事象認識における観測者効果について
―観察者効果―
自然科学における観測者効果とは、観察するという行為自体が観察される現象(対象)に与える変化を指す。ある現象の推移、もしくはあるものの状態を知るためには「観測」という行為が必要である。しかし、その「観測」という行為自体が対象に影響を与え、本来対象がとるはずだった行動、たどり着くはずだった未来を歪めてしまう。
彼女の目覚めは最悪だった。
意識を取り戻すと同時に、彼女は後頭部の耐えがたい痛みに襲われた。
頭を抱え、苦悶の声を上げながらうずくまること数分。次第に後頭部の痛みは治まってきたように思えた。
いまだずきんずきんと脈打つような痛みはあるが、先ほどのように耐えられないほどのものではない。
彼女は上半身を起き上がらせると、悲鳴を上げ続ける頭をさすりながらあたりを見回した。
彼女の周りは四方八方コンクリートのような壁で覆われていた。幅は・・・10メートル四方程度、内部の構造から推測する限り立方体のような構造をしている。
天井からは白色電球と思わしき照明が一つぶら下がり、部屋の中へ唯一光を供給していた。
部屋の中央には木製と思われる机と椅子がひとつずつ置かれている。
そしてその椅子の丁度正面の壁には、錆びた金属と思わしきもので作られている、人ひとりが通過できそうな扉が一つ。
それだけである。
このコンクリート製の部屋の中には、机と椅子、電球、扉、そして白いワンピースのような服を着た少女が一人、それがすべてであった。
後頭部の痛みはだいぶ収まってきた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、よろよろと椅子へと近づいて行った。
そして手で少し揺らしたり押したりして椅子の強度を確認したのち、またゆっくりと椅子に腰かけた。
彼女はそのまま机に突っ伏すと、気絶するかのように再び眠りに落ちた。
どれくらい時間がたったであろうか。いや、おそらくそこまで時間はたっていないだろう。むき出しの木で作られた机での眠り心地は最悪だった。
彼女はまた悪い目覚めを経験すると、しばらく椅子に座りながらぼーっと机を見つめていた。
「おなかすいたなぁ」
そう呟いた後、彼女の頭に一つの疑問が浮かんできた。
「ここ・・・どこなんだろう」
ふと机の下に触ったとき、彼女はこの机に引き出しがついていることに気付いた。
ゆっくりとその引き出しを開けると、その中には一枚の封筒が入っていた。
彼女はそれを手に取り、しばらく眺めた。
「被験者T・・・?」
その封筒にはただ「被験者T」とだけ書かれていた。
彼女が封筒を破くと中から一枚の紙が出てきた。
‐被験者T
これは実験です。量子力学の実験です。あなたがいるヒルベルト空間は今現在、そのハミルトニアンの大部分をディラックの海に覆われています。あなたに与えられたベクトル(0ではない)は、確率の流れに従い隣接する共振器間の結合しかないので、必要な演算子の数は3個です。 ただし、そのうちの1つは恒等演算子になってしまうので、実質的には7個です。つまりあなたのヒルベルト空間における低極面座標の四次元ガウス積分は通常sinの関数に近似できますが、あなたは非摂動ボーア区分が適用されうる七次元モイラ仮定の存在下であるので、そのガウス積分はK→∞における周期境界条件を考えなければなりません。となれば、ボルン‐アインシュタイン近似に基づき、無限遠ベクトルの状態密度分布を、非剛直型ミーニンバーグ粒子模型にバッチャー補正を加えたバッチャー‐ミーニンバーグ模型で記述できるため、必然的にその四次元ガウス積分はsinとsin^-1の合成関数に帰することができます。このことはあなたがローモイヤー不確定性に単一収束解をもたらすことを表しており、この実験は非常に有意義なものなのです。‐
手紙を一読した彼女の頭の中には何も入っては来なかったが、彼女は、よくわからないが今自分が何かの実験に参加させられているのではないか、と推測した。
