13
――大神官の血は勇者と共にある。
☆☆☆☆☆☆
季節は巡り、冬が終わったと思ったらもう夏が来ようとしていた。
陽の差す刻限が少しずつ伸びてきた太陽。それも沈もうとする夕暮れの中。
勇者やエリエルと別れ、セアは一人大神殿へと帰っていった。
小さな両足を小刻みに動かし続け、子犬のように一生懸命に駆ける。
大神殿の敷地に入ると大勢の人の姿が見える。
正門に比較的近い敷地では法衣服姿の神官だけでなく、小さな子共を含めた下働きの人々、物資の取引に足しげく通う商人と様々な人があちこちを行きかっている。
その中をセアは一人で駆け抜ける。
セアにとって、大神殿は文字通り自分の庭だった。
時々セアの姿を見かけた大神殿の外の大人たちは「おや」という風に首をかしげていた。
しかし神官や衛兵はスイスイ進む小さな女の子を見ても、何も見なかったように目を逸らして避ける。
まるで悪霊を前にしたかのように。
大勢の幼い神官見習い達が住まう寄宿舎。身寄りの無い幼い子供達も含むそこが本来ならセアの居場所のはず。しかしそこを見向きもせずにただまっすぐ駆ける。
だが突然目の前に槍が突き出され、慌ててセアが急ブレーキをかける。
「っとと、おい、君。止まりなさい。どこから入ってきた。ここは君のような子が入っていい場所じゃないぞ。まったく、ここまでの衛兵は何をしていたんだ……」
「あの、衛兵のお兄さん。私のお家はこの先にあるんです」
「はあ? あのな、この先は――」
少しイラだったように眉をひそめた衛兵。
だが、それは奥からやって来たもう一人の衛兵に止められた。
「おい新入り。その子はいいんだ。通してやれ」
「えっ!? で、でもこの奥はもう……」
「いいんだ。さあお行き」
「はい。ありがとうございます。お仕事いつもお疲れ様です」
ぺこりと可愛らしくおじぎをしてセアはまた駆け出した。法衣服の裾をふわりと舞わせながらその背が遠くなっていく。
それを見送ってセアを止めた若い衛兵は納得できないように先輩に説明を求める。
「どういうことですか? この先は聖域なんですよ。大神殿上層部でもごく一部にしか入れないんでしょう。なのにあんな見習い神官の色の布を身に着けた子を通して……」
「どういうこともなにも、ラムフィス大神官様直々のご命令だよ」
「えっ?」
プラチナブロンドの小さな女の子、セアには触れる事なかれ。
そしてその理由を問うべからず。
大神殿に詰める者達は上層部からそう厳命されていた。
そう、E国大神殿の頂点たる現大神官ラムフィス直々に通達されていた。
話しかけるべからず。
その歩みを妨げるべからず。
決して、侵すべからず。
「なんですか、それ……あの子、何者なんです?」
「さあな。そこまでは知らされてない」
そんな異常な扱いを要求される神官も警備兵も巫女も、誰もセアの正体を知る者はいない。
彼女の素性は厳重に秘されている。
「お前も調べようとするなよ。こういう命令の裏には大抵とんでもなくでかい魔物が奥底に潜んでるからな。知ろうとしただけで首が飛ぶ事だって有りえる。長生きしたければ黙って従っておけ」
「……は、はい」
そうしてセアはもう邪魔される事なく大神殿の奥の奥、そのまた更に奥へと真っ直ぐに走り行く。
大人でも歩いて10分以上かかる広大な敷地の中を、迷うことなく進む。
いくつもの建物を通り抜け、門番に扉を開けてもらい、豪華な噴水のある中庭を元気に飛び跳ねて。
いくつもの建物と外との出入りを繰り返す。
そうして辺りにはもはや道行く人も誰もいなくなり、極々限られた人でしか出入りできない区域へと入っていく。
そこは隔離区域。
極めて重大な大罪を犯した貴人が封じられる場所。
都の喧騒などここからは遠く、静寂の夕焼けだけが落ちる。
少しばかり離れた場所から鐘が鳴っていた。じきに宵闇が訪れるだろう。
拓けた広い庭園。その隅に一軒の家がひっそりと佇んでいる。
そこがセアと父親の二人だけの家だった。
