美術館の出会い(エレナ逃げたな……)
1/16 大幅に内容を変更しました。
レオカディオ美術館は王都アエテルニタの画壇を長らく支えてきた名画商にして、その功績を記念して先王の代に叙勲のついでに準男爵の爵位を賜ったレオカディオ・オーグレーン氏が、私財を投げ打って造り上げた私設美術館である。
その理念は『芸術には理念も人種も身分も関係がない』というもので、そのため在野にあって埋もれた作品や、画風や画材が不適切として芸術サロンや神殿から敬遠されている作品であっても分け隔てなく、広く世間に知らしめることを目的としていた。
「どこかの貴族がお忍びできているんでしょうかね?」
玄関先に停められていた黒塗りで家紋のかかっていない上等な箱馬車を横目に見ながら、エレナがそう呟いた。
『どこの貴族か調べてきましょうか?』――と、この場合は暗に指示を仰いでいるわけだけど、
「いや芸術を鑑賞するのに身分や立場は関係ないからね。無粋な真似はしなくていいよ」
やんわり窘めて玄関をくぐり――かけたところで、
「ミスターミスターっ。帽子はいかがですか?」
水玉のワンピースを着た十八歳ほどの売り子に声を掛けられた。
見れば両手に赤と白のつば広帽を持っている。
リボン風に飾りがついたかなりつばが広い帽子で、かぶったらほとんど顔が隠れそうな感じだ。
「助けると思ってお願いしますよ。あたし美術サロンの学生なんですけど、これが売れないと絵の具も買えないんですよ、ミスター」
同情を誘う様子で訴えかけるけれど、これって女性ものだよねえ。
「――欲しい?」
振り返ってエレナに尋ねるが、一瞥しただけで興味なさそうな顔で鼻を鳴らした。
「私には似合わないのでいりません。ああ、白はロレーナ様にぴったりな気もしますので、いかがですか?」
「いらないよ! それにロレーナのことはいちいち蒸し返さないでいいの!!」
事あるごとに女装の伏線を踏襲させようとするエレナを牽制するため、ややきつめに言い含める僕。
その勢いに無関係な売り子の女性はそそくさと退散をして、僕たちの後から美術館に入ろうとしていた恰幅の良い旅行者風の髭を生やした中年男性が目を見開いて僕たちを凝視していた。
「……ごめん。行こう」
ばつが悪くなった僕は、逃げるようにしてエレナを伴って玄関を潜ったのだった。
◇
広大なレオカディオ美術館の内部。
通常の常設展示スペースとは別のスペースに『ルイス・ミジャン個展』――そう看板の書かれた場所があった。
王都の乱痴気騒ぎの影響か、普段の倍ほどの観光客でごった返す常設展示スペースとは違って、遠目に見ても閑散とした雰囲気の専用スペースへ、人の流れに逆らって遡上する僕とエレナ。
入館料とは別に暇そうな受付嬢に招待券を提示して、衝立で遮られたその場所に足を踏み入れた僕たち。
途端、僕の双眸にまず目に飛び込んできたのは、人の身長よりも大きなカンバスに描かれた農民の姿だった。
暮れなずむ畑に鍬を振り下ろす粗末な身なりのひとりの農夫。
色彩豊かなわけではない。構図だって素朴で平凡。けれどもそこには大地に根付いた堂々たる力強さと矜持とが満ち溢れていた。
ルイス・ミジャンの代表作『土に生きる人』。
「――すごい……! これがルイス・ミジャンの真作」
思わず脇目も振らずにその絵の前までふらふらと一直線に向かって向かい合った途端、知らず僕の口から感嘆の声が漏れていた。
「素晴らしい。なんて迫力なんだっ!」
「はあ、そうなんですか……? ここに来るまでに展示してあった絵の方が綺麗だと思いましたけれど」
付いて来たエレナの方はピンとこないようで、小首を傾げながら値踏みをするような視線をカンバスに向け、続いて閑散とした個展展示スペースをぐるりと見回して左右に首を振る。
確かに盛況な常設展示スペースとは違って、四方と中央を衝立で遮られただけのここには、十数点ほどの作品が飾られはいるものの、他に鑑賞している人間は僕たちの後から入ってきた玄関先でも見た恰幅のいい中年男性と、衝立を隔てて反対側にいるらしい気配がひとつだけという、見事に閑古鳥が鳴いている状態であった。
世間の評価や注目度から言えば、確かに現在のルイス・ミジャンの絵は一般受けするとは言えないけれど、それでも僕にとっては彼の描く名もない農夫や農村の絵は、派手な技法で描かれた神話や着飾った王侯貴族を題材にした大作よりも、より鮮烈で心惹かれる力強さを感じずにはいられなかった。