だとすればしなければならないことは明白である。さっさと実験を終わらせて、おうちに帰らせてもらえばいい。
彼女は椅子から立ち上がると、目の前の壁の扉に近づいて行った。
そしてドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
その扉を通った先には、また同じようにコンクリート製と思われる壁に覆われた、これまた同じような大きさの部屋があった。
部屋の真ん中には椅子と机が置かれており、天井からは白熱電球がぶら下がっていた。丁度正面の壁には人ひとりが入れる程度の大きさの扉がある。
ふと後ろを振り返ると、今通ってきたばかりの扉がきれいに消失していたが、不思議と彼女はそのことに対し、特に何も感じてはいなかった。
ただその部屋は少し様子が違っていた。椅子に見知らぬ少女が座っていたのである。そして、猛烈に臭う。
椅子に座っている少女はずいぶんと幼いように見えた。彼女と同じく白いワンピースのような服だけを着た、腰のあたりくらいまである長い黒髪の少女であった。
長い黒髪の少女は彼女に丁度背を向ける位置で椅子に座っており、何やらもぞもぞと手を動かしていた。
彼女はゆらゆらとその長い黒髪の少女のもとへと近づいて行った。
そして少女の丁度後ろに来た時、少女が何をしているのかを理解した。
少女は食事をしていた。机の上には大きな皿が置かれており、少女はその皿に乗っているものを手でつかみ口に運んでいた。
しかしその皿の上に乗っているものはおおよそ人が食べるようなものではなかった。
血にまみれた犬と思わしき動物の頭部、何かの大きな眼球、人間の男性器と思しきもの、汚物。
ウジにまみれ、ヘドロのようにぐちゃぐちゃになっているそれは、強烈な悪臭を放っていた。
彼女は長い黒髪の少女の肩をトントンとたたいた。
少女は一瞬びくっと肩を振るわせると、食事する手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
彼女がそう少女に尋ねると、少女はこくんとうなずいた。
「それ、おいしい?」
少女はこくんとうなずいた。
彼女は、そう、と呟くとにっこりと笑った。
「おねぇさんも・・・食べる?」
少女はそう話すと、手に持っているものをおずおずと彼女に差し出した。
「ううん、大丈夫。おねえちゃん、おなかいっぱい」
「とっても・・・美味しいのに」
彼女の答えに少女は少し戸惑ったような声でそう話すと、再び皿の上のものを口に入れ始めた。
彼女はしばらくその様子を眺めていたが、少女が皿の上のものをすべてたいらげたのを確認すると、再び少女に話しかけた。
「ねぇ、もう一つ、聞いてもいいかな」
「ん、なぁに」
「そんなもの食べて、体は大丈夫なの?」
そう尋ねると、少女は明らかに疑問の色を浮かべた。
「え・・・どうして?」
「だって、そんな明らかに腐ってるようなもの食べたら」
「・・・腐ってるようなもの?」
「うん、腐ってるよ」
「・・・たべたら?」
「死んじゃうんじゃない?」
「へっ?」
少女は明らかに困惑していた。きょろきょろと落ち着きなく周りを見回したかと思えば、そのあとはしばらくじっと自分の両手を見つめていた。
不意に顔を上げると、少女は彼女の顔を見つめ、呟いた。
「・・・なんでそんなこと言うの」
その言葉を言い終わった直後、少女は眼を一杯に見開き、手で口と腹を抑えながらその場に崩れ落ちた。
少女はくぐもった悲鳴を上げたかと思うと、その場に激しく嘔吐し始めた。
よほど苦しいのだろうか、嘔吐するたびに少女は体を大きく痙攣させ、吐しゃ物と嘔吐物、失禁によってできたヘドロの中を転げまわった。そのうちすべて吐き切ったのか、口からは嘔吐物が出なくなり、代わりに赤黒い血のようなものを激しく吐き出し始めた。それでも、少女の嘔吐と体の痙攣が止まる気配はない。少女の白いワンピースは汚物と血で赤茶色に染まり、長い黒髪はどろどろになった。
時間にすれば10分程度であろうか。少女はその間苦しみ続け、そしてひときわ激しく汚血を吐き出したのを最後に、汚物の中に突っ伏し動かなくなった。