「セア、お帰り」
「ただいま、パパ!」
家の前でセアの帰りを待っていた壮年の男性、先代大神官であり父であるラダメスが己の胸に飛び込んでくる幼い愛娘をしっかり優しく抱きとめた。
「修行でどこかケガはないかい? モンスターに襲われなかったかい?」
「平気です。勇者様が守ってくれました」
「そうか、良かった。さ、夕飯が出来ているよ。今日はアディさんからセアの好きなブルーベリーパイも届いてるから楽しみにしているといい」
「本当ですか。やったぁ」
「食べ終わったらまた彼女にお礼の手紙を書こうか」
「はいっ!」
セアとその父親は笑顔を溢れさせながら家へと入っていった。
これがセアにとっていつもの日常。
自分の置かれている環境が如何に異質で、特異なのかセアは疑問にも思わない。
ただ少しばかり僻地に父と二人だけで住んでいる親子のはずだった。
★★★★★★
神へのお祈りを済ませ、小さなテーブルで慎ましやかな食事をとる。
父ラダメスは穏やかながらも厳格で行儀に厳しいため食事中に会話はない。
時々セアがスープや食器の扱いで不用意に音を鳴らせばお叱りの言葉が飛ぶ。
食事も終わり、最後にセアお待ちかねの小さなブルーベリーパイを切り分ける。
狐色にこんがり焼けたパイ生地、その上に濃紺色の小粒の実がたくさん乗っている。
ナイフを滑らせるたびにサクっと軽い手応えが返ってきて、ぎゅーっと中に詰まったブルーベリーのジャムがあらわになる。
その様をずっとテーブルに手をおいて、ぴょこんと顔をだしているセアが瞳を輝かせながらずっと見つめていた。
「はい、できたよ」
「わぁ!」
さっそく小さなお口でちょこんと齧りつく。
セアの口にサクサクとしたパイ生地とバターの風味、ゴロゴロ転がる実と甘酸っぱい味が広がる。
「美味しいです」
「そうかい。アディさんもきっと喜ぶよ」
「いつかアディさんに会ってお礼やお話がしたいです」
「そうだねぇ……いつか、お礼を言いに行こうね」
「はい」
そして陽も暮れ、ラダメスの手で神の光が灯される。
お勉強の時間だ。
多岐の分野に渡る本を大神殿から借りてきてそれを読んでいく。
神話を始め、算術や世界各地の地理歴史。魔物の生態など。
この時代、エリート教育と言っても過言ではない環境だった。それは王女であるフレアにも並ぼうかという上流階級の教育。
それが大神殿の最奥でひっそりと行われていた。
セアは自分の母親を知らない。見たこともない。絵姿すらなかった。
それを疑問に思いはしたけれど、それ以上に父親が惜しみない愛情を与えてくれていると知って、それで十分だと思っていた。
他にも叔父であるラムフィス大神官など神殿の一部の関係者達には可愛がられている。一度も会ったことはないが、アディおばさんとだって時々文通をしている。彼女がよく送ってくる手作りのパイはセアの大好物だった。
そうして勉強が終わればおやすみの時間。
寝床につくとセアは今日の出来事を一生懸命ラダメスに話す。
「あのね、今日はね、みんなと海に行ったの。遠泳っていうのをするためなんだけど、すっごく遠くまで泳いで行くのが修行なんだって。
私、泳げないから勇者様に教えてもらったんです。海の水はとても冷たくてびっくりしました。勇者様が私の手をもって引っ張ると、ふわーっと浮かんですいーっと海の中を進めました。勇者様と師匠はすっごく泳ぐのが上手なんです。すっごい水しぶきをあげながらあっという間にずっと向こうの島まで泳いでいきました。すごかったです」
そうしてお喋りしているうちにすやすやと眠りにつくセア。
それを大事そうに肩まで毛布をかけ直すラダメス。
そうして、ふと一年近く昔の事を思い出した。
西から迫る恐ろしい何かの気配を感じ、更に突如日食が世界を襲った日。帰ってきたセアはラダメスを今までにないほどまっすぐな瞳で見つめて言った。
「『勇者』様を見つけました」
聞けばそれはずっとレベル1のままでいる哀れな男の子の事だと言う。
