魔獣の正体(あくまで推測です)
お待たせしました。
――それは、影に生きる彼女が自らを導く光に出会った十年前の思い出――
「……残っているのは小剣が一本と苦無が二本だけ、あとはいざという時の自爆用の爆薬ですか。助けが来るまで隠れていては、その間に人里に降りる可能性が高いですね。そうなると相討ち前提で、どうにかここで止めるしかない、と」
地上からは死角になる大木の枝の上に隠れ、極力気配を消したまま、まだ年端もいかない――せいぜい六、七歳だろう――黒髪の少女が、超然とした口調でそう呟いた。
死という概念を自覚しない幼子ならではの無知ではなく、彼我の戦力差を客観視して、なおかつ己の命を武器の一つと割り切った〈影〉ならではの非情な決断である。
もともとは別荘のあるこの地に避暑に訪れていた彼女が仕えるべき幼い少年と、その義理の妹となった少女との身辺警護のため、二十名ほど随行してきた彼女を筆頭としていたクヮリヤートの〈影〉。
滞りなく仕事は進むかと思ったのだが、最近、近辺で魔獣の被害が増えているとの報告を受けたため、念のために別荘の周囲を探ったところ、あっさりと〈鬼熊〉と呼ばれる、身の丈三メートルほどもある熊に似た魔物を発見したのだった。
で、速やかにこれを殲滅したのはいいのだが、まさかその〈鬼熊〉を斃した直後に、巨大な――話に聞く象ほどもある――赤鹿の化け物に襲われるなど、考えもしないことであった。
もしかすると〈鬼熊〉が本来の生息域を離れて、こんな場所に迷い込んできたのは、コイツに住処を追われてきたのかも知れない。
ともかくも不意を突かれたとはいえ、こちらは全員が音に聞こえたクヮリヤートの〈影〉である。
即座に態勢を立て直して、包囲殲滅の陣を取ったのだが、この赤鹿の化け物は、想定を上回る――まさに化け物と呼ぶべき、尋常な生き物ではなかった。
なにしろこの巨体で体重がないかのように木の上を駆け回り、さらには致命傷を与えても瞬きの間に治ってしまう。〈影〉は騎士と違って不意打ち・騙し討ち・卑怯上等なので、当然のように武器には様々な毒が塗ってあったが、そうした毒は勿論のこと、一度ならずも頭の半分、心臓のど真ん中を吹き飛ばしたのに、平然と再生をするという非常識さに、十名からいたクヮリヤートの〈影〉が、瞬く間に半分以下まで数を減らされてしまった。
これは通常の魔物ではない、と判断をしたエレナを含めた生き残りの四人は、ふたりを逃がして緊急事態を知らせるため。残りふたりが死兵と化して足止めをする役を担うこととなり、まだ年若いが最も怪我の少ないエレナが残るひとりとなった。
そうして戦うこと三十分あまり。長大な角は勿論のこと、本来は草食獣に備わっていない鋭い牙と爪でもって襲い掛かる赤鹿の猛攻の前に、ついに最後のひとりとなったエレナは、残ったひとつの閃光球を使って敵の目をくらませ、一時的に大樹の上に退避したのだった。
血まみれの小剣を握る手を軽く揉み解しながら、自分の状態を確認するエレナ。
全身に無数に負った裂傷は幸い太い血管は傷つけていないが、それ以上に打撲傷がきつい。致命傷こそ負ってはいないが、骨の何本かはいかれているだろう。この程度で済んだのは運が良かったと思うべきだろうが、この怪我の具合では全力で動けるのはあと数十秒といったところか。
エレナの血の匂いを嗅ぎつけたのか、赤鹿がエレナの隠れる大樹の周辺をうろつき出し、何かを確信したように、普通の動物ではあり得ない血のように真っ赤に染まった瞳孔の目で梢を見上げる。
――ここまでね。せめてロラン様とルネ様は避難できる時間を稼げたのなら、上等なのだけれど。
覚悟を決めたエレナは、腹に巻いた火薬に着火する準備をして、「さて、死にますか」と、散歩にでも行くような口調で体を起こし――全身に走った激痛に、微かに頬をひくつかせたものの――何事もないかのように、赤鹿の目を狙って、最後の苦無を投げつけようとした刹那――、
「エレナッ! 無事か!? 生きているか?!?」
周辺の木が薙ぎ倒される轟音と共に、まだ幼い少年とも少女ともつかないソプラノの声が、森とも林ともつかぬ木立の中に響き渡る。
同時に大人の胴体ほどもある木がまとめて三、四本切り倒されて、その向こうに自分の背丈よりも長大な大剣を振り抜いた姿勢の女の子――否、少女と見紛う水色の髪に菫色の瞳をした少年が、必死の面持ちで化け物を睨みつけていた。
