが青年らが気にくわない第一の要因だった。
そんな青年らの言葉にノヴァは黙ったまま息をつまらせ、わずかに俯く。
未だに功績らしい功績を挙げていないのは事実だとノヴァ自身が認めていた。
だから、言い返したい気持ちを必死に我慢する。
バカにするな、そう大声で言いたかった。けれど歯を食いしばって飲み込んだ。
仮に、今では違うと言っても信じないだろう。
こんな小さな子供が凶悪なモンスターを倒している、と言って誰が信じられるのか。
青年らとノヴァとで明暗分かれる空気の中、新しい声がする。
「何してんだよ」
ノヴァが振り向くと、路地裏の入り口に少年の姿をした一人の子供と、坊主頭の青年がいた。
子供の方はノヴァと同じ年頃だろうか、鳶色をした鋭い目つきの子供だった。
見かけとは違い、異様に威風堂々として強者の貫禄を滲ませている。
ノヴァは一目見て、彼らが同じ仲間だと分かった。
青年4人と子供1人、全員が同じ服を着ていたからだ。道着姿と呼ばれる白いシャツとズボン姿。更には全員がノヴァと同じ黒髪。この国の人間ではないと一目で分かる。
E国が諸手を挙げて歓迎した聖拳老師が連れてきた4人の弟子と、老師が直々に鍛えている秘蔵の弟子エルスだった。
満を持してのデビュー戦を前に、エルスは少々ピリピリとした雰囲気をしていた。
なお、当の聖拳老師は国王にエルスを紹介した後、すぐにE国を発っていた。
各地に顔のきく偉大な戦士は色々と周る所があるらしい。まあ真っ先に向かったのが美味い酒の名産品がある国なのだが。足取り軽く、嬉々としていた老師の姿に弟子5人全員がジト目を向けていたが、それを気にする老師ではなかった。
老師自身は忙しくこの国に留まれないため、見知らぬ外国にわずか10才の子供一人にしておけるわけもなく、他に保護者役として弟子4名を連れてきていた。
「おっ、エルス」
「いや、なに。か弱い老婦人からひったくりする悪いヤツがいたから捕まえてたんだよ」
当のひったくり犯は既に気絶していた。
「探したぞ、お前ら。ほら、さっさと引き渡して城に戻るぞ」
エルスの隣にいた青年が腕を組み、壁に寄りかかりながら気だるそうに言う。
エルスらの後ろには警備兵二人組みとセアがいた。
手早くひったくり犯に縄が打たれ、ひったくられた荷物も兵に回収される。
ぐったりした犯人を連れて兵が一礼した後に去り、セアがノヴァへと駆け寄ってくる。
「勇者様、大丈夫でしたか」
「ああ。僕は何もなかったから」
そんな二人の会話に片眉を跳ね上げたのはエルス。
「勇者……? お前が?」
「そうそう。エルス、お前も聞いた事あるだろ。この国のお子様勇者だとさ」
「へえ、こいつがか」
エルスの隣の青年が目を丸くして興味深々に注目する。その視線はほとんど珍獣に向けられるものだった。
片や、エルスは侮蔑も露に吐き捨てるように口を開いた。
「話には聞いていたけど……情けない。オレが勇者になれなくて、なんでこんなやつが。オレだったらすぐもっと活躍できるのに」
セアが怯えたように勇者の袖を握り、体をピッタリと寄せる。
エルスはあからさまに不機嫌なオーラを全身に纏っていた。
「まあ、今更そんな事はどうでもいいか」
「え?」
だが不機嫌さもすぐに霧散し、代わりにエルスは興味を失った目でノヴァを見る。
「オレ達は千年続く由緒正しい武術をケンサンし、受け継ぐ格闘家だ。この国で開かれる大会に出るために遠いところからやって来た。そして国王とも会った。
ノヴァ、だったな。お前の事も国王から聞いているぞ。なんでもこの大会が終われば勇者のお役も御免だってな」
「え……」
初耳のノヴァは一杯に目を見開く。
「ふん、当然だろ。いつまでも弱っちい奴が勇者やってる事が間違いなんだよ。次の勇者はパエトーンっていう人らしいけど、まあオレより弱そうで話にならなかったけどな」
「あ……僕、は」
ノヴァの膝が震える。顔は青くなり、息が不規則になる。
いつかはこんな日が来ると思っていた。
けれど、実際に突きつけられるとショックは大きかった。
早く強くなりたかった。皆に認められるように。エリエルやセアの期待に応えるためにも。
だがそれも間に合わず、ここで終わるのか。
そんな少年をつまらなそうに見ていたエルスの前に、小さな影が出てくる。セアだった。
小さな少女が黙って両手を広げて庇うように前に出て、エルスの真正面に立ちはだかる。そのブルーアイズが強い光を放ち、エルスを射抜く。
だがエルスはそれに怯まず、逆に見据えてもう一度重ねて言った。
「お前みたいな弱いヤツなんかお呼びじゃないんだよ」
