10-2
山崩れの土石流は裾野まで押し寄せ、止まった。
耳に痛い静寂が降る。
時折どこからかバランスを崩してはまた土砂が流れ落ちる音がする。
やがてそれも完全に収まり、後に残されたのは山間の静けさ。
生き物の呼吸音一つも存在せぬ静寂の時間。
だがそれは突然の爆音と共に破られた。
「う……ケホッ」
風の魔法で土砂と木を吹き飛ばし、フレアが這い出てくる。
四つんばいになって必死に口の中の砂利を吐き出し、自然と溢れ出る涙をぬぐう。
ローブはあちこち破け、輝くような金髪も美しい柔らかい肌も土でいたる所が汚れていた。
息を荒げ、咳き込む。
土砂に飲み込まれたフレアはパニックになってやたらめったらと魔力を使い、デタラメな魔法を連発した。当然魔法は威力もコントロールも乱れ、魔法と言うこともできないような稚拙なものばかり。
その結果、一時的な魔力不足となって強い虚脱感と吐き気をもよおしていた。
しかし幸いにもそのおかげで完全に飲み込まれ、潰されることだけは避けられた。
杖もなくし、立ち上がる気力も生気もないままぼんやりと倒れこんでいると、遠くから勇者の呼ぶ声がフレアの耳まで聞こえてくる。
その声を聞いた途端にフレアの緊張が緩み、一気に力が抜けた。
そうしてほっと一息ついた時だった。
茂みをかきわけ、小さな影が進み出てくる。
「ノヴァ? 早かったわね」
無様を晒すまいとプライドを総動員して、くらくらする頭を押さえながらなんとか立って迎えようと力を入れた時、フレアはそれに気付いた。
影は一つだけでなく、複数だった。
「ギギ」
そこに現れたのは小鬼の群れだった。
それぞれ手に棍棒を持ち、ボロ布を体に巻きつけたゴブリン達は群れて人を襲う凶暴なモンスターだ。
いつものフレアなら軽く魔法でなぎ払えるが、今はあまりにも状態が悪い。
立ち上がろうとした時に足首に痛みが走り、今すぐ立ち上がる事すらできない。捻挫でもしたのだろう。
素早く獲物をやや遠巻きに取り囲み、目配せを交わして口を大きく歪めながら喜び合う。
手と腕を動かし、身を硬くするフレアと仲間の間を何度か往復させた後、一匹のゴブリンが近づいてくる。
フレアの金色の髪を掴もうとその汚い手を伸ばしたその時、ゴブリン達の尖った耳が驚きに跳ね上がった。
腹の底に響くような重く力強い咆哮がフレアとゴブリン達を直撃した。
その恐ろしい声の正体に気付き、ゴブリン達は慌ててフレアを捨て置いたまま必死の形相でその場から逃げ出す。まさに蜘蛛の子を散らすように、だった。
助かった。
――などと思うほどフレアは人生を楽観していない。
逆に血の気が引いた。
ゴブリンを一声で退散させる力を持つナニカがこれからやって来るのだ。
ろくに動けないまま餌食になるのは目に見えている。
「はやく……立たないと」
けれどどうしても全身に力が入らない。
次々と見舞われる命の危機に、けれど自分の体はうんともすんとも言わない。
ドシン、と重量感のある足音がした。
果たして、次に現れたのは3体の牛頭人体のモンスター。
レベル24のミノタウロスだ。
その筋骨隆々とした2mの肉体から生み出される怪力は大岩をも割るという恐るべきモンスター。人間を人形のようにちぎって捨てたという話もある。そして人間を生きたまま食らうとして国から非常に警戒され、発見され次第可及的速やかに掃討する対象となっている。
「なんてこと……こんな所にミノタウロスが移り住んできてたなんて。最悪」
腰に毛皮を巻き、肩に斧を担ぎ、半裸のミノタウロスの視線がフレアを捉える。