「…………」
唖然とするなどいつ以来のことだろうか? ひょっとすると初めてかも知れない。
常の仮面のような表情が崩れるのを自覚しながら、エレナは自分と同様に思いがけない闖入者の乱入に気を取られた化け物の目めがけて、半ば反射行動で二本の苦無を投擲し、同時に大樹の幹を蹴って落下の勢いを利用して小剣を翻し、その頸動脈を一気に断ち切っていた。
見事に目を潰され、並みの生き物ならほどなく絶命する重傷を負わされた化け物が、無我夢中で暴れ回って、さきほどまでエレナが隠れていた大樹を無理やり根元から折り倒す。
噴き出る、いかにも触ったら呪われそうな、化け物のどす黒い血液を避けながら、エレナはこちらの無事を確認して、露骨に安堵の表情を浮かべる主人筋である少年の元へと馳せ参じると、端的に尋ねた。
「公子様、なぜここへ?」
もともと彼らが避難するための時間を稼ぐため、エレナたちが殿を任せられたのだ。
その彼が供もつけずにひとりでこの場にいる理由――。
「そんなの、エレナが心配だからに決まっているだろう!」
半ば予想……というか、危惧していた通りの答えが、あっけらかんと目前の美少女ともつかない少年から返ってきた。
そして、彼がそうと決めたのであれば、たとえ騎士団や残りのクヮリヤートがまとめて止めようとしても、この一見して剣よりもドレスが似合いそうな少年を止められるものではないということもわかっている。
「馬鹿なことを……。私は公子様、公女様をお守りする道具であり〈影〉であります。道具や〈影〉に思い入れなど必要ありません」
それはエレナが常々、それこそ生まれた時から子守唄代わりに聞かされた〈影〉としての、クヮリヤート一族に生まれた者の存在意義である。
「嫌だよ」
間髪入れずに、それこそ光そのものの晴れやかな笑みを浮かべる少年。
「僕はエレナにも幸せを見つけて欲しいし、道具だなんて思ったこともない。それに君が影というなら、ならば光と影は一心同体じゃないか? どちらかが欠けても存在はできないだろう。だから死ぬも生きるも一緒だ。けど、死ぬつもりはないから、ふたりで生き延びよう」
これまで考えたこともない少年の真摯な言葉に、刹那、エレナの無表情な仮面の下で、張り詰めていた心が砕けて、泣きたいような笑いたいような大声を出したいような、複雑な感情が一気に溢れて同時にすべてが眼前の少年に対する好意へと変わった。
と、エレナのつけた傷が治ったらしい化け物が、憤怒の表情も凄まじくエレナと新たに現れた少年を睨みつける。
「お気を付けください。こいつ、傷をつけても心臓を壊しても即座に再生をします。ついでにいえば我々が斃した〈鬼熊〉の死体やらも食い尽くしました」
「ふーん、見た目は赤鹿だけど別物か」
「特徴からいって凶疫獣かと思われます」
エレナの推測に、「なるほど」と頷く少年。
「なら、全身をバラバラにして再生できないまで細切れにする必要があるな」
大剣を構えて、なんでもないかのように言い切る少年。
「念のために斬り落とした細胞は焼いた方がいいだろう。手伝っておくれ、エレナ」
「はっ、このエレナ。ロラン公子様のためならばこの心魂を生涯捧げる覚悟です!」
決意を込めたエレナの誓約に、
「なんか重いよ、エレナ。ちゃんと人としての生きがいとか幸せを見つけて欲しいんだけど、僕としては」
苦笑いを浮かべる少年――ロラン・ヴァレリー・オリオール(当時七歳)。
その背後に一歩離れて立って構えながら、知らずエレナの口元に微笑が浮かんでいた。
その胸中で静かにロランの背中へ語る。
――無理ですよ、公子様。幸せを見つけるなんて。だって、もう私はもうとっくに幸せだってことに気付いてしまったのですから。
愛しい相手の背中を常に見て、共に戦う。この幸せはきっと誰にも理解はされないだろうし誰にも真似はできないだろう。
将来、ロラン様のお相手となられる令嬢であればなおさらである。血を見ただけでも卒倒することだろう。この場に居られるのは自分だけの特権なのだ。
そう思いながら、さきほどまでの悲壮感とは裏腹の、フワフワとした温もりとともにロランと一緒に、刃を振るうのだった。
◇ ◆ ◇
そして、時はいまに戻る――。