彼女は汚物にまみれたその少女をしばらく見つめたのち、数秒間手を合わせ、扉のほうへと歩いて行った。
その扉を通った先には、また同じようにコンクリート製と思われる壁に覆われた、これまた同じような大きさの部屋があった。
ふと後ろを振り返ると、今通ってきたばかりの扉がきれいに消失していたが、不思議と彼女はそのことに対し、特に何も感じなかった。
その部屋は先ほどの部屋とは大きく様相が違っていた。部屋の中央には机と椅子ではなく、大きな釜のようなものが置かれていた。普通の体形の人間なら4,5人は中に入れるであろう程、巨大な風呂のような大きな釜であり、湯気と思わしき蒸気がそこからもうもうと部屋の中に立ち込めていた。そのせいか、部屋がとても蒸し暑い。
彼女はしばらく圧巻されていたが、ふと、何か歌い声のようなものが聞こえることに気付いた。
どこかで聴いたことがあるようなメロディーとどこかで聴いたことがあるような歌声。
彼女はその場でしばらくきょろきょろとあたりを見渡したが、どう耳を澄ましてもその歌声は部屋の中央にある釜の中から聞こえてくるようにしか思えなかった。
彼女はゆっくりと釜に近づいた。やはり、歌声は釜の中から聞こえてくる。
しかし釜は大きい。高さが4メートルくらいはあるだろう。中を覗こうにも彼女の身長ではとても無理である。
彼女は釜の周りをぐるっと一周すると、釜に梯子がかかっていることに気付いた。
彼女は少し躊躇したが、2,3回深呼吸をするとその梯子をゆっくりと上った。
梯子の上まで登ると、そこは釜の中を見渡すのに十分な高さであった。
しかし釜の中からは白い煙が絶え間なく立ち上り、それは彼女に歌声の正体を確認させるのには大きな障害のように思えた。
歌声は今も聞こえ続けている。
彼女は蒸気に触れないように気を付けながら身を乗り出し、目を凝らして釜の中を見つめた。
釜の中には大量の液体が入っていた。おそらくこれがこの蒸気の正体であろう。
液面は釜のふちから2メートルほど下にあるようだ。落ちたら簡単には這い上がれなさそうである。
しかしいくら目を凝らそうとも一向に歌声の正体と思わしき存在は見えない。
らちが明かないと感じた彼女は意を決し声を上げた。
「誰かいるの?」
歌声が止まった。あたりには液体が沸騰するときに聞くことができる、ぐつぐつぐつぽこぽこぽこ、というあの特有の音だけが響き渡る。
しばらくすると、ばしゃばしゃと液体をかき分け何かがこちらに近づいてくる音が聞こえた。
蒸気の中から現れたそれは、一人の少女だった。
彼女と同じように白いワンピースのような服だけを身にまとった、茶色で短い髪をした少女であった。
その少女は肩から下が液体の中に沈んでおり、丁度顔の部分だけを液面から出している状態であった。
「私がいるぞ」
短髪の少女は彼女を見上げるとそう話した。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
そう彼女が尋ねると、その少女は少し不満そうな顔をしてこう言った。
「挨拶もなしにいきなり質問たぁしつけがなってないんじゃないか」
「あら、ごめんなさい。あまりに気になってしまったもので」
「ふん、まぁ別にいいけどな。で、なんだよ」
「ありがとうございます。えっと、あなたはなんでそんなところにいるの?」
「なんで?うーん、それが私にもわからん。気が付いたらここにいた」
「連れてこられたってこと?理由に心当たりは?」
「はぁ?知らねーよそんなの。どうせあっても大した理由じゃねーだろ」
「そっか」
短髪の少女は、こいつなんでそんなこと聞くんだ、と言わんばかりの態度で彼女の質問に答えた。
そしてしばらくの沈黙ののちに、彼女の質問が終わったと見るや、今度は少女のほうから彼女に話しかけてきた。
「それよりさ、あんたもそんなとこいないで入ってみな。さっぱりするぞ」
「え、その中に?」
彼女はきょとんとした顔で答えた。
「あぁ、湯加減もちょうどいいぞ」
「そうなの?」
