酸っぱいブドウの思い出(片方は甘酸っぱいらしい)
慣れない地下での移動と、普段はまず滅多に目にしない魔物との遭遇。そして血生臭い戦闘――この連続に、さすがにオデット嬢の心身の消耗が激しいということで、適当な小部屋で昼食がてら一時間の休憩をとることにした。
場所については地下の構造に精通しているオデット嬢の案内で、普段はなんて事のない通路の一部に偽装されている隠し部屋を探り当て、護衛が中を確認して魔物がいないか、罠の類いがないか(ここはエレナが慎重に探索した)確認の上で、安全と判断をして全員で部屋に入って休むことにして、きちんと壁に偽装されていた扉を閉めるようにする。
念のために通路に見張りを残しておくことも検討されたけれど、シビルさん曰く、
「下手に護衛を残しておくと、逆に人間の臭いや気配に敏感な魔物に見つかる恐れがあるのでやめましょう。この場所に魔物が巣くっていないことから、もとの偽装が信用できるかと思います。勿論、念入りに香料で通路に残った臭いを消しておく必要はありますが」
という助言に従って全員で小休止するということにした。
ついでに魔物除けの魔具を通路の端と端に配置して、魔物が近づかないように細心の注意を払う。
ちなみにこの魔具。魔物が嫌う霊光を発するもので、現代では洞矮族のそれも熟練の職人でないと作れない貴重品であるそうだ。
値段もちょっとした箱馬車が馬付きで買えるほど(もっとも値段よりも数が少ない希少性が問題なのだが)であるので、まず一般人には手が出せるものではないが、今回は出し惜しみせずに使い捨てることも念頭に配置しておく。
まあ、僕の場合はほっといても魔物が近づきにくい――知能の低い低級の魔物は本能的に逃げるし、頭のいい魔物は僕を知っているのでやっぱり逃げる。たまに頭の悪い粋がっている魔物が向かってくるくらいだ――ので、ほとんど使うこともないけれど、今回は王侯貴族の御曹司、御令嬢に万一の事があってはマズいということで、かなりの数が護衛たちに貸与されたらしい。
ついでに言えば、荷物も現在では製法も不明な『無限収納袋』という、見た目は普通の革製の鞄のようであるのに、その数百倍の物品を収納できる(さすがに無限というわけにはいかずに限界はある)上、見かけ上の重さは変わらないという超希少魔具まで携帯している(それも念のために2個)、余計な荷物持ちなどを必要とせずに快適な――市井の冒険者が聞いたら、「至れり尽くせりだな」と侮蔑混じりのやっかみを口にするだろう――道中が約束されていた。
なお、この『無限収納袋』。金銭的価値としては小貴族なら家屋敷と領地を売っても買えるかどうか……何しろ数が少ない上に、持っている者がなかなか手放さないので、年に一度オークションに出品されるかどうか……という具合である。
そのため、必然的に値段も天井知らずで、随員たちも今回初めて触ったという者も少なくない。
一個はショーソンニエル侯爵家から、もう一個はオリオール公爵家から持参したもので、当然のように両家とも同じものを複数個所持している(中には、収納しておけば時間も停止して、出来立ての料理もその場で食べられるような上位版もあるけれど、さすがに今回はそこまで長期戦にならないだろうと見込んで、そこまで良いものは持ってきていない。とはいえ貴重品なのは確かなので、ぶっちゃけ人命の次くらいには大事にしなければならないけれど)。
そんなわけで、僕たちは10メトロン四方ほどの小部屋に籠って、思い思いに装備や荷物を置いて一息入れたのだった。
ま、思い思いにと言っても、奥の方へ僕、オデット嬢、ガブリエルという感じで序列が決められ、ちょっと離れてアドルフとその護衛、入り口近くに他の護衛が陣取るという形になるのだけれど。