何の感情も読み取れない濁ったような目は幼い女の子に恐怖を覚えさせるのに十分だった。
「こ、の……」
何もしなければ殺される。
必死で魔法を使おうと集中する。だが、もはや搾り出した魔力は種火程度の火しか生み出せなかった。
「あ……」
これから辿るであろう無残な末路に小さな体を震わせ、歯の根を鳴らす。
けれど。フレアは強い悔恨を胸に歯噛みする。
「これは自業自得だわ。私が自分の力を過信して、過ぎてはいけない一線を踏み越えたせいで……」
土を引っ掻くように強く握り締める。
涙は見せない。決して出すまいと歯をくいしばる。
泣いてなんかやるものか。自分は誇りある王女なのだから。
それがせめてもの意地。
だが意思に反して溢れていく諸々の感情。頬を伝うそれを見ないふりをして、睨みあげる。
せめて、ノヴァだけはこいつらと遭遇しないことを祈って。
ゆっくりと歩み寄ってきたミノタウロスは、そのまま乱暴にフレアの首を絞める。
別段死んでも構わないという力の篭め方は、抵抗もできないフレアの意識を容易く刈り取った。
気絶したフレアの片腕を掴み、持ち上げる。
そのまま宙に吊らしてミノタウロス3体は来た道を引き返そうと踵を返した。自らの住処で食うつもりなのだろう。
今日の収穫を手に、現れた時と同じように無言のまま去ろうとしたミノタウロス達。
その後ろ姿に、3つの小さな棒の影が襲い掛かった。
死角からの襲撃に、ミノタウロス達の反応は早かった。
フレアを掴んでいるミノタウロスAとその隣のミノタウロスBは即座に跳び、散開する。最後尾のミノタウロスCが振り返り、目前に迫る影の刃を全て払い落とした。
技術も何もない、ただ戦闘本能に従っただけの斧の乱暴な一撃は、しかし見る者に屈強な野生の戦士を思い抱かせるには十分な迫力をもっていた。
棒手裏剣にやや遅れて小さな人影がミノタウロスへと走る。
不意打ちのはずの、人影の勢いを加えた渾身の斬撃は甲高い音を立ててミノタウロスCに真正面から受け止められた。
更にもう二度短剣が閃き、斧と交差する。
だが押し返される。
重厚な肉厚の刃を持つ斧に比べ、その短剣はあまりに軽かった。
レベル24の壁は高く聳え立ち、その歴然とした力の差を感じ取った人影は囲まれる前に跳び下がる。
ミノタウロス達の前に現れたのは険しい表情のE国の勇者ノヴァ。
短剣と盾を構え、目には静かな怒りと闘志を燃やしていた。
ミノタウロスCがいきり立つ。
息を荒げ、獰猛な唸り声を上げる。戦士として興奮した面持ちで彼は勇者を敵と認め、斧を構えた。
歯を打ち鳴らし、威嚇する。
「その手を放せ」
手の空いている二体のミノタウロスBとCが前に出る。
フレアを引きずるミノタウロスAは更に後ろへ下がっての高みの見物だ。
「フレアから手を放せっ!」
勇者が吼える。
圧倒的格上の相手に引けをとらない気迫を以って己を奮い立たせる。
これから刃を交えるは怪物。暴れれば小さな木など一撃で切り倒す怪力と鉄の肉体を持つ恐るべき野獣の戦士。
それを3体同時に相手取らなければならない。
勇者が地を蹴った。
中央突破と見せかけつつ一度上体を左に揺らし、全力で右へ方向転換。斧を持っていない側を狙って一気に駆け抜ける腹積もりだった。
目の前の二体には用はない。あくまでフレアの救助が目的だ。
例え2体をかわした結果、AとBCで前後から挟まれることになろうと構わない。いつミノタウロスの気が変わって、その手の中のフレアが殺されてしまうか分からないのだから。
「くっ!?」
だが、そんな勇者をあざ笑うかのようにミノタウロスBが回りこむ。