さて、貴族と一口に言っても、上は王家の一員でもある大公家、公爵家から、上級貴族である侯爵家、辺境伯家といった貴族から見ても雲上人。そして、中級貴族の代名詞である伯爵家(というか、三百年ほど前までは貴族といえば、公爵の下は部下である伯爵しかいなかった)、そして近年になって貴族を粗製乱造、さらには国庫に充当するために爵位を売ることまで始めて、子爵や男爵といった下級貴族の仕組みが生まれて軒並み増えた。
歴史を見ると当初は百五十席ほどだった貴族院の議員も、現在は四百五十席くらいあるらしい。
なお、貴族院(上院ともいう)に対して、地方の地主層や都市の商人層からなる庶民院(下院ともいう)だが、こちらは三百三十人ほどの議席である。
貴族院が国家・法の舵取りをしているのに対して、彼らは主に地方や本国を離れた、植民地や自治領などの管理を行っている……とはいえ、庶民院も最近はかなりの力をつけて、もっと議員数を増やすように枢密院に働きかけているらしい。
ここで出てきた(というか何度も遡上にあがる)枢密院は国――というか、名義としては国王の諮問機関であり、選ばれた上級貴族(当然、五公家の当主や前当主は固定メンバーである)や大司教からなる国王の代理人であり、相談役でもあるとされている事実上の国のトップだ。
国王の罷免権や王位継承権の選定権なども職務として法に明記されている以上、絶対君主制でない法治国家にとってはある意味、王家よりも上の権力を持っていると言えるだろう。
我らが馬鹿王子ことエドワード第一王子は、折に付け自分を王太子(次期国王)にと、ついでにクリステル嬢の実家であるチェスティ男爵家を、自分に釣り合った上級貴族へと取り立てるように働きかけているらしいが、「時期尚早」「何の実績もない」といって突っぱねているところから王家のイエスマンではなく、ある程度の理性を持った集団であることが窺えるのが、不幸中の幸いであった。
閑話休題――。
そういった男爵までの貴族の下に、さらに準男爵や騎士爵といった一代貴族、ついでに貴族院議員である法衣貴族(議会卿とも呼ばれ、全部で二十名といない)や、聖職貴族(主教以上の身分の聖職者が、その在職中になれる)などもいるのだが、彼らは世襲貴族でないことから貴族とは別とされている。
もっとも、いろいろと例外もあって、たとえばオリオールとかは国王の血筋ではないけれど、それに伍する勇者の血筋ということで公爵家を賜っており、さらには神殿という後ろ盾がある。
あと、庶民院議長であるオーケルフェルト準男爵家は、その立場から貴族として認められているとかで、まあ貴族といってもいろいろとややこしいのだが、一代貴族でも代官などで領地を預かったり、狭いながらも領地を持っていたりすれば、そこに住む領民にとっては貴族と変わらない存在である。
つまるところ貴族というのは広義には領地を持った特権階級と思ってくれて構わない。
さて、その領地貴族だが昔と違って魔族との抗争や、魔獣の被害も格段に少なくなった昨今だが、それでもごくまれには自然繁殖した魔獣や、人間に敵意を持つ亜人や、神出鬼没の盗賊団などの被害に見舞われることもある。
そして、その中でも特に恐れられているのが『凶疫獣』と呼ばれる魔獣の発生であった。
この凶疫獣は、魔獣種や野生動物(稀に家畜にも)が何らかの要因で突然変異を起こし、原種とは全く異なる生態と姿かたちを獲得した異形異能の存在の総称である。
多くの場合、これらは攻撃的でなおかつ、存在するだけで周辺の動植物に変異を伝播させる、一種の局地的な災害であった。
何の法則性もなく突然発生する天災に等しく、稀に人間に発生した場合は『吸血鬼』と呼ばれる……といえば、その恐ろしさがお分かりいただけるだろう。
発見した場合は早めの駆除が必要となることから、どこの領地領主も頭を悩ませる元であり、このためにいまだに『冒険者』などという前時代な存在が生きながらえている要因でもあった。
原種になった種族にもよるのだが、場合によっては爆発的なパンデミックを引き起こすこれが領内で発生し、早期の掃討ができなかった場合には下手をすれば国が傾く要因にもなるので、初動をしくじった領主はまず間違いなく罷免され、厳罰に処される運命にある(まあ大体の貴族は、領地には三ヶ月ほどしか帰らず、王都で大半の時間を過ごすので、後手に回るのがほとんどだが)。
