エレナさん頑張る!(愛するモノのため)
第三者視点です。
戦闘描写があるのでご注意ください。
ここオルヴィエール統一王国に暮らす貴族と富裕層、議員など権力者の令息令嬢は、よほどの事情かよほど辺鄙な田舎住まいでもない限り、十三歳から十八歳までの間、首都アエテルニタにある貴族学園か神学校、騎士学院に通うのが通例となっている。
信頼できる統計によれば、そうしたいわゆる上流階級層は統一王国に占める人口の約十五パーセント。
そのため例年、各学校には五百人から千人の生徒が通う……もしくは寮住まいをする(王都に実家があるなら別だが、大多数は寮住まいとなる)。そうした上流階級層の子女で学校に通わない例はごくごく稀であり(女性の場合は就学率は半分ほどだが)、日々の暮らしにも窮乏してる下級貴族であっても、補助金は出るので(ただし嫡出子に限る)、例外は何らかの事情があるか(結婚したとか兵役に就いているとか)、或いは令息令嬢とは名ばかりのその他大勢……ごく潰しぐらいなものであった。
そんな王都のまさに中心である王家には、ふたりの王子と四人の王女がいた。このうち一番下の王女はまだ九歳であり就学年齢に達していないので別だが、それ以外の王子王女ではただひとり、この部屋の主であるジェレミー第二王子がその数少ない例外となっていた。
そして、その理由は彼の生来の病弱な体質にあった。
将来の国王と目されている兄エドワード王子が快活で健康そのもの。その上、文武両道に長けているのに対して(成績と運動神経は良い)、生まれた時から虚弱体質であり、年に何度も寝込んでいるのが普通という状態であったジェレミー王子。
そのことに胸を痛めた国王・王妃の配慮により、王族の責務に煩わせない王城のはずれにある塔に半ば隔離され、最低限の従者侍女が付けられただけで(あくまで感染症の経路を遮るための措置である)、そのお陰か、生まれた時に医者から二十歳以上生き延びられる確率はごく僅か……とまで言われた病状も、近年はずいぶんと落ち着いてきて、将来を見据えて許嫁が選ばれるまで回復していた。
そんな彼であるので、当然、学校などに行けるわけもなく、学問や一般教養は家庭教師に頼らざるを得なかった。
もっとも、あらゆるものに好き嫌いの激しい彼の勘気に触れて、幾人もの教師や侍女がその役目を辞する羽目に陥り、十六歳になったいまでは家庭教師のなり手もなくほぼ放置状態。
侍女も至っては二週間に一度ローテーションで入れ替える――王城の侍女の間では、これを称して『肝試し』と言っている――で、どうにか対応するほかなかった。
そんなジェレミー王子の城といえる塔に、この日訪問客がいた。
六年前に彼と許嫁となったコンスタンス・デシデリア・ヒスペルト侯爵令嬢(十八歳)である。
五公家には及ばないものの、この国の貴族社会において隠然とした影響力を持つヒスペルト侯爵家の令嬢が、『王家のミソッカス』『エドワード第一王子の搾りカス』と、さんざん陰口を叩かれる病弱なジェレミー第二王子と婚約関係を結んだ。その理由は、言うまでもなく侯爵家と王家との政治的な結び付きによるものであり、それと万が一に賭けての保険以外のナニモノでもなかった(ちなみにコンスタンスは長女ではあるが側室の娘である)。
そのため以前はさほどでもなかったコンスタンス嬢の訪問であったが、不思議なことにここのところ塔への訪問が増えていた。
ただし自他ともに認める人嫌いのジェレミー王子の居室まで足を踏み入れることができるのは、コンスタンス嬢ただひとりであったが。
その部屋の中――。
贅を尽くした王族の部屋だというのに、窓という窓が厳重に締め切られて、そよ風ひとつ陽光の一筋すら届かないどこか陰鬱な空気に包まれた空間に溶け込むように、貴重な古代樹を削り出して作られた椅子と机に頬杖をついて座っている、くすんだ灰色の髪と錆色の瞳をした痩せぎすの少年――ジェレミー第二王子(十六歳)――は、栗色の髪をした二歳年上の許嫁を前に、毛ほどの興味も示さず無関心な表情を崩さないでいた。
「――い、以上が事の顛末となっております」
分厚い緋色の絨毯に額ずかんばかりに腰を屈めて、〈ラスベル百貨店〉で起こった一連の首尾について、信じられないほど微細な報告をするコンスタンス侯爵令嬢。
あまりにも的確で詳細な報告はある意味異様であったが、それ以上に異様なのは、社交界においてはアドリエンヌ公爵令嬢に準ずる――比肩するのではなく、あくまで“準ずる”である――華やかな姫君と謳われるコンスタンス嬢が、表情も硬く額の辺りには汗を光らせて、そうようやく絞り出すのがやっとという有様であることである。