巨体とは思えない身のこなしと素早さだった。
一度フェイントに引っかかり、完全に出遅れていたはずなのにこの結果。
全基礎能力において勇者とミノタウロスでは差がありすぎた。
「どけよ!」
遠回りになる迂回は通じないと悟り、強行突破を図る。
勇者はその懐に飛び込むための2歩を詰める間に自らの体内で可能な限り極限まで短いビートのリズムを刻む。
リズムに合わせて小さくステップを踏み、短剣を振るう。
三度。速いリズムに乗った剣閃が走る。
やや驚いたようにミノタウロスBが斧でそれを受ける。初撃で腕の肉を浅く斬っただけで、残り2撃は防がれてしまった。
もう一歩踏み込んで押し通ろうとした時、後ろに空気の乱れを漠然と感じ取る。
考える前に勇者は横に跳んでいた。
そのすぐ直後にミノタウロスCの斧が頭上から勢いよく振り下ろされた。が、それは虚しく空を斬る。
今の所、ミノタウロスの攻撃は回避できる範疇にある。
だが、2体がそれぞれやたらめったらと斧を振り回してくる。直線的な動きが多いが瞬発力は高く、気を抜けば一瞬で間合いを詰められるほどだ。その二重の暴風圏は広く、激しい。
連携というには拙いが、それでもわずかな反応の遅れが致命的になるであろう勇者にとっては厳しい領域だ。
筋肉を盛り上げた巨体が目前に勢いよく迫ってくる様は小さな勇者に圧迫感と威圧感を与える。
それを受けてなお勇者は足を踏ん張り、重圧の中を逆らって向かっていく。
「どけよ、どけったら!」
短剣で受けたら即折られる。
瞬間で判断し、盾で勢いの乗った渾身の斧を丁寧かつ慎重に受け流す。
少しでも流す盾捌きのタイミングを間違えれば盾ごと腕が真っ二つになっていた。そう思わせるだけの怪力と風圧が盾ごしに伝わってくる。
戦況は極めて厳しい。
ただでさえ格上の相手。それが2体。
何度挑もうとも、何度短剣を振るおうとも、どう動き回ろうとも、彼らを振りほどけない。目の前のフレアに届かない。
全て目の前の2体に阻まれる。
全て押し返される。
抜き去ることも、倒す事もできない。
力が足りない。
「くそっ」
勇者が歯ぎしりする。
フレアをぶら下げたミノタウロスAはそんな勇者を見てひどく愉快そうに鼻を鳴らしていた。
焦燥がじわじわと勇者の胸を焦がしていく。
焦りは動作に影を落とし、無駄な動きは体力を容赦なく削っていく。
気ばかりが急いて、集中にノイズが走り、リズムに乱れが出る。
次第に勇者の動きにも目が慣れてきたのか、ミノタウロスの攻撃が勇者を捉えつつあった。
そうなれば、後は坂を転げ落ちるように劣勢となっていくばかり。
勇者の傷だけが一方的に増えて行く。
青銅の盾はミノタウロスの怪力の前に次第に削られ、欠けていく。
嫌な音を立て続ける盾に、ミノタウロスは嘲う。もはやこのままでもじきに割れるのは見えていた。
それでも勇者は必死に盾を巧みに扱い、攻撃を捌いていく。
必死に足を動かす。
縦横無尽に迫る斧の刃を、拳を、蹴りを飛び回って避け続ける。
今となっては攻撃をかわし続けるだけで精一杯。短剣を向ける回数も少なくなってきていた。
スタミナも今はまだ問題ないが、この分では息がきれるのも近いだろう。
本来は長時間をフルで戦い続けられるだけのスタミナがあったはずの勇者。それを短時間に消耗させ尽くすほどの猛攻だった。
そしてそれを今なお凌ぎ続けている勇者の姿は一種異様とも言えた。
ありえないのだ。異常にすぎる。
勇者とミノタウロスのレベル差は10を超えている。両者のレベル帯においてこの差は絶望的だ。それなのにこれほど戦闘が拮抗するという状況など。
