眠れる森のお姫様(おきて説明してくれ!)
かつて淑女の下着といえばコルセットが主流であった。いわゆる退廃的な宮廷文学華やかなりし時代の淑女の常識である。
当時の女性のウエストは五〇cm(=Centum Metoron)が最適とされ、同時に豊かな胸の盛り上がりが女性らしさの象徴ということで(なので基本的にドレスは胸元が開いているデザインが現在でも主流となっている)、ウエストを引き絞って胸を下から押し上げる効果のあるコルセットが、最適な下着とされ長年ご婦人方に愛用されたのだ。
時代とともによりコルセットに最適な材料を求める女性たちのニーズに応え――そのためには金に糸目をつけずに湯水のように散財したご婦人方――冒険者や山師は危険を恐れずに世界を駆け巡り、結果この地上から何種類の魔物や生物が狩られて姿を消したものか数知れず……。
それまで自然界で我が物顔を暴れ回っていた、下級竜や大巨獣の類いが姿を消したのも、この美に賭ける御婦人方の執念に寄るものといっても過言ではなかった。
なにしろ、それ以前は武器や防具の材料として利用されていたドラゴンの素材やミスリル、果てはオリハルコンの類いまでコルセットの材料として珍重され、手当たり次第に狩られて、現在はいずれも枯渇寸前になっているのだから恐ろしい。
というか、それ以前に何千年もの間脅威の対象でしかなかった魔物やドラゴンを、美容と矯正下着のためにだけに、わずか百年程度で狩り尽くしてのけた御婦人・御令嬢方のその執念。
パネぇ……と、戦慄すべきか、延々と無為な時間を過ごしてきた、それ以前の先達である野郎どもが不甲斐ないと嘆くべきか、いまだに意見の分かれるところである。
もっともコルセットが全盛期を誇ったのは百年ほど前の話で、その後は下着の発展とコルセットによる健康に対する弊害。そしてなによりも、不自然に細い腰に対する流行り廃りがあり、現在では朝起きたらまずはコルセット……などという病的なまでにコルセットで締めるという風潮はかなり下火になっていた。
自然が一番。健康美が第一。
ということで、特に若い女性ではその傾向は顕著であり、パーティでもなければ、うちのルネもコルセットは着用せずに、一日を過ごしているのだから、当時地上から駆逐された数多の魔物やドラゴンたちもご愁傷様というか、も立つ瀬がないというか……。さぞかし泉下で嘆いていることだろう。
それはさておき、そのコルセットの弊害だけれど、とにかく呼吸が苦しくてなおかつ血行障害が起こるのか、常時貧血のようにふらふらして仕方がないそうだ(お陰で顔色が蒼白になって色白に見られる効果もあるそうだけれど、どう考えてもデメリットのほうが大きい)。
そのため、コルセットで体型を維持している御婦人は、ちょっと衝撃を受けただけで失神してしまう。
また、立っている時間が長いと失神してしまう。
侮蔑的な言葉をかけられたりして感情的になると失神してしまう。
息をしていても失神してしまう。
特に意味もなく失神してしまう。
そうした華奢で繊細な女性が淑女という風潮が、僕の祖母の代くらいまでは蔓延っていたらしい。
現在でも、大きな屋敷に行けば散見できる『失神ソファ』(素早く失神した女性を介抱するためのソファ)や硝子製の『気付け薬入れ』(中身の主成分はアンモニア)などはその名残である。
さて、目の前で失神してしまったオデット嬢に対してだけど、残念ながら確認してみたところ、シビルさんは『気付け薬』の類いは持っていないとのこと。
「基本的に失神するような根性なしは蹴って、殴って、水をぶっ掛けて、起きたところで血反吐を吐くまで鍛えますからね。それでも良ければ実行いたしますが?」
そうボキボキと両手の骨を鳴らしながら〈アマゾーン〉式の気付けを提案してきたシビルさん。
「いやいや、死ぬから! 貴族の御令嬢相手だと洒落にならないから!!」
「大丈夫ですよ。生物学的にも実のところ女の方が心身ともに強靭で柔軟なのですから、男がバタバタ死ぬような過酷な環境でも案外丈夫なものです」
必死に止めに入る僕に、ものすごーく実感のこもった良い笑顔でそう答えるシビルさん。
そんな彼女をどうにか説得して、僕たちは裏口から本校舎に入り、ちょうど居合わせた顔見知りの家妖精の用務員に頼んで先導してもらい、なるべく人のいない場所を選んでオデット嬢を救護室へと運ぶことにした。