「もちろん、なんだかよくわかんねーけどさ。こうやってお風呂に浸かってのんびりしてれば、いつかは時間が解決してくれる。そんな気がするんだ」
「お風呂だったんだ、それ」
「だからさ、ほら」
少女は手でこっちにこいというようなジェスチャーをした。
彼女はしばらく釜の中を見つめ少し考えた後、再び少女に話しかけた。
「入ってもいいけど、その前にもう一つ聞いてもいいかな」
「あぁ?さっきっからしつけーな。なんだよ」
彼女は蒸気を激しく上げ続ける釜の中の液体とその中に入っている少女を2,3回交互に見た後
「熱くないの?」
「は?」
彼女のその質問に、少女は怪訝そうな面持ちで答えた。
彼女は口に手を当て、数秒ほど何か考えたのち再び口を開いた。
「だって、そんな沸騰してる液体の中に入ったらさ」
「入ったらなんだよ」
「熱くて死んじゃうんじゃないの?」
彼女のその言葉を聞いた少女の顔には怪訝の表情が浮かんでいた。
しかし、数秒後、彼女の発する言葉の意味が分かったのか、
視線を下げ、自分が今浸かっている液体を明らかに動揺している面持ちで見渡しはじめた。
そしてしばらく何かつぶやいた後、顔を上げ、彼女と目を合わせた。
「・・・お前は外ってわけか、この野郎」
言い終えるか言い終えないかのうちに、彼女の言葉は悲鳴に変わった。
少女は突如もがき苦しみ、部屋の中には「熱い」「熱い」という少女の絶叫が絶え間なく響いた。
彼女の身体はみるみる真っ赤に茹で上がっていった。体には次々と水膨れが出来上がっていき、その水膨れはできたそばから破裂して少女の皮膚を破壊していった。しかし不思議と、少女が沈んでいくことはなかった。数分ほどたった後には少女の肩から下、液体に浸かっている部分は皮膚がドロドロに剥がれ落ち、皮下組織が露出していた。少女からあふれ出た血によって釜の中の液体は赤く染まっていき、その様相はまさに血の池地獄であった。その頃になると少女にはもう叫びをあげる力はなく、時折口をひくひくと動かしながら焦点の合わぬ目で頭をぐるりぐるりと回していた。そしてふと回転を止め、彼女のほうに顔を向けると、その瞬間、糸が切れたように顔を水面に突っ込み、動かなくなった。
彼女はどろどろになったその少女をしばらく見つめたのち、数秒間手を合わせ、ゆっくりと梯子を降り、扉のほうへと歩いて行った。
その扉を通った先には、また同じようにコンクリート製と思われる壁に覆われた、これまた同じような大きさの部屋があった。
ふと後ろを振り返ると、今通ってきたばかりの扉がきれいに消失していたが、不思議と彼女はそのことに対し、特に何も感じなかった。
そしてその部屋の床はなぜか異様にキラキラと輝いていた。
「あら、いらっしゃい」
部屋に入るなり、彼女は声をかけられた。
少女はそのキラキラとした部屋の中央にいた。
彼女と同じように白いワンピースのような服だけを身にまとった、肩までの長さのダークブラウンのウェーブ髪を持つ少女。
少女はその「舞台」の上でダンスを踊っていた。
少女の白く長く美しい手足が緩やかなテンポで舞う。
どこからともなく、優雅なクラシック曲が聞こえてきそうなその光景に、彼女はしばし見惚れていた。
「貴女も、一緒に踊りましょう?」
数分ほどたっただろうか、ふいに、少女が彼女に話しかけてきた。
「とても素敵、でも、私は踊れないよ」
「あら、どうして?ダンスは一人より相手がいたほうが楽しいのよ?相手がダンスが苦手な方であっても私は気にしないわ」
「だって、こんなに素晴らしいダンスが披露されているのに、私も参加してしまったら観客がいなくなっちゃうじゃない。そんなのもったいないよ」
少女はうふふと笑うとくるくると体を回した。
機嫌がよくなったのか、さっきまでよりダンスのテンポが心なしか早い。
「私ね、小さいころからダンスを習っていたの」
彼女はきょろきょろとあたりを見渡している。
「うまくダンスが踊れると、ママが褒めてくれるの。素敵な服を買ってくれることもあるのよ」
彼女は、床を覆っているキラキラしたものを手に取り、まじまじと見つめる。