本来なら1対1でも、良くて3合まで。それで決着が着くだろう。無論勇者が一刀両断にされて終わりだ。
それが、なにをどう修行を積めばこのような光景が成るというのか。
だがそれでも両者の力関係は変わらない。
「ぼくは、なんのため……」
盾と短剣を持つ手に力をこめる。
今まで師匠と修行を続けてきたのは、こういう時のためのはずだった。
悪いモンスターから人を助けるために頑張ってきたはずだった。
それが、なんだこの様は。
ミノタウロスBとCの方は既に息が乱れているが、それでも斧を振り回す力に衰えはない。
「くそっ、くそぉ……なんでだよ」
どうしても突破できない。
どうしても助けられない。
このまま目の前で見逃すのか。
また。
また、妹やセアの時のようなあんな思いをするのか。
自分は……どこまでいってもレベル1の勇者でしかないのか。
「……ふざけんな!」
重くなっていく手足を懸命に動かす。
斧を避けて跳んだ先、そこで先回りしていたミノタウロスから蹴りをもらう。ついに真芯で捉えられ、木の幹のように太い足が勇者の胸に突き刺さる。
その一発で肋骨にヒビが入った。
胸に走る痛みに顔が歪む。
既に盾を持つ腕は斧を受け続けた衝撃で痺れ、握力が弱まり言う事を聞かなくなりつつある。
吹き飛ばされ、地面を削りながら転がった。
痛みをおしてすぐさま立ち上がる。
が、そこで目に映ったのは大きな手の平。
わずかな間で距離を詰めたミノタウロスがついに勇者を捕らえた。
「は、はなせよ!」
頭を鷲掴みにされた勇者が短剣を振るおうとするが、それより先にミノタウロスが動いた。
ミノタウロスは嗜虐的な笑みを浮かべながら、強烈な拳を勇者の腹にお見舞いする。
まるで内臓を吐き出してしまうようなあまりの衝撃に、勇者の呼吸が止まる。
続けてミノタウロスは勇者の片足を持ち、まるで鍬のように振り上げて大地に思いっきり叩き付けた。
それはまるで子供が気に入らない人形を乱暴に扱うようだった。
「――っ」
勇者は咄嗟に短剣を捨て、かろうじて頭だけを両手でガードする。
だが2度、3度と持ち上げられては全身を大地に叩きつけられる事を繰り返され、次第に全身の感覚が遠くなっていった。
まさに嬲り殺し。
左目の周りは腫れあがり、体のあちこちに内出血の紫のあざができる。
胸の痛みはますますひどくなり、全身には力が入らない。
ミノタウロスがぐったりした様子の勇者をゆっくりと持ち上げ、宙吊りにする。
力を失った勇者の左腕から盾がスルリと抜け、地面へと落ちていく。
「……ぁ」
ぼんやりと頭が霞む。
意識が遠くなる。
瞼が重く、視界が徐々に狭まっていく。
だがそれでも。
小さな意識の糸をたぐりよせ続け、闘志だけは決して絶やさない。
拳を握る。
強く、強く握り締める。
フレアが、助けを必要としている人が目の前にいるのだ。
今、助けられるのは自分しかいないのだ。
誰が、これ以上好き勝手に、やらせてやるもんか!
「……う、おおおあああ!」
閉じかけていた目を開く。
全身に力をこめる。
痛みが暴れ狂うが、それを食いしばって押さえ込む。
「ふー、ふー」
白く荒い息が寒空へと昇っていく。
呼吸をする度に苦痛が勇者を苛むが、それ以上に勇者の内は燃え盛っていた。
負けない。
負けたくない。
負けるもんか。
「この、いい加減にしろよ……」
そうだ。
もう、ぼくは決して――
「かっこ悪いところなんて、二度と見せるもんか」
決して、手放したりなんかしない!
