10-3
「……ぅ、ん」
ふと、妙に上下に揺れる感覚を覚えて意識が浮上した。
「あら……?」
随分と変な体勢で寝ていたものね、と思いながら目覚めたフレアは目の前にある真っ黒な髪に小首を傾げた。
「あ、ようやく目が覚めたか! …………ったく、フレアはのん気でいいよな」
「私は……?」
フレアが顔を上げてしばしぼんやり。太陽の眩しさに目をしばたたかせる。その後霧が晴れるように急速に頭が澄み渡っていった。
そこでフレアは気付いた。
今、自分は勇者に背負われているという状況に。
「ちょ、ちょっと何をしてるのよ!」
「うわ、暴れんなって。お前、足腫れてるんだ。立って歩けねーだろ」
勇者の背中にもたれかかっていた状態から急に上体を起こし、叫ぶ。
その顔は羞恥に赤く染まっていた。
その際、偶然フレアの手が勇者の背中を押して、その衝撃が胸まで届く。
途端、勇者がビクリと固まった。
「――ッ!」
「え?」
勇者の歩みが止まり、呼吸が止まる。
ミノタウロスによりヒビが入った肋骨は当然まだそのままだった。
それどころか、負わされた傷と打撲は次第に熱を帯びてきており、目元は大きく腫れ、その額には小さく脂汗まで浮かんでいる。
それを押し殺し、あくまで平気なように勇者は振舞う。
理由は単純。それは格好悪い姿を見せたくないからだ。
男の子は女の子の前では意地と見栄が大切なのです。
「ちょ、ちょっとあなたどうしたの?」
勇者の不調に眉をひそめ、そこでようやく脳裏に牛の怪物の影が閃いた。
「そう! ミノタウロス、ミノタウロスよ! あれはどうしたの!?」
気を失う前にいたミノタウロスは、気がつけばどこにもおらずに勇者に背負われている状況。
これが指し示す事となると。
「ねえ、ノヴァ。私はミノタウロスに襲われていたのだけれど」
「……うん、そうだな」
再び歩き始めた勇者の背に背負われたまま、フレアは真剣な面持ちで問う。
「そう。やっぱりただの悪夢っていうわけじゃなかったのね。
じゃあ、どうして今私はこうして五体満足のままあなたに背負われているのかしら」
フレアは考える。
目の前の勇者がミノタウロスを倒した、などという事はまずありえない。
かといって、あれからミノタウロス達が自分をまた捨て置いてどこかに去って行ったという事も、まあ可能性は極めて低いだろう。
となると……
「もしかして……誰かに助けてもらったの?」
「いや」
首を横に振る勇者に、フレアは続けて問う。
「じゃあ……あなたが私を助けて逃げたの?」
フレアにとって勇者が倒したという推論はハナから論外らしい。
それを感じ取った勇者は思わずガックリ肩を落とす。
そして、それもまあ仕方ないかと諦めた。
ミノタウロスは自分が倒した。そう言ったところで今までの評価が評価なのだ。
万年レベル1。それがレベル24の怪物に挑んでどうして生きて帰れると思えるだろうか。
どうせ信じはしないだろう。
今までの話も話半分に聞かれているのだ。一笑に付されるか、逆にふざけないでと怒り出すかもしれない。
それに、勇者自身すらも信じられないのだ。自分があれほどの敵を3体も相手取って生きているなどと。
だから勇者はすました顔で言う。
「ああ。うん。まあ、そんなところ」
やけに要領を得ない、奥歯に物が挟まったような言い方にフレアはわずかに疑念を抱く。
だがそれを、フレアは「逃げる」という男の子にとっては屈辱な事を口にしたからだと納得した。
「そう……」
気が抜けたように呟き、歩く勇者の背中にもたれかかるフレア。
どうやってあんな怪物達から逃れられたのかは分からないが、今は追及する気も起きなかった。
今はただ二人共に助かった事、その奇跡だけを噛み締めていた。
「まあ、そのだけどな、無事で……よかった」
ふと、勇者の前に回しているフレアの手に水滴が伝わる。
汗……ではない。
「本当に、よかった」
苦しそうな、けれどすごく救われたようなその勇者の声。
「あなた……もしかして、泣いてるの?」
「そ、そんなわけあるか、バカ! 泣いてなんかねーよ!」
フレアからは勇者の顔は見えない。
けれど、その方が良かったのかもしれないとフレアは思った。
「心配、かけたみたいね」
「だ、誰が! ……心配なんて」
尻すぼみになる勇者。
