恋人の夢(休日の動物園へ出向くきっかけについて)
彼女が僕の部屋で朝を迎えるのは、大抵土曜日だ。自由気ままな生活をする彼女と違って、全うな社会生活を営んでいる僕の休日は土曜日と日曜日に固定されているので、彼女は大抵金曜日の夜に遊びに来て、土曜日の朝に僕の家で珈琲を淹れる。
彼女がきつね色に焼き色のついたトーストにたっぷりとバターを乗せる間、僕はベランダのガラス戸を開け放ち、1人掛けのソファーに体を沈め、煙草を咥えながら朝刊をめくる。穏やかな休日の朝。
「昨日見た夢、憶えてる?」
珈琲に砂糖を二杯入れてかき混ぜながら、彼女は僕に尋ねる。僕は新聞から顔を上げ「憶えてない」と眉を少し持ち上げて見せた。
「私は憶えてるよ。見た夢は、結構しっかり憶えているの」
「それは眠りが浅いんじゃないの?」
「そうかしら。ね、昨日私が見た夢、聞いてくれる?」
僕は、大きな音を立てて新聞を畳み、彼女の向かいの椅子に移動する。
「どんな夢?」
彼女は、トーストの端(バターのかたまりが溶けずに残っている一辺)に大きくかぶりつきながら、夢のことを話し出す。
夢の中は夜だった。そこは広い野原で、遠くに小さな明りが見えたそうだ。彼女はそこへ向かって歩き出す。自分が、足に馴染んだ履き心地の良い革のストラップシューズを履いていることに気付き、この靴に一番合うレース襟の付いた紺色のワンピースを着ていることを確認した。それに、パリッとした柿色の、やわらかい襟巻きを併せている。充分にあたたかく、これならどこまでも歩けると彼女は安堵したそうだ。
明りの正体は、サーカスの丸いテントだった。細かい電飾が、クリスマスにいかれる街のようにそこら中に絡まり浮いていたという。
「それでね、夢のお約束として、私はそのテントの入り口を探して中を覗き込んだの」
テントの中は想像していたよりも狭く、こぢんまりとしていて、真ん中に低く円い舞台がぽつんと置いてあった。
「私は、せっかくだから一番前に行こうと思って、舞台に一番近い折りたたみ椅子に腰掛けたの。その椅子は、大きな音で軋むのにとても坐り心地が良かった」
やがて、幼児用のおもちゃのようなカラフルなラッパを持った小さな男の子が現れ、それを吹き鳴らしながら舞台の周りをぐるぐると走り回り始めると、突然テントが吹き飛び、四方八方から動物やピエロがわっと男の子めがけて飛び込んできた。
「目の前よ、私の本当に目の前。虎の匂いがむっと漂ってきたし、ピエロの粉白粉がきらきら飛び散るのも見えた」
虎、サル、シマウマ、ライオン、プードル犬、ピエロ、空中ブランコ乗りの少女、バイクにまたがった大柄な男性、馬の背中に立ち上がった美女、体操選手のような男性(きっと綱渡り師だわ)、そして最後に、上等の燕尾服に蝶ネクタイを締めた老人が、今にもすっ転んでしまいそうなよたよたとした歩き方で彼女の前に歩み寄ってきた。
彼女は坐ったまま老人を見上げ、わずかに首を傾げて言葉を待った。
『お嬢さん、本日は【かぼちゃと豆電球の婚礼大サーカス】にお越し下さりありがとうございます。しかしご覧の通り、あまりの出演者の多さに驚いたテントが逃げてしまいましたので、本日はサルの洗濯とライオンのシャワーしか上演できませんが、どうかご了承下さい。演目は二つですが、あなた様をきっと満足させるとお約束致します。どうか最後までお楽しみ下さいますよう・・・』
「不思議なのよ、その場でぽっくり逝ってもおかしくないくらいのおじいさんなのに、声はとても張りがあって若々しいの。どこかで聴いたことある声だなって考えていたら、近所のスーパーマーケットの鮮魚コーナーでいつも景気良く挨拶しているお兄さんにそっくりなのよね。私は『勿論、愉しませて頂きます』ってお返事を返して、椅子に坐り直して、サーカスが開演するのを待った」