本来であれば、これは婚約者であるアドルフの役目であり、未婚の女性に触れて運ぶのはかなりグレーゾーンなところなのだけれど、いまのアイツに頼んでも無駄だろうから仕方がない。
それと家妖精では身長の関係で引き摺るようになってしまうだろうし、そもそも失神した淑女を運ぶのは紳士の役得――役割で、軽々とお姫様抱っこをしなければ男の面目が立たないとされている。
そのため、たとえ相手の御婦人が自分よりも質量で勝っていたとしても(締め付けているので見た目以上に密度が高い)、平気な顔をして軽々と運ばないと相手の御婦人に対しても失礼となるのだ。
そんなわけで立場上と責任上、僕が運ぶしか選択肢が残されていなかった。
ま、幸いにしてオデット嬢は圧縮縮小されてはおらず、見た目通りの華奢な御嬢様だったので羽のように軽々と、ほとんど人目につくことなく救護室へ運ぶことができた。
で、とりあえず道案内してくれた家妖精には銀貨を握らせて(口止め料も込みである)、ついでに学園内にいるであろうオデット嬢の関係者をこっそりと呼んできてくれるようにお願いする。
なぜ彼女がひとりであんな場所にいたのか――多分、当人の独断だろう――わからないけれど、控え室へ行けば侯爵家の家人・使用人が待機している筈である。
本来、こういう場合にエレナがいればもっと迅速な行動ができるのだけれど、いないものを考えてもしかたがない。
幸いにして二つ返事で依頼を受けてくれた家妖精に感謝しつつ、迎えの者がくるまでの間は責任をもってその場に待機することにした僕とシビルさん。
いささか場違いな面映ゆい気持ちで、薬品や薬草の臭いの充満する救護室の隅に控える。
で、彼女を一目診た恰幅の良い見るからに『肝っ玉母さん』という代名詞が似合いそうな女性医術師――学園の学生のほとんどが貴族の令息令嬢なので、万全を期すために常時宮廷医の一部と神殿から癒しの白魔術が使える神官が出向している。つまり彼女もこう見えてエリートの筈である――が、
「――ああ、目を回しているだけだから、こんなもん薬を嗅がせれば一発ね」
そう言いながら僕たちの目に触れないようにカーテンを引いて、その向こう側のベッドに横になっているオデット嬢に、取り出した気付け薬を嗅がせる気配がした。
「――う……う~ん……」
漂ってきたアンモニアの臭いに続いて少女の小さな呻き声が聞こえてくる。
「気が付きましたか? ここは学園の救護室で、私は救護医のデボラ・デ・ブールです。気分が悪かったり頭が痛かったりはしませんか?」
てきぱきと問診をするデボラ先生の問い掛けに、最初はぼぅとしていたオデット嬢も次第に落ち着きを取り戻したらしく、
「は、はい……特に具合が悪いところはございません」
そう細くともしっかりした声で答えていた。
「……あの。ところでなぜわたくしはここに運び込まれたのでしょうか?」
「ん? 覚えてませんか?」
割とざっくばらんな口調で尋ねる救護医のデボラ先生の問い掛けに、オデット嬢が小考する気配がして、それからゆるゆると首を横に振る様子がカーテン越しにシルエットで見えた。
「……確か、供の者の反対を押し切って、こっそりとアドルフ様の御様子を伺いに……そこからの記憶が……」
どうやら先ほどの衝撃が大き過ぎて、自己防衛本能が働いたのかピンポイントで記憶が飛んでしまったらしい。
良かったんだか悪かったんだか微妙な結果である。
いや、この場合はトラウマにならないくて良かったと安堵するべきだろう。
思わずシビルさんと目配せをして、無理に記憶を呼び起こさないように注意することを確認し合う僕たち。
と、ここで気を利かせたのか――非常に余計なお世話ではあったのだけれど――デボラ先生がことさら明るい声で、安心させるように言い聞かせつつ話を変えた。
「ああ、まあ……貧血でしょうね。あとちょっと疲れ気味のようですから、精の着くものを食べてゆっくり休むことをお勧めしますよ。――ああそうそう、それと。倒れた貴女をここまで運んでくれた素敵な殿方がいらっしゃいますので、よくお礼を言っておいたほうがよろしいですよ」
「――えっ! 本当ですの!?」
途端、ぱっと華やいだような声を発するオデット嬢。
同時に僕の額から汗が滴り落ちた。
(まずい……まずい!)