「だから、うまくダンスを踊ることができたら、ママが迎えに来てくれるの。きっとそうよ」
この部屋の床にまき散らされているものは、割れたガラスの破片であった。
「私、最初の頃よりずっとずっと上手になったのよ。ねぇ、私、きれいでしょ?」
「うん、そうだね」
少女は彼女に笑顔を見せ踊り続ける。ガラスの上で踊り続ける。
「あぁ、早くママに会いたいな。私、こんなにダンスが上手になったの、見せてあげたいな」
「うーん・・・」
彼女はしばらく口に手を当て考えるとキラキラ光っている床と少女を交互に見つめた。
「ねぇ、ダンスするときって靴とか履かないの?」
「基本は履くわ。でも練習のときはたまに今みたいな素足でも踊るの。指先の感覚がね、鍛えられるのよ」
「ふーんそっか」
彼女はまたしばらく口に手を当て何か考える
「うん、私も踊ってみようかな。貴方を見てたら私も踊りたくなっちゃった」
「あら、素敵。踊りましょう、踊りましょう。二人できれいに踊れたら、私のママも貴女のママもきっと喜ぶわ」
「でも、私は靴を履いて踊りたいな」
「あら、でも貴女は靴を持っていないでしょう?」
「そうだね。でも靴を履かないでこんなとこで踊ったらとっても」
「痛い!!」
彼女の言葉をかき消すように、部屋に少女の叫びが響いた。
少女はふらっとバランスを崩すと、ガシャンという音を立ててガラスの中に倒れこんだ。
「痛い!痛い!あぁ痛い!痛いぃいい!!」
ガラスの破片が少女の体に食い込む、少女の肌を切り裂く。
ガラスの破片から逃れようと体をねじる。
しかし体を動かすたびに、ガラスは少女に食い込む、少女を切り裂く。
いつしか、少女の白く長く美しい手足は鮮血にまみれ、傷口からは肉や骨が露出していた。
それでも少女は痛みから逃れようと体をねじる。
「痛い痛い痛いぃぃい!」
ガラスが食い込み、ガラスが切り裂く。
しかし少女は立ち上がろうとする。立ち上がり、踊ろうとする。
「痛い・・・ママ・・・ママ・・・」
無数のガラスが食い込む右腕。少し動かすだけでじゃらんとガラス同士がこすれる音が鳴る。
重力に負け、大きな破片が腕から落ちる。少女の血肉とともに。
一歩足を動かす。ジャリと低い音を立て、足がガラスに食い込む。
「ひぃ、あっ」
足の裏から襲う全身を貫く痛み。少女はバランスを崩し再びガラスの海に倒れこむ。
有機物にガラスが突き刺さる音、衝撃でガラスが割れる音、そして幼い少女の絶叫が、無機質な部屋にこだまする。
そして少女は痛みから逃れようと、暴れる、ガラスが食い込み、切り裂く。
彼女は、その光景をただじっと見つめていた。
しばらくたった、少女はガラスの海にうつぶせに突っ伏し、もう動かない。
ひゅーひゅーという呼吸音、そしてたまに血の中を空気が移動するごぼっという音だけが、静寂な部屋の中に響く。
彼女は少女をしばらく見つめたのち、数秒間手を合わせ、ガラスを踏まないように壁伝いにゆっくりと扉のほうへと歩いていった。
「酷い・・・酷いよ・・・私は・・・踊らなきゃダメなのに・・・踊らなきゃ・・・ママが」
彼女がドアノブに手をかけようとしたとき、少女のそんな声が聞こえてきたような気がした。
彼女は振り返り、動かない少女に向かって呟いた。
「迎えは来ないよ。これは、実験だから」
その扉を通った先には、また同じようにコンクリート製と思われる壁に覆われた、これまた同じような大きさの部屋があった。
ふと後ろを振り返ると、今通ってきたばかりの扉がきれいに消失していたが、不思議と少女はそのことに対し、特に何も感じなかった。
その部屋は・・・今までと違う。いや、本来あるべき姿というべきか。
何もない。ただコンクリートに囲まれた10m四方の空間があるだけ。
そこには少女以外誰もいないし、何もない。
ただ一つ何かあるとすれば、少女の正面の壁、その天井付近に人ひとりが入れそうな扉がついていることくらいである。
少女はその扉がある壁のほうまで歩いてゆき、はるか高さにある扉を見上げる。
「うーん、さすがに届きそうにないなぁ」
少女は他に何かないかよく室内を探したが、やはりこの部屋には何もない。