小さな舞台の側に、大きなたらいと麻袋を抱えたサルと、乾いたたてがみを逆立てた雄ライオンが立ち、残りの出演者達はごく当たり前のようにぞろぞろと客席へ移動した。後方の席からため息や笑い声や体温が溢れ流れて彼女を包み、その刹那、彼女はほんの少し不安を感じたそうだ。
「さっきのラッパ少年が、私の隣の席に坐ったわ。とても可愛い男の子なの。バーバリーみたいなベージュのチェック柄の半ズボンを穿いていて、くしゃくしゃの濃いチョコレート色のシャツを着ていた。目は思慮深い灰緑色で、鼻先が生意気そうにつんと尖っていて、ラッパを強く吹いたからかしら、唇が赤くぽったりと腫れていて。少しずらしてかぶった鳥打帽の隙間から、銀色のふわふわした髪が覗いていたんだけど、それが砂埃でぱりぱりなの。彼は客席に坐ったままラッパを鳴らした。するとその音に、しゃがみ込んで地面を引っ掻いていたサルがハッとしたように顔を上げて、慌てて円い舞台の上に飛び乗ったわ」
演目の最初は、サルの洗濯だった。彼女は少し身を乗り出し、サルの動きを全部見届けようと舞台に集中した。
サルは、持っていた大きなたらいを舞台の真ん中に置き、それから麻袋の口を開いて中から洗濯板を取り出した。木製の洗濯板はだいぶ年季の入った代物で、何度もこすった所為だろう、ぎざぎざに波打つ半面がささくれ立っているのが確認できた。
サルはその板をたらいの内側に斜めに立て掛けると、もう一度袋の中に手をつっこみ、そこから何かを掴み出してたらいにぶちまけた。
「それがね、大小様々な眼球だったの」
彼女はそこで一旦言葉を切り、甘ったるい(であろう)珈琲を、美味しそうに一口すすった。
「眼球?」
僕は、薄気味悪い心持ちで訊ねた。
「そう、眼球。綺麗な真ん丸じゃなくてね、みんなほんの僅かに楕円形で、それで、瞳が全部色付きなの。明灰色、空色、菫色、緑色、紅葉色、いろんな色があった」
「紅葉色の瞳なんて見たことがない」
「私も、その夢の中でしか見たことないよ」
サルは、何度も何度も麻袋に手をつっこんで、たくさんの眼球を掴み出し、それをたらいにあけ続けた。やがてたらいは、縁の側まで眼球でいっぱいになった。
サルは満足そうに一度腰に手を当てて伸びをすると、洗濯板を左手で握り、右手で眼球をぎゅっと握って、突然勢い良く洗濯板にこすり始めた。いくら眼球に弾力性があるとはいっても、サルに力任せに洗濯板に擦りつけられればひとたまりもない。地面に叩きつけられたトマトさながら、何の抵抗もできずに眼球は次々と潰れていき、そこから透明な液体が溢れて洗濯板に溜まっていった。
「何度も何度もこすっているうちに、サルの指の甲が洗濯板に擦れて血が噴き出してきたの。それでもサルはやめないのよ。あんまり痛々しいので、私見ていられなくなって、隣にいるラッパ少年の方を向いたの。すると、ラッパ少年はその光景を面白そうに眺めていたわ。本当に無邪気な顔で。私は思わず『怖くないの?』って彼に訊いた。ラッパ少年は舞台から目を離さずに『だってあれはあいつの芸なんだよ、すごいでしょう?それに僕、あいつのこと好きなんだ。しょっちゅう目玉を狙ってくるところを抜きにすれば、気持ちの良いやつだしね』って笑って答えたわ。私、何故かすんなり納得しちゃって、もう一度舞台に目を戻したの。よく見ると、サルは心から誇り高い微笑を浮かべて、眼球の洗濯を黙々と続けていたのよ