それがフレアに自分の言葉が合っていた事を確信させた。
「ごめんなさい。あなたにこんな無茶をさせてしまって。本当に、ごめんなさい」
「え」
「私が慢心して深入りしすぎたせいで、こんな危険な目にあわせてしまって。あまりにも私がバカだったわ」
勇者がうろたえている気配がなんとなく伝わってくる。
耳に痛い沈黙が続く。
やがて口火を切ったのは勇者からだった。
「あー、えっと、だな。お前、変だぞ」
「……は?」
言うに事かいて変とは何て失礼な事を言い出すのだ、この勇者は。
「お前はもっとふんぞり返ってたらいいんだよ。それがお似合いだろ。いつもバカみたいに自信満々で胸を張って。そんな借りてきた猫みてーに大人しいと、今にも空が吹雪いてきそうで怖いったらありゃしねえぞ」
「なっ! こ、この……! 人が折角非を認めて頭を下げたのにそこまで言うのかしら」
多少は覚悟していたとはいえ、やり場のない憤りがフレアの中で暴れる。
だがそれは次の言葉で消えた。
「ぼくはいつもの元気なフレアの方がいいと思う。
だから、な。変に萎れたりするなよ。フレア」
勇者は何も深く考えてなさそうに気持ちのよい声で言った。
相変わらずの感情まかせの一直線。
そこには何ら陰も歪みも見えない。
かけられた予想外の言葉にフレアはただしばしの間、言葉を忘れたようにポカンと大口を開ける。
そして、言った。
「この、バカ」
力のない声。
こんな、自分よりてんで弱い年下の勇者に命を助けられたあげく、こうして重荷になっているという屈辱。
けれど屈辱以上に惨めさが際立っていた。
全て自分が招いて巻き込んだ結果だというのに、王家を恨んでいるはずの勇者はそれでもなんら含むところもなく心配してくれる始末。
それが余計にフレアを苦しめる。
一体勇者のどこからこんな温かさが生まれてくるのだろうか。
緩みそうになる涙腺を必死に止め、フレアは顔を俯かせて言う。
「これだから……バカは嫌いなのよ」
「うっせー。どーせぼくはバカだよ。それでいいから、ほら、はやく元気だせよ。な」
「ええ……助けてくれて、ありがとう」
「別にいいよ。それが勇者ってものなんだから」
「そう……」
今度こそ完全に力が抜け、勇者の肩に顔を埋める。
勇者の服はあちこちが泥にまみれ、正直清潔好きなフレアにとっては眉を顰める汚さだった。
だが、この万年レベル1の勇者があのミノタウロスと出会って逃げられたのだ。命を落としていないのが不思議なくらいの相手から。それも自分を助け出した上で。
それを考えたら泥くらいなんでもない。
ゆっくりと空気を吸う。
それからなんだか可笑しくなって、自然と笑みがこみ上げてきた。
「……汗くさいわね」
「仕方ないだろ、全力で動いてたんだし」
「そうね。でも、悪くないわ」
「えー? 臭いのがいいのか? それぜってえ変だぞ」
「ええ、私も変だと思うわ。でも変なのは今日だけだから気にしないで大丈夫よ」
「意味が分かんねえよ」
「いいからあなたはちょっと黙ってなさい」
「なんだよそれ」
「気にしない、気にしない。ほら、足元危ないわよ」
「へーい」
また沈黙。
王都への道を勇者はフレアを背負って歩いていく。
勇者の吐く息はわずかに熱を帯び、それでも軽々とフレアを運んでいく。
その間、フレアは勇者の背でとりとめもなく考えていた。
もし彼が旅立てば、こんな風になってしまうのだろうか。
たった一人で戦い、ほうほうの体で逃げ惑い、寒空の下をさまよう。
それを思うと胸が締め付けられた。
天を見上げ、しばし雲を眺める。
次に考えるのは自分の事。
立場。評価。将来。
自分の取るべき選択。進むべき道。周りの期待。
望み、望まれている事。
「……私もバカね」
心の中でそう呟く。
自然と苦笑がこぼれた。
自分は男運が悪いのかもしれない。
ついつい、そう自嘲する。
「でもまあ、仕方ないわよね」
自分で自分に呆れる。
けれど。
フレアにはそれが不思議と心地よかった。
自分をバカだとも、無謀だとも思う。
けれどそれが悪い気は決してしなかった。
『そう』決めた途端、フレアの心が楽になった。
息苦しさは消え、体が軽くなる。
定まらずに揺れていた芯が真っ直ぐ立つ。
天を仰ぎ、大きく、大きく、息を吸って、吐く。