そんな婚約者の様子に頓着することなくジェレミー王子は、
「そうか」
と感情の籠らない目で彼女を一瞥して、そう一言だけ口に出すのみである。
そこへ銀色のティーワゴンを押して黒髪の侍女がやってきて、無言でジェレミー第二王子の机にコースターとカップを置き紅茶を注いだ。
注ぎ終えたところで、銀のケトルを持ったまま、ちらりと蹲ったままのコンスタンス嬢へ視線を投げる侍女。
芳醇な香りに微かに目を細めたジェレミーは、面倒臭そうに手振りでメイドにさっさと退室するよう促す。
メイドは心得た様子で折り目正しく一礼をすると、そのまま一言も喋ることなくこの部屋を後にした。
ちなみにこの塔へ登るには、最下層からえっちらおっちら螺旋階段を上がるか、王城から一本だけ伸びている細い空中回廊を通るほかない。
空中回廊を通れるのは王族と、こうして特別な許可を貰って荷物を運べる侍女のみである。
コンスタンス嬢も苦労して最上階まで上がってきたというのに、お茶の一杯も飲めないとは気の毒な話であった。
さて、踵を返して重厚なマホガニーの扉を閉めたメイドはひとり、ワゴンを牽いたままこの塔から王城へと延びる空中回廊へと音もなく進み――周囲に誰もいないことを確認すると、素早く柱の陰に隠れた。
そして気配を完璧に気配を消すと、エプロンのポケットから小指の先ほどの蜘蛛を取り出した。
手慣れた仕草で予備のコースターにピッチャーの水を、こぼれないギリギリまで張り、その上に蜘蛛をそっと乗せる。
キラリと一瞬だけ、蜘蛛のお尻から延びた細い糸が、厳重に閉じられた扉の隙間を縫って中へ続いているのが透かし見えた。
と、微かな波紋が収まって鏡のように凪いだ水面が震えると、まるでその場で会話しているかのように、ありありと室内の音声を再現されるのだった。
単なる蜘蛛にしか見えないこれだが、実は雌雄一対で周囲の音を拾う特殊な魔虫である。
さきほどコースターとカップを置くフリをして、こっそりと片割れを机の下に仕込んでおいた侍女の成果であった。
「も、もちろん、こちらからの関与は露見しないよう幾重にも人を介しておりますし、直接の実行犯はすでに処分しております」
「ふーん、そう。で?」
素っ気ない口調でジェレミー王子が水を向けると、コンスタンス嬢が一層身を縮ませ、喘ぐように応じた。
「ア、アドリエンヌ派に対しては従前の通り、例の男爵家の小娘に対する誹謗中傷を行っているという噂の強化のほか、直接的な行動も辞さないつもりでおります。そうなれば、おそらくは近日中にエドワード派が暴走をして共倒れになるかと」
「そうか。今度こそ期待していいのかな?」
「はい、勿論でございます。すでに八割方仕上がっている段階でございますれば」
「ふーん、この間もそんなこと言っていたね」
「――っ!?!」
「別に個人的な恨みつらみを晴らすのは構わないけどさ。優先順位は間違わないで欲しいな」
紅茶を飲みながらの淡々としたジェレミー王子の叱責に対して、いよいよ床に這いつくばったらしいコンスタンス嬢。
そのはずみで密かに延びていた魔虫の糸が切れ、突然のリンク中断の衝撃で、机の下にいた魔虫の一匹が痙攣しながら落っこちた。
「ひっ、蜘蛛!?」
目の前に落ちてきた魔虫を前に、思わず悲鳴を上げるコンスタンス嬢。
「なに……!!」
途端、叩きつけるようにカップをソーサーに戻したジェレミー王子は、普段の気怠そうな態度が嘘のような素早さで机の下を覗き込み、無造作に転がる魔虫を鷲掴みにした。
「――これは……違うっ、これは探索用の魔虫だ! おのれぇ、さては先ほどの侍女か!? 出合え出合えっ、曲者であるぞ!!」
能面のような無表情から一変、鬼の形相で叫ぶジェレミー王子にコンスタンス嬢は腰を抜かし、その叫びを聞いて、密かに控えていた第二王子付きの〈影〉たちが一斉に、先ほどの侍女を追って音もなく駆けていくのだった。
その侍女――に扮していたオリオール家の〈影〉エレナ・クヮリヤートは、仕込みがバレたと察した瞬間、脱兎のごとく逃走に移っていた。
空中回廊からロープ一本片手一丁で一気に地上へ降りながら、空中で邪魔なメイド服とエプロンをかなぐり捨て、動きやすい黒装束になる。
地表に降りると正門と裏門に続く庭園を避けて、森といっても過言でない中庭を突っ切るコースを取った。