失敗した! さっさと立ち去るべきだったのに、完全にタイミングを外した!
焦る僕。
「ええ本当ですよ。いつもエドワード殿下と一緒にいらっしゃる、素敵な方ですよ」
「ああ……っ!!」
思わせぶりなデボラ先生の言葉に、カーテンの向こうでこの上なく幸せそうな笑みを浮かべて、両手を胸の前で合わせるオデット嬢の姿が影絵となって見える。
一方、話の進行に併せてどんどんと脂汗を滴らせ、顔を強張らせる僕を、シビルさんが怪訝そうな眼差しで見つめていた。
(勘違いしている! 絶対に勘違いしているよっ。ここまで運んだのアドルフだと思っているっ。ど、どーしよう!?)
いや、別に騙したわけでないのだけれど、結果的に健気な淑女を悲しませることとなるのは目に見えている。そんな事態は本意ではない。
(――よし、逃げよう!!)
この際、多少不自然でもしかたがない。ここにいたのはアドルフである。というオデット嬢の幻想を壊さないように、邪魔者はさっさと姿を消すに限る!
何よりもこれ以上は僕が居たたまれない。
そう結論を出して踵を返しかけた僕――だけど一瞬早く、カーテンがデボラ先生の手によって一気に開けられた。
それとまったく同時に救護室の扉が乱暴にノックをされて、
「おーい、勇者よ。娘っ子の知り合いを連れてきたでよ!」
僕の出鼻を挫く形で扉が開いて、伝言を頼んだ家妖精が戻ってきた。
「――大事はない、オデット? ロラン公子に刃物を突き付けられて拉致されたって聞いたけれど!?」
「アドリエンヌ~、まだそう決まったわけじゃないわよ~。あと、ど~でもいけど、貴女、バナナ臭いわねぇ」
柳眉を逆立てたアドリエンヌ嬢と、パタパタと扇子を振っているルシール嬢を背後に伴って。
違う~~っ! 関係者と言ったけどこれは違うっ!!
思わず「ああああ……!」と、膝から崩れ落ちる僕。
そんな彼女たちが目の当たりにしたのは、
「あ……ああああああああっ!!!」
そこにいたのが愛しのアドルフではなくて、無関係の僕であるという残酷な現実を認識したオデット嬢が、この世の終わりのような悲痛な叫びとともに再度気絶した瞬間であった。
「「「「「…………」」」」」
僕、シビルさん、デボラ女医、アドリエンヌ嬢、ルシール嬢の間に重苦しい沈黙が落ちる。
「んじゃ、オラは仕事へ戻るでな」
そんな中、ひとりマイペースに扉を閉めて出て行った家妖精。
その気楽な挨拶と扉を閉める音がスイッチになったのか、凝固していたアドリエンヌ嬢が真っ先に再起動した。
「あなたねえ、何をやったのよ、オデットに!?!」
憤怒の表情も凄まじく詰め寄るアドリエンヌ嬢にやや遅れて、いきなり不埒な慮外者扱いされた僕の脳内で、歯車がヤケクソのように調子外れの音を奏で出す。
「……なんだこの状況は……?」
ちょっとやそっとの言い訳は聞く耳持たなそうなアドリエンヌ嬢と、値踏みするような目付きで僕らの顔を順に眺めるルシール嬢を前に、途方に暮れる僕だった。
史実ではフランス革命を契機にコルセットは下火になりましたが、20世紀初頭くらいまではまだ幅を聞かせていたようです。
この世界では、割と早めに廃れたとしています。