「ねえ、ノヴァ」
「今度はなんだよ」
いつになく穏やかで、初めて聞くフレアの艶かしい声色に思わず警戒にたじろぐ勇者。
それに構わずにフレアは続ける。
迷いのない言葉は宣誓となって少女の中に刻まれる。
「どうせ、あなたとパーティを組もうなんて人いないでしょうから、私が特別に一緒に行ってあげるわ」
勇者にとってはまさに晴天の霹靂だった。
「え……?」
「感謝なさい。他に引く手数多の私が、それら全てを袖にしてあなたを選んだのだから」
既に確定事項のようにフレアは告げる。
それは言外にまさか断るなんて言わないでしょうね、と語っていた。
「二人だけのパーティ……ふふ、まあ私一人いれば十分でしょう。しっかりついて来る事ね、勇者様。私があなたを立派な勇者にしてあげるわ」
「あーっと、いや、その」
一人、矢継ぎ早に言葉を繰り出し続けるフレアは楽しそうに何度も頷く。
何かを言おうとして口を挟めず、小さく口ごもる勇者に気付かないまま。
「レベル1でも安心なさい。私が一緒に行くには百人力よ。どんな敵だって蹴散らしてみせるわ。
ふふふ。私とあなた二人でどこまでいけるか、むしろちょっと燃えてきたわ」
くすくすとどこまでも上機嫌の笑顔でフレアは愉快そうに勇者に話しかける。
一方、それとは対照的に冷や汗をダラダラ流して気まずそうにしている勇者。
やがて道の先に王都が見えてくる。
いつになく明るくはしゃいでいるフレアを背に、勇者はもう一踏ん張りだと力を入れなおす。
突然のパーティ参加宣言に勇者は驚きはしたが、決して悪い気はしていない。
むしろ、認めてくれた事は素直に嬉しいと思っている。
問題は一つ誤解している事があって、それをどう切り出すかなのだが……
その時を想像し、少しばかり気が重くなる。きっとろくなことにならないだろうなと思いながら。
けれどそれもまあ、少々口うるさいが頼りになる仲間が増える事に比べれば……なんてことのない些細な事かと小さく笑う。
「なぁに、ため息なんてついて」
「いや、なんでもねー。それより、ほらもうすぐ着くからな。早いところ城で体を診てもらおうぜ。ぼくも大神殿に行って癒してもらわないと」
門の衛兵が見えてくる。
ようやく二人の波乱の一日が終わろうとしていた。
☆☆☆☆☆
で、二日後。
勇者の宿にて。
「ちょっと、これはどういう事よ!」
力いっぱいにテーブルを叩く王女様。
その怒声の先には張本人たる勇者ともう一つの人影が。
「いや、だからぼくの最初のパーティメンバーで神官見習いの……」
「あ、あの。フレア様、はじめまして。セアって言います」
勇者の影に隠れるようにしていた法衣姿の小さな女の子がおずおずと出てきて挨拶をする。
それに目を釣り上げ、フレアは更に吼える。
「聞いてないわよ!」
「いや、ずっと前から言ってただろ。仲間ができたって。けどフレアはどうしても信じなかっただろ」
「そ、そんな……」
がっくりと両手をテーブルにつき、そのまま突っ伏すフレア。
過去の自分の数々の発言を思い出し、少女は頭を抱えもだえながらうずくまっていた。
「あ、あの……どうかしましたか?」
「いや、セアは気にしなくていいんだ。それより、ほら。いい加減挨拶しようぜ、フレア」
「う、うう。それもそうね……想定外のダメージに見苦しい姿を見せてしまったわ」
「それはお前が悪い」
「うるさい!」
完全に八つ当たりです。
一度仕切りなおすために咳払いを一つして、フレアは王女スマイルを浮かべた。
「フレアよ。この国の第3王女で魔法使いを目指しているわ」
「セアです。大神殿で神官として修練しています。フレア様、どうかこれからよろしくお願いします」
無防備な子犬のような笑顔でセアが手を差し出し、フレアもそれを優しく握った。
「……なに、いい子じゃない。気に入ったかも。こちらこそ、よろしく頼むわね」
「はいっ!」
二人の少女がきゃっきゃと仲良くする側で、勇者も嬉しそうにそれを眺めていた。
「セアをあんまりいびるなよ、フレア」
「誰がいびるっていうのよ。まったく、私に隠してこんないい子をどこで引っ掛けたのかしらね」
「引っ掛けてねーよ!」
「わ、わ。お、お二人ともケンカしないで下さい」
こうして、また一人ノヴァのパーティに仲間が加わった。