「――どうぞ、公子様。お飲み物をどうぞ」
ふと聞き覚えのない女性の声に顔を上げると、オデット嬢付きの女騎士が跪いていた。
その手には飲み物の入った金属製のコップと、瑞々しい葡萄が乗った皿がある。
飲み物は香草に砂糖を溶かしたお茶のようだ。
こちらはこちらで、エレナとシビルさんが甲斐甲斐しく、パンにハムとレタス、そしてチーズを挟んだサンドウィッチ、パンにマーマレードをこの場で塗ったものなど準備していたが、温かい飲み物までは気が回らなかったらしい。水で流し込んでいた僕としては、湯気の出るお茶と汁気たっぷりのデザートのおすそ分けはありがたい。
「これは?」
地下でなおかつ密室で焚火なんてできるわけはない。貴重なものではないのか? と、そのあたりの疑問を含めて言葉少なに尋ねると、すぐさま斟酌したらしい彼女は、
「我が方の護衛のひとりに、ちょっとした魔術――モノを温めたり冷やしたりする程度です――ができる者がおりますので、簡単に冷めたお茶を温めました。葡萄の方は凍らせて持ってきたものですね」
そう言って改めて差し出されたそれをありがたく受け取る。
お茶を飲んで一息ついて、冷えた葡萄をひとつふたつ抓んで頬張る。
新鮮な果汁が口一杯に広がった。
「これは美味しい。そういえばショーソンニエル侯領は葡萄の一大産地でしたね」
「はい。もっとも大部分はワイン用の葡萄ですので、こうして直接食べられる品種はそう多くありませんが……」
何しろ甘く熟した葡萄は腐りやすいので、なかなか市場に出ないのだ。貴族ならともかく、一般市民は田舎にでも行かなければ生の葡萄など食べたことはないだろう。
それがこんな場所で食べられるとは望外の喜びである。
実際、僕たちも食料として持ってきたのは、日持ちのする干し肉やビスケット、そしてドライフルーツの類いだった。
ふと確認してみれば、オデット嬢も嬉し気に葡萄を白い手で抓んでおり、またガブリエルとアドルフのところへも、同じものが提供されているようであった。
オデット嬢の心配りというわけではなく、気を利かせた彼女のお付きの女騎士たちが気を回してくれた……といったところだろう。
「それでは随分と貴重なものでしょう。僕はあとこれだけで十分ですので、残りはオデット嬢と皆さんで食べてください」
房からあと四粒ほど葡萄を外して、二個ずつエレナとシビルさんに「オデット嬢からのお心遣いだ」と、おすそ分けのおすそ分けをする。
「――ありがとうございます」
「恐縮です。――いただきます」
一瞬、葛藤をしてからエレナは僕に、シビルさんは僕とオデット嬢付きの女騎士の両方に礼を言って葡萄を受け取った。
「いえ。こちらこそ、音に聞こえた元『アナトリア娘子軍』の百人隊長シビル・アミ様にお会いできて光栄です。あの……この探索が終わった後、お時間があれば稽古をつけていただけないでしょうか?」
戻された葡萄の房を胸元に押し抱くようにして、まだ十七、十八歳かと思える彼女は、憧憬の籠った目でシビルさんを見詰めて、そう懇願するのだった。
『――どうでします?』
ちらりとシビルさんに視線で問われた僕は、軽く肩をすくめて『好きにしたら?』と無言で答えた。
「……では、後日我々の稽古場に来られるように手配しましょう」
「本当ですか!? あの、私だけではなくて何人か同じように稽古を所望している同輩がいるのですが……あ、全員女です」
「そう、なら問題ないわ。けれど貴女――」
「あ、申し遅れました。ショーソンニエル侯爵家に仕える陪臣のひとり、シルベストレ騎士爵の娘でカタリナと申します」
姿勢を正して自己紹介をするカタリナ・シルベストレ。