師匠がぼくを見てるんだ。
仲間がこんなぼくを勇者って言ってくれるんだ。
皆が望む勇者に、ぼくはなるんだ。
勇者はぜったいに負けない。
ぼくはぜったいにフレアを、皆を守るんだ。
「だから、こんな所で、やられてたまるか!」
真っ白にぼやける頭で目の前の敵を睨む。
手負いの獣の眼光。
それを間近で目の当たりにしたミノタウロスはわずかに怯む。
だが勇者はあくまで半死半生。調理するのは自分だとミノタウロスは思い出す。
それを虚勢と嘲笑い、ミノタウロスの手が勇者の首へと伸びた。
首を絞められ、徐々に息苦しくなり、世界が遠くなる。
空中で溺れる中、勇者の目は力を失わない。
「このっ!」
武器がなくともまだ戦える。
まだ右腕は生きている。
この体一つがぼくの武器だ。
師匠に習った体術がまだ残っている。
まだ、終わってなんかいない!
足りない。力が足りない。
もっと強く。もっと速く。
もっと。
もっと!
もっと!!
こんなやつらを振り払って、早くフレアの元に行くんだ――!
「――!?」
勇者の視界に閃光が走る。
瞬き一つだけの間の強烈なフラッシュ。
輝く白い閃光の中に、何かがいた。が、それが一体何なのか分かる前に消えてしまった。
ふと、右手の中に何かの感触が生まれた。
それは硬い、金属質の棒のようなものみたいだ。不思議と温かく、まるで生きているかのように脈動が伝わってきた。
それを握り締め、ろくに確かめもせずに武器代わりにして目の前のミノタウロスに思いっきり突き立てる。
「モ゛オオオオオオオッ!?」
ミノタウロスが絶叫をあげる。
首を掴まれていた手が緩み、勇者が地面へと落とされる。
「はぁっ――」
全身に激痛が走ったが、それ以上に空気を求めて口を開く。
それからまだフラフラとする頭で素早く現状を把握しようと、目の前の敵を見上げる。
見れば、ミノタウロスに突き立てた箇所の脇腹が大きく球状に抉れていた。
抉れたのはリンゴ大の大きさで、傷口の周りや内臓は完全に炭化して血すら出ていなかった。
次に自身の右手をチラリと見る。
手の中にあったのは小剣。純白の刀身に、柄には真っ赤な宝石がはめ込まれている。
更に刀身には小さく文字が彫られているのに気付いた。
U S
ルーン文字。咄嗟にその意味を思い出せず、けれどその意味を考えているヒマはなかった。
解放された勇者は素早く立ち上がり、小剣を振るう。
その振るった軌跡に沿って白い輝きが残像のように生まれる。
逆袈裟懸けに太ももからわき腹までを斬りつけられたミノタウロスは、咄嗟に下がったことでわずかに体の表面を掠めただけだった。
だが、ミノタウロスの厚い筋肉の鎧は剣線に沿って背中側までゴッソリ消失した。
まるで大きな轍の跡のようだった。
「!? !? !!」
肉体を削られたミノタウロスは何が起こったのか分からない顔でそのまま倒れ、痙攣する。その目は急速に生気を失っていった。
勇者もまたあまりに不可解な現象に内心驚いていた。
小剣を持つ手にヒリヒリとした熱を覚えるが、今はそれどころではない。
勇者の突然の反撃に驚きの声を上げていたもう一体のミノタウロスCが斧を振り上げ、迫ってくる。
「くっ」
勇者は体を横にズラしながら、小剣を斧に対し斜めに当ててなんとか刃の軌道を逸らそうとした時だ。
小剣と斧が交差した瞬間、鉄製の斧の刃が無くなった。
鉄の融点は約1535℃。更に沸点は約2750℃となる。
それを遥かに超える熱量を秘めた小剣。
超々高温度による完全電離刃。
それは斧を融かし、更に刹那の間だけだが蒸発すらさせていた。
「え?」