少女はしばらく口に手を当てぶつぶつと何呟きながら思案したが、現状どうしようもないことを悟るとその部屋の中央付近の床にごろんと寝転がった。
少女はとても疲れていた。
コンクリートの床は硬く、寝心地は全くよくはなさそうである。
しかし少女はとても疲れていた。
コンクリートの床に寝転がり、ぼーっと天井を見つめているうち、少女は眠りの中へ落ちていった。
「・・・きて、ねぇ起きてってば」
誰かの声が聞こえた。
その声は明らかに少女に対してかけられているようである。
そのことに気付いた少女はばっと上半身を起こし、声の主を探した。
しかしあたりを見渡しても、人影らしきものは見当たらない。
「やっと起きた」
声は聞こえる、しかし人影は見当たらない。
「おーい、こっちこっち。おいおーい!」
声は聞こえる、だがよく聞くとその声は下でも横でもない、上から聞こえてくる。
少女は恐る恐る上を見上げる。
「や、おはよう」
少女が一人、天井に立っていた。
天井からまるで逆さ吊りになっているかのように、彼女は立っていた。
少女は状況がつかめず、目をこすりながら彼女を呆然と見つめていた。
「いや、びっくりしたよ。女の子が部屋の中に横たわってるからさ。死んじゃってたのかと思った」
そういうと彼女はたははと笑った。
少女と同じように白いワンピースのような服だけを身にまとった、長い黒髪を後ろで束ねている少女であった。
「ねぇ、あなた何してるの?そんなとこで」
彼女はにこにこと笑いながら少女に問いかけた。
「なに・・・、うーん、何してるんだろう。わかんない」
「えーなにそれー」
「なにしてるんだろうね、私、貴女こそ、そんなところで何してるの?」
「わかんない」
「貴女もわかんないんじゃないの」
「ねー」
お互い顔を見合わせクスクスと笑う。
「あ、思い出した。私、実験やってるの」
「実験?奇遇ね。私も」
「あら奇遇、なんの実験をやってるの?」
「わかんない」
「えー」
「そういうあなたは?」
「わからないわ」
「えー」
二人の間でしばらく会話が続く。
彼女もまた、気が付いたらこんなところにいたこと。
彼女もここに来るまでにいくつかの部屋を通ってきたこと。
彼女が目を覚ました部屋に、少女のときと同じように封筒があったこと。
その封筒には意味の分からない文章とともに、被験者Tという文字がかかれていたこと。
彼女もまた何かの実験に参加させられてるかもしれないということ。
結局それ以上のことは分からなかった。
「ねぇ、この部屋からはどうやって抜け出すんだろう」
「さぁ、というより、貴女あの扉から入ってきたの?」
少女は天井付近につけられている扉を指さす。
「うん、そーだよー。あなたこそ、あの扉から入ってきたの?」
そういうと彼女は少女が入ってきた扉を指さす。
「えぇ、そうよ」
「ふーん」
彼女はうーんと何か考え始める。
少女も口に手を当てぶつぶつと思案する
彼女が「ねぇ」と声を上げる
「ん、なに?」
「なんかよくわかんないけどさ。折角だしこれからは二人で行動しない?なんか、あなた、私と同じにおいするし」
「におい?うーん、まぁ別にいいよ。一人より二人のほうが心強いし」
「やった、決まりね」
二人は顔を見合わせくすくすと笑った。
「あ、そうだ。ずっと気になってたんだけど」
彼女はふとそう切り出す。
「ん、なに?」
「あなた・・・なんでそんなところにいるの?」
「そんなところ?」
「うん、てか、どうやってそんなところにいるの?」
「・・・うーん、言ってる意味が分からないけど、その疑問はお互いさまじゃない?」
「えっ?」
「貴女こそ、そんなところにいて大丈夫なの?」
少女はそう問い返す。
「へっ?いや、別に何ともないけど・・・」
「ふーん」
少女はしばらく首をひねり何かを考える。
「いや、でも貴女」
「ねぇ、もう一個だけ聞いてもいい?」
少女の言葉を遮り、彼女がそう問いかける。
「なに?」
「うーん、いやさっきの質問とほとんど同じかもしれないけど」
「うん」
「あなた、」
「なんで天井に立ってるの?」