そのため、どの貴族も戦々恐々として、『凶疫獣』の発生には神経を尖らせているのが現状であった。
実際、オリオールの属州を含めた領地など(上級貴族の常で、国内はもとより他国にも複数の領地を持っている)でも、過去に『凶疫獣』が発生した事例が多数あり、十年ほど前に赤鹿型の凶疫獣が、よりにもよってオリオール家の別荘のある裏山(といってもちょっとした森と湖のある、牧場の十くらい余裕でできる広大な土地だが)で生まれるという洒落にならない出来事があったのは記憶に新しいところだ。
幸い発見が早かったので、僕とエレナとで細切れにして死骸を燃やすことで被害を最小限に抑えることができたが、これがもっと発見が遅くてなおかつ集団生活をおくる動物が原型になっていた凶疫獣だったら、被害はどれほど広範囲に広がっていたことか……。
過去の記録を遡ってみれば、ネズミから生まれた凶疫獣が、同種のネズミを次々に眷属へと変えて、一つの国を文字通り食らい尽くした例もある。
つまるところ凶疫獣の脅威というのは、個体の不死性(あくまで生命力が強いだけで、不死身というわけではない)にあるのでも、戦闘力にあるのでもなく、どれだけ拡散するかが問題になるのだ。
さて、話を戻そう。
ソレは最初にロクな意思を持たない寄生生物の一種であったと思われる。
ある種のキノコは昆虫に寄生して、その脳を操り、子供を延々と作らせそれによってさらに増殖を繰り返すというが、おそらくはそれも似たようなものだったのだろう。
その証拠に、水面からイルカやアシカが飛び出してくるように、吸収したと思しい動物や魔物、人の姿を模した疑似凶疫獣がゾロゾロと現れては、生前の動きを模して襲って来る。
軒並み凶疫獣の証である、血のように赤い瞳孔をした者たちに対して、
「――はあっ!」
素早くメイド服姿のエレナが、スカートを翻して苦無を一息で十本投げて牽制をする。
すべて急所である顔面に刺さる苦無。一瞬、翻ったエレナのスカートの下に、膨大な苦無がぶら下がっているのが見えた。
とはいえ、もともと脳も心臓もない疑似凶疫獣である。一瞬だけ棒立ちになり、すぐに何事もなかったかのように動き出すが、僅かでも無防備になれば上等である。
まとめて〈神剣・エヴゥラディウス〉で叩き切れば、さしもの凶疫獣も空気の抜けた風船のように原型をなくすのだった。
細分化した個体で僕らを斃すのは無理だと、遅まきながら悟ったらしい凶疫獣の本体である粘液生物が、その総量をもって押しつぶそうと津波か雪崩のように、不定形のまま向かってきたが、僕の〈神剣・エヴゥラディウス〉を中心に浮遊する百本の神剣が織りなす〈神気〉の結界に触れると、真夏の太陽に照らされた霜のように瞬時に蒸発する。
「結構、ボロボロだったんだね」
それによっていままで壁や床、天井に擬態していた部分が溶け消えて、この地下遺跡の真の姿が赤裸々になった。
まず壁は大部分が粘液生物だったらしく、小部屋と思えたここを含めて廊下も隣接する部屋もすべて吹き曝しの大部屋と化した。
床はほとんどの部分が階下へ落ちていて、辛うじて構造材が残っている程度である。
天井はまだ他に比べればマシだけれど、それでもいつ落ちてきてもおかしくないほど風化し、ひび割れが走っている。
総じて、ちょっと衝撃を与えた場合、連鎖的に地下構造が崩落する危険がある。
「――はっ!」
とりあえず体内の〈神気〉を活性化させて体重を極限まで消し跳躍をして、さらに軽身功の応用で天井に足から着地をして、この場から逃げようとする粘液生物を追って天井を走る。
「まずいな。粘液生物が擬態していたからこそ形を保っていたけれど、これを駆除したら一気に《ダイダラ迷宮》が崩れて、学園の施設ごと崩落しそうだ」
「ジェンガのようですね」
体術と得意の糸を使った跳躍とで、ぴたりと僕に追走しながらエレナが忌憚のない意見を口にした。
「まったくだ。まさか学園の礎が、粘液生物の凶疫獣によって支えられていたとはね」
これまで史上最悪の凶疫獣は、ネズミだと思われていたが、なんでも吸収同化できる粘液生物のほうが遥かに危険度は高かったということだ。
「どうしたもんかな……」
いまだ行方をくらませたままのガブリエルのことも思いつつ、僕はため息をついた。
そして話が進まない上に、令嬢が出てきません。
すみません( TДT)ゴメンヨー