何も知らない勇者自身も呆気に取られながら、しかしミノタウロスにできた隙は見逃さない。
そのまま回避を続け、融けて降り注ぐ高熱の雨を避ける。
目を白黒させて手元の斧の柄を見ているミノタウロスの横から刺突を放つ。
ほとんど手ごたえを感じないままミノタウロスの腹に空洞が空き、また一体倒れゆく。
一体何が起きているのか分からず、頭をキョロキョロと振っている最後のミノタウロス。
「フレア! 今っ、助ける!」
魔法でいくつかの氷の飛礫を放つ。
動揺したままのミノタウロスはそれをまともに顔に受けて、わずかな痛みに顔をしかめて斧を持つ腕で顔をかばう。
「フレアを放せ!」
意識を逸らせた事を確認した上で、勇者は小剣を投げると同時に地を蹴った。
小剣の切っ先はフレアを捕まえている腕へと狙いをつけ、風を切り裂いて飛ぶ。
小剣の刀身が触れようとした直前、ミノタウロスの左肩が吹き飛んだ。
小剣はそのまま彼方へと飛び、フレアは腕ごと地面に投げ出される。
勇者はよろめきながらも距離を詰め、腕を失くした痛みに暴れ狂うミノタウロスの懐に潜り込む。
やたらめったらに振り回される斧をややぎこちない動きで掻い潜り、勇者の目が鋭く光る。
これが最後のチャンス。
人体急所の一つ。稲妻のやや下あたりへ見上げながら手の平を当て、一度息を大きく吸う。
思い浮かべるは師匠の姿。見様見真似で動きをなぞる。
呼吸と共に闘気を体内で素早く練り上げ、圧縮させる。
それは未だ未熟な稚拙なもので、練りこみも甘くわずかばかりの闘気でしかなかったが、それでも懸命にかき集めた。
そして腰を落として一歩、踏み込む。
力強く踏み込んだ足から暴れ狂う力が駆け上り、腰を伝い、脊髄を昇り、それら全ての膨大な衝撃を右腕に渡す。
「――ッ!」
掌底に篭めた全ての力を寸打で以って打ち抜く。
極々局所的に空気が歪み、たわむ。
軋む空間。
そして、無音の爆発。
ミノタウロスの腹部が大きく穴があいたかのように陥没した。
衝撃が脾臓の大半を押し潰し、折れた肋骨が内臓を突き破る。
「……ア゛」
逆流してきた血を口と鼻から流し、最後のミノタウロスはその心臓の鼓動を止めた。
寒空の下、満身創痍の勇者が膝をついて息を荒げる。
全力をだし尽くして倒れこみそうになる体を支えながら勇者は未だ気を張り詰めていた。
まだ終わっていない。
やや千鳥足になりながらもフレアの元へと行き、顔をのぞきこむ。
「……よかった。生きてる」
これまでの疲れがどっと押し寄せ、勇者が力なく座り込む。
ようやく一息つけた勇者はそういえばと不思議な小剣について思い出した。
「なんだったんだ……あの剣」
投げた小剣を探すと、少し離れた所にそれは落ちていた。
ぼんやりとそれを眺めていると、小剣はうっすらと光り輝き始め、まるで淡雪が溶けるように消えた。
最後の消える一瞬、チカっと何かが光って、すぐに見えなくなった。
勇者はそれを見届け、わずかに首をかしげた。
消える前に見えたもの。それは……
「あれは……精霊か?」
ふと、すぐ間近から囁き声が届く。
それはさざなみのように満ちては引いて行き、たくさんの声を小さく囁く。
”やっと”
”やっと”
”やっと気付いてくれた”
”気付いてくれた”
”くれた”
”でも”
”うん、でも”
”でもまだ”
”まだ早かったかな”
”早かったかな”
”かな”
”うん”
”もっと”
”もっと”
”聞こえるように”
”ようになったら”
”なったら”
”また”
”また”
”会おうね”
”また会おうね”
”ばいばい”
”ばいばい”
”ばいばい”
そして静寂が戻る。
声はもう二度と聞こえなかった。