そして間を置くことなく凛とした声が真っ向からぶつかる。
「勇者様は弱くなんかありません」
「セア……」
普段の大人しさやか弱さなどどこにもない。
しっかりと自分の足で立ち、真っ直ぐ前を見て矢面に立つ。
そこにあるのはノヴァへのひたむきな信頼。純粋な敬愛だった。
セアは一度目を伏せ、かつて黄金の大猿に襲われた時の事を思い出す。
再び開いたとき、セアは微笑みすら浮かべていた。
「勇者様は、強いです」
「はっ、口だけならなんとでも言えるだろう」
エルスはそれを負け犬の遠吠えと切り捨てる。
「弱いのが悪い。強くないなら、さっさともっとふさわしいヤツに勇者を明け渡すべきなんだ。そうすれば……もっとたくさんの人が助かったはずなんだ」
ノヴァは何も言わない。言い返せない。
修行として周辺のモンスターを倒してはいたが、それも功績足りえないと思っていた。
だからエルス達の言葉も甘んじて受けていた。
だが、それも次の言葉を切欠に変わる。
「そもそも、勇者の威光を笠に着て女にうつつを抜かしているヤツなんてお払い箱にされたって仕方が無いだろう」
「……え?」
ノヴァは鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった。
「なんだそりゃ?」
エルスとは反対側にいた3人組の内の一人が不思議そうに尋ねる。
それにエルスの隣にいた青年が手をヒラヒラと振りながら答えた。
「さっき聞いたんだが、ここ1年以上この国の勇者の側に赤髪のすっげえワイルドな美女がいる姿を時々見かけてるって話があったんだよ」
「ええ、なんだよそれ。姉弟ってわけでもないだろうし……」
「……師匠だ」
今まで沈黙で耐えてきたノヴァが口を割り込ませてきた。
「ん?」
「それは、僕の師匠だ」
途端、青年ら4人の大爆笑が路地裏に起きた。
「お前の師匠ぉ?」
「なんだ、どうせ大したことないんだろ」
「レベル1の師匠なんてウケるぜ! ハハハ!」
それを聞いたノヴァの心に火が点く。
「師匠をバカにするな!」
ノヴァが目を険しくし、セアを押しのけて前に出て笑った青年らを睨みつける。
エルスは呆れたように冷めた目でそれを眺めている。
「おっ、急に威勢がよくなったな」
「師匠を悪く言うな! 師匠は強いんだぞ!」
「へー。名前は? なんていうんだよ」
「エリエルだ!」
「エリエルぅ……? 聞いたことねえな。おい、お前らはどうだよ」
「ないない。誰だよ」
「レベル20以上になると自然とこの道じゃそこそこ名前を知られるようになるのに、エリエルなんて名前まったく聞いたことねーし、どーせたいしたやつじゃねえだろ」
「だよなー。あはは!」
「まあ、お似合いなんじゃねえの。レベル1の勇者とどこの馬の骨か分からない師匠とじゃ」
再び青年3人が目配せをして腹を抱えて笑う。
エルスも冷笑を浮かべていた。
エリエルを馬の骨呼ばわり。
何も知らないとは恐ろしい事である。
そもそもが決して名前を知られるはずのない、存在自体が秘中の秘とされている相手だとは夢にも思えないだろうが。
「お前ら……っ!」
「おっ、怒ったのか?」
「怒ったって怖くねーな」
「師匠に謝れ!」
「だってよー。お前の今までの結果がその師匠とやらを示してるだろ」
ノヴァの脳裏にどこまでも明け透けで明るくバカ笑いするエリエルの姿が思い浮かぶ。
修行の時は悪魔のように厳しく、まるでイジメのように次々と無茶な修行メニューを課してきて、恐怖すら覚える激しい打ち込みで地面を舐めた事だって数知れず。
立ち上がりたくなくなるくらい、泣き喚きたくなるくらい、そんな風に全てを放り出したくなる事だってあった。
そう。ノヴァにとって師匠は恐ろしく、けれどそれ以上に何よりも暖かかった。
こんな誰からも見捨てられていた名前だけの勇者に手を差し伸べてくれた。
見捨てずにずっと側にいてくれた。
抱きしめてくれた。
手を繋いでくれた。
ちょっと照れくさかったが、抱きついて泣いた時は包み込んでくれるような温もりに救われた。
修行の合間にかけられるセクハラまがいのちょっかいは、男の子の意地としてはね付けようとはしていたが、触れ合いとしてはとても嬉しかった。決して口にはしないけれど。
修行以外の時間でも、まるで同じ子供のような笑顔であれこれと一緒に店をひやかしたりした時も楽しかった。時にはノヴァと同じような無邪気な幼さを見せるエリエルに、ノヴァは慌しくも幸せだった。
ノヴァにとって、誰よりも強く、綺麗で、凛々しくて、優しい、ずっと側にいたい人。
何もできなかった自分に人の温もりを再び与えてくれた人。
そんな師匠が、ノヴァは何よりも好きだった。
大好きだった。
そんな、大好きな師匠をバカにされて黙っていられるほどノヴァは大人になっていない。
「……お前、大会に出るんだよな」
「ん、オレか? ああ、そうだ」
「そうか。僕も出る」
「……それが? まさか、オレに勝つとか言う気じゃないだろうな。ははっ」
「その、まさかだ」
どこまでも低いノヴァの声。
それに何ら痛痒も感じずにエルスは余裕の態を崩さない。
エルスにとっては子犬が吠えているようなものだった。いつでも無造作に払いのけられるか弱い子犬。
「やめとけ。勇者は無条件で2日目の本戦から出られるけど、お前じゃすぐ負けるだろ。一回戦でオレに当たらない限り無謀だな。そんな強がりはやめとけよ」
そんなエルスの言葉を無視してノヴァは続けた。
「いいか。大会でお前をぶっとばす。師匠に教わった僕の力を見せてやる。僕が勝ち上がって、お前を負かす。そうしたら師匠に謝ってもらうからな」
「ははははは! そりゃあいい! できるものならな。まあ、オレは優勝するけど、お前がどこまで上がってこれるか楽しみだな」
最後まで小ばかにした態度を崩さないエルス。
そうして弟子達とエルスは悠々と去っていった。
「ゆ、勇者様……」
「……」
無言で立ち尽くす勇者の背中。セアはそれに恐る恐る声をかけた。
しかし反応はない。
それでもセアはノヴァの心中を正確に察することができていた。
次の瞬間、ノヴァが拳を右へと突き出す。煮えたぎるやり場のない怒りを込めて。
セアが一瞬肩を竦めた。
辺りに大きな爆砕音が響く。音と振動に驚いた近くの猫や犬が盛大に騒ぎ始める。
階段を形作っていた白い石壁は大きな穴を穿たれ、放射状のひび割れができていた。
それだけ強く殴れば手は無論タダではすまない。骨は砕けるだろう。
だが強固な闘気を纏ったノヴァの拳はまったく傷めた様子はない。
それは決してレベル1は無論、レベル10ですらできるはずのない事だった。
もしI国勇者のレベル24、ヘリアデスがここにいたら目を剥いていただろう。
エルス達がここに残っていなかったのは不幸としか言い様がなかった。
ノヴァが今纏うその闘気の迸りは狭い路地裏に突風を生み出し、セアの髪と服の裾を大きく巻き上げた。まるでその怒りに触れたように。
「絶対に許さない。あいつは大会で泣かす」
セアは始めて見た。
ノヴァがここまで怒りを露にするのを。
そして、翌日。
いよいよ武闘大会2日目、本戦が始まった。
☆☆☆☆☆☆
E国より山を越え、大河を越え、魔の森を越えた遥か遠くの地にて。
「なんだ、これは……」
愕然とした表情で一人の勇者とその仲間達が棒立ちになっていた。
目の前にあるのは近隣を荒らしまわり、暴虐の限りを尽くしていたあるモンスターの巣。
山に棲みつき、時折ふもとの村里に下りては家を炎で焼き、家畜を食い荒らし、人を踏み潰した。
その咆哮は人々の心に癒えぬ深い傷をもたらし、夜に風に乗って『彼の者』の咆哮が届く度に人々はパニックになった。
国の軍や騎士団を派遣しても止められず、返り討ちに遭う始末。
もう打つ手はない。そんな絶望の状況。
そこに訪れたある勇者パーティが決死の覚悟で立ち上がった。
完全武装で、体調を万全に調整し、高価な高級霊薬もお金を出し惜しみせずに買い揃えた。
険しい山や谷を越え、そして巣の前で見た。
吐き出された炎の焼け跡。
切り倒された大木に残る爪跡。
大質量の何かが地面を削り続けてできた半円状のクレーターの道。
そして、折られた一本の角。それは『彼の者』にとって自らの力の象徴たる重要な物だった。
それが、まるで力任せに叩き折られたような断面を覗かせながら無造作に転がっていた。
「……足跡一つすらない。あるのは『彼の者』の痕跡だけ。それもまだ比較的新しい。まるで一匹で虚空に向かって暴れたかのような。そして何より、わずかに残った血痕の解析結果は全て同じ『彼の者』のもの。他には何も、相手は血痕一つ残していない。外敵が現れたとして、『彼の者』相手に無傷で完勝できる者などいるのか、いやいまい。それこそ今は亡きザイフリート様や聖拳老師クラスでなければ……」
何か、恐ろしい何かがごく最近ここで起こった。
最強の種族たるアレがここまで激しく暴れ、抵抗し、姿を消した何かが。
「一体、ここで何があったというのだ」
勇者の震えた呟きに答えられる者はいない。
ただその場の片隅には漆黒の濡れたような羽が一枚、落ちていた。