しかし、セアの言う勇者とはそうではなかった。
勇者の紋章を持っているからではない。
彼の持つ資質を以ってセアは彼を『勇者』と呼んだ。
「私の中のもう一人の『私』が強く言うんです。ノヴァ様こそが勇者様だって。そう、胸の奥底から何かが溢れてきて、かーっと熱くなったんです」
そう言いながらセアはそっと目を閉じ、両手を胸に当てる。
それはまるで聖女が如き神々しさ。
幸せそうでいて、かつ満たされた微笑み。慈愛の女神もかくやあらん。
どうすればその年でこのような信愛に満ちた表情ができるのか。
世界で最も敬遠な信徒という者がいるならば、今の彼女こそがそうであるに違いない。
そう確信できるだけの凄みがあった。
「私は私が付き従うべき人の姿をこの目で見ました。きっと、あの方がいつもパパの言う神様に導かれた勇者に違いありません。
だから、私はあの方と一緒に行きたいです」
その言葉にラダメスは息を飲んだ。
セアの言う『私』とは大神官の血の事だろう。
千年前の極光の勇者と共に当時の世界人類滅亡の危機を救った大神官。偉大なる彼の血が目覚め、セアの中で脈打ち始めたという。
大神官の血は勇者と共にある。
これはひとえに、強い勇者の資質を持つ者に反応する大神官の血が生み出した言葉だった。
そして彼らが認めた者はそのほとんどが大成している。それは歴史が証明している。
大神官の血族の中でもより強い血を引く者しかその『声』を聞く事はかなわない。
ラダメスが知るだけでも、今の世では自分とF国の勇者に付き従うグンター、他1人しかいない。
そこにセアもまた並ぶという。
この年でその素質は極めて強いと言わざるを得ない。
現E国の大神殿の頂点であるラムフィスもそれに見合う強い力を誇る。しかし彼ですら『声』を聞く事はなかった。
それが、この愛娘は既にその資質を開花させようとしていた。
しかし。
「10歳の頃から働きに外に出る子供もいる。とはいえ、いくらなんでもまだ8つの女の子に世界は早すぎる」
眠るセアのあどけない顔をじっと見つめる。
ラダメスにとってセアはとても大事な愛娘なのだ。
危険な旅になど出ずに、ずっと神殿で穏やかに幸せに過ごして欲しかった。
年頃になれば恋をして、誰かと結ばれて。
そんな風に人並みの幸せを掴んで欲しかった。それが父であるラダメスの幸せでもあるのだから。
それが正直な思いで、セアがここを出る事には絶対に反対だった。
「だが、大神官の血を引く者には義務がある」
故に苦悩する。
勇者と認めた者が現れた場合、尽力するという義務。これはよほどの問題がない限り負わなければならない。
このままであれば、セアは当のレベル1の勇者と共に相当な苦難の道を歩む事になるのは想像に難くない。
「僕はこの大神殿から許可なく出ることもできなければ、誰かと会う事もできない」
そっと左胸に手を当てる。服の下には呪縛の魔法陣が描かれていた。
大神殿を私利私欲のために勝手に悪用したために下された罰が。
その罰を受けてでも掴み得た宝物がセアだった。
だから、ラダメスは強く奥歯をかみ締め、拳を床に力いっぱい叩きつける衝動に駆られる。
今、ここに生きて縛られているのは単に力が強く、有用であるからだ。
王都の守りの多くをラダメスは担っている。
「せめて、誰か頼りになる大人が同行してくれれば……」
そこでふとある人物の顔が思い浮かぶ。
褐色の肌の青年の姿が。
彼はラダメスが自由に会える事のできる数少ない一人だった。
「……そうだな。オウジュに頼んでみるとしようか。彼なら旅慣れているから安心できる。だが、問題は当の本人が今どこにいることやら。根っからの遊び人で風来坊だからな……」
一つ大きなため息を吐いて、ラダメスも横になる。そして明かりを消した。
すぐ隣に小さな温もりを感じながら夜闇の中、そっと手を伸ばす。
母親譲りのプラチナブロンドの髪。
それを愛しげに撫でてゆっくりと目を閉じた。