「まあ……仕方ないね。ルイス・ミジャンは一時は宮廷画家として鳴らしたけれど、十年前に在野に下った後の画風はいままでの定石を覆したものばかりで、いまや保守的な批評家や上流階級の知識人から槍玉に挙げられている不遇な画家だからね」
「そんな奇抜な絵にも見えませんが? 逆に地味というか……」
「それが問題というか。常識的に題材に一介の農夫を、しかも群像でもなく一個の独立した主役として描くというのはあり得ないの」
美術には疎い――なにしろ指一本分の長さの刃物か尖ったものがあれば人間は殺せる。と、最初に教わるくらい徹底した合理主義を叩き込まれている〈影〉である――エレナに、簡単に説明をしながら様々な角度からためすがめすルイス・ミジャンの絵を鑑賞する。
「もともと芸術家のパトロンというのは王侯貴族か神殿関係者だったからね。人物画といえば王侯貴族か神官長クラスでなければならないという暗黙の了解があり、また芸術家たちもそういった人たちを描いてこそ一流の証、王侯貴族のお抱えになることが芸術家としての最高の栄誉と考えるが……全部ではないけれど、大多数の意見だろうね」
「まあそうでしょうね」
「ところがルイス・ミジャンはあっさりと宮廷画家としての職を辞して、事もあろうに農民などを主題にして作品を描いた。エレナも知っていると思うけど、貴族や上流階級は農民や農村を徹底的に馬鹿にしているからね」
『農民など貧困に喘ぐくせに怠惰で愚鈍。おまけに向上心の欠片もない間抜けな寄生虫にしか過ぎない』
そうした認識は学園に所属する貴族の令息令嬢……のみならず、都会人としてここアエテルニタに暮らす多くの市民が常日頃から口に出している常識であった。
「ところがこの『土に生きる人』という作品は、その軽視すべき農夫を主役に据えて、威風堂々と描いている。それも宮廷画家の道を降りたルイス・ミジャンが。これを多くの市民や知識人たちは、自分たちへの当て付けと受け取った。で、こぞって批判した――結果がこの閑散とした個展会場の有様さ」
「…………」
ふと背中越しに感じるエレナの気配が遠ざかって、再び近づいてきたしめやかな足音に、一瞬だけ違和感を覚えたけれど、目の前に広がるルイス・ミジャンの世界に没頭している僕は深く考えずに、そのまま視線は作品へ向けたまま思いの丈を口に出す。
「けれどもルイス・ミジャンが描きたかったことはそんな低俗な当て付けではないと思う。確かに地方の農民たちはボロボロの服を着て無学であるかもしれない。けれどもこの絵に描かれた倹しい農夫は、大地と戦うかのように堂々と鍬を下ろしている。そこにルイス・ミジャンの……いや、農民たちのメッセージが込められていると思う。『私たちは貧しく無学であっても、こうして地を耕し、作物を育て上げている。あなたがたが口へ運んでいる収穫物は、私たちの汗と労力の結晶なのだ。そのことを忘れないで欲しい』。そうした切実な声が聞こえてくるような気がするんだ。わかるかな?」
まあ同意しにくい感覚だろうな、と思いながらそう口に出した――途端、
「わかりますっ! わかりますわ! そうです、その通りです!! 困難があろうとも人は生きるためにものを作って収穫しなくてはいけません。その行為こそが人の尊厳であり最も尊いことです! その本分を忘れて農民を見下すなどあってはならないこと。農民あっての領主であり、民あっての貴族であると、私もこの絵を見るたびにそう心に刻まずにはいられませんっ!! ああ、まさかこんなにも私と同じ感性を持った方と知り合えるなんて!」
もの凄い勢いで同意された。いつの間にか隣にいた赤いドレスを纏った貴族のお忍びといった風情の同い年くらいの真紅の髪の燃え立つ火花のような御令嬢によって。
「こんなところで同好の相…手……え?」
「は?――ア、アドリエンヌ……嬢?!」
「「…………」」
「「…………」」
「「…………」」
「「――なんであなたがここにいる(んですか)(のよ)!?!」」
お互いにまじまじと顔を見合わせ、そこにいるのが誰だか……見間違いでもソックリさんでも幻でもないのを理解したところで、同時に声を張り上げた。
一瞬前までアドリエンヌ嬢が浮かべていた無防備な笑顔が、たちまち警戒の色に染まる。
思いがけない鉢合わせに、思わず狼狽して場所柄もはばからずに大騒ぎをしてしまった僕たち。
静謐であるべき美術館でお忍びとはいえ貴族の令息令嬢が大騒ぎをするという失態に、壁の絵を眺めていた中年男性と受付の女性がまじまじと不躾な視線を向けてくる。
他に人気がなかったのは幸いだけれど、偶然とはいえそこの中年男性には二度も失態を晒したことに僕は恥じ入ってなおさら深く帽子をかぶるのだった。