背後から何人か追いかけてくる気配を感じるが、遮蔽物の多い森の中、身の軽さと足の速さには一族でも定評のあるエレナのこと。じりじりと追っ手を追い放していく。
苦し紛れか五月雨式に放たれる暗器や飛び道具の類いも、大多数が木々に邪魔され、または明後日の方角へ飛んでいくばかりであった。
これなら城壁を飛び越えて、事前の逃走ルートで脱出できる。
そう思った瞬間、猛々しい咆哮とともに番犬ならぬ、火亜竜が相手でも一対一で噛み殺すという番魔犬が放たれた。
さすがに番魔犬の足には敵わない。
匂いをたどられ、あっという間に追いつかれたエレナは、この場で戦うか樹上に逃げるかの選択を迫られた。
番魔犬を回避するため一番簡単な手段は、相手が付いてこれない樹上へ逃れ、枝から枝へ渡ることだ。
だが、そうなれば当然逃げ足が鈍って王家の〈影〉に追いつかれる。そうなった場合は多勢に無勢、時間が経つごとに包囲されてジリ貧となる。
壁の外には仲間もいるが、掟により王城の結界を外部から破ってはならないことになっている(内部から逃げる分には結界は作動しない)。
ならば速攻で番魔犬を倒す他はないが、人間相手ならともかく魔物を瞬殺するなど若君か頭領でもなければ難しいだろう。
(……とはいえここで活路を見出さねばなりませんね)
胸元に押し抱くように忍ばせている、つい先日若君からいただいたばかりの銀製の櫛を手に取り、髪に差してエレナは覚悟を決めた。
愛用の双小剣を両腿もホルスターから引き抜いて、両腕で構えたエレナの目の前に、細い木立をへし折りながら牡牛ほどもある三つ首を持った番魔犬が躍り出る。
火山の火口のように赤々として、血の滴るような真紅に染まった三つの口蓋に視界のほとんどを塞がれながらも、エレナは双小剣を繰り出す。
ほんの一瞬の接触で鎖帷子がボロボロに破られ、細かな傷を負いながらも、向かって右側の首の喉笛を掻き切ることに成功した。
グワアアアアアアアーーッ!!!!
憤怒の形相も凄まじく、残った二対の首が吠え掛かる。
咄嗟に左側の首の口内――喉元深くまで左手の双小剣を突き込んだ。
ギャアオォォ~~~ン!?!
思ったよりも深くめり込んで小剣が抜けない。
慌てて左手を放そうとしたが、断末魔の首が一瞬早くエレナの左手を咥え込んで離さない。
右手の小剣でこじ開けようとしたところへ、番魔犬の左前脚が繰り出された。
「!!」
ネコ科の猛獣と違ってイヌ科の狩りは基本的に前脚は使わないモノである。
そのセオリーから盲点になっていたエレナは、つい反射的に右手の小剣でこれを受けてしまった。
だがこれはエレナらしくもない失態であった。
番魔犬の最後に残った真ん中の首が、エレナの頭をひと呑みにしようと牙を剥いた。
左右の手は動かせず武器も封じられている。
なす術なし――と思われた一瞬、大きく首を振ったエレナの髪から銀製の櫛が宙に飛ぶ。
まさに間一髪、姿勢を屈めて番魔犬の噛み付きを回避したエレナ。
さらに櫛の板の部分を口で噛み締めたエレナは、目の前にあった無防備な首筋に向かって櫛の歯を横薙ぎに振るった。
ギャン――オ……オオオォ……。
ざっくりと頸動脈を斬られた番魔犬は、噴水のように血を流しながら力尽きる。
(――ふう……。念のために歯の部分を磨いで暗器に使えるようにしておいた甲斐がありましたね)
〈影〉の習性で、思わずプレゼントしてもらったその日のうちに、武器に使えるように魔改造しておいたのは、我ながら慧眼でしたと自画自賛するエレナ。
もっとも、人ならともかく魔物相手にはさすがに荷が勝ち過ぎていたらしく、貰ったばかりの櫛はボロボロに歯が抜け落ちて修繕も利かない状態になっている。
血管をやられたらしい鮮血の滴る左手を引き抜き(口の中の小剣は諦めた)、欠けた櫛を胸元に戻したエレナは、間近まで迫ってきた追っ手の気配に急かされて、傷ついた体に鞭打って走り出した。
城壁まで残り五十メトロン。
死ぬ気で疾走して突破しなければ!
(で、若君から新しい櫛をいただかないと割りが合いません!)
耳元をビュンビュン飛んでいく追っ手の攻撃を、半ば無意識に勘だけで避けるエレナ。
息も絶え絶え……出血で朦朧しながら、
(若君っ。これだけ血を流したのですからポーク食べ放題で、あと、デザートに生クリームが山ほど乗ったケーキを所望します!!)
残った小剣を足場に一気に城壁を飛び越えながら、エレナはただそれだけを念じていた。
9/23 誤字脱字、表現の間違いなどについて訂正しました。
次回の更新は9/29(金)予定です。