わずかに言葉に訛りがあることから、おそらくはショーソンニエル侯爵家の領内にいる郷士階級の出身で、行儀見習いで王都の本邸に勤めている……といったところなのだろう。
「では、カタリナ。いま公務中であることを忘れないように。貴女がまず考えなければならないのは、ショーソンニエル侯爵令嬢の身の安全です。余計なことを考えて浮ついた気持ちでいないこと。必要以上に張り詰めることはありませんが、常に緊張感を忘れないでいなければいけません。そうでないと、足元をすくわれますよ」
確固たる口調でそう言い聞かせると、カタリナの緩んでいた表情が引き締められた。
「は、はい。申し訳ありません。肝に銘じておきます!」
「――ふっ。別に貴女は私の部下ではないのだから、そこまで畏まる必要はありません。それと、こうして温かいお茶や冷たいフルーツなどを準備できる気遣いは、さすがは侯爵家の姫君の側仕えだと感心しました。どうも私は軍務が長かったせいか、兵糧に関しては嗜好品という概念が抜けていましたからね」
一転して苦笑いで申し訳なさそうに僕に頭を下げてくるシビルさんだけれど、これは別に彼女の落ち度というわけではないだろう。
だいたい事前に相談されていたとしても、『温かい飲み物』とか『冷たいフルーツ』なんて、わざわざ指定するわけがない。
荒事に慣れていない姫君をエスコートするというのに、そうした配慮が欠けていたのは、どちらかといえば僕の落ち度だろう。
そうした気持ちを込めて、笑ってシビルさんの謝罪を受け流す僕だった。
「いらん! 俺は葡萄など大嫌いだ!」
――と、その時、不意に煩わし気な唸り声が聞こえてきた。
さして大きくもない小部屋である。
その声は室内にいた全員の耳に届いたらしい、全員の目がすげなく差し出されたお茶と葡萄を突き返すアドルフへと注がれる。
頭ごなしの拒否に、持って行った女騎士が一言二言謝罪の言葉を口にして、踵を返してオデット嬢の元へ戻っていく。
肩を怒らせてそっぽを向くアドルフを、オデット嬢が悲しみをたたえた眼差しで見詰めていた。
「カルバンティエ子爵子は葡萄がお嫌いなのか?」
シビルさんがポツリと呟き、僕は「さて、どうだったかな?」と首を捻った。
もともとあんまり飲み食いに興味のない男だったから、これが好き・嫌いという話をしたことがないので、明言は避けられるけれど、あそこまで嫌悪感を抱くものがあったとは、正直意外である。
「……嫌いなわけないですよ」
と、カタリナが激情を押し隠した口調で小さく口に出した。
「聞いた話では、一番最初にアドルフ様がショーソンニエル侯爵領にお見えになられた5~6歳の時、お屋敷の周りにある葡萄畑が物珍しかったらしく、勝手に入ってまだ熟していない葡萄を勝手に食べようとしたところを、たまたま乳母様や庭師と一緒に畑を見ていたお嬢様が見とがめて、『そのブドウはワイン用のものだから、とっても酸っぱいですよ?』と声をかけたのが、お二人の馴れ初めだったそうですので」
「思い出の品物ってわけか……」
そう口に出した僕だけれど、一方はそれをほのかな初恋の思い出として大事にしていて、もう一方は消したい過去と決めつけているのは火を見るよりも明らかだった。
アドルフも元は浅墓でも無情でもない純朴な男だったのだけれど、いまの奴は色に狂い、また第一王子の側近という権力の蜜を知ってしまったがゆえに、その精神の根底に怯懦と欺瞞、意固地を根付かせてしまったのだ。
そして、それは僕にも半分責任があることだ……。
一礼をしてカタリナがおそらくはオデット嬢を慰めるために戻っていく。
その様子を見送りながら、一休みのつもりが、どっと心労が増えた気分でため息が出そうになるのを押さえる僕だった。
9/8 誤字脱字訂正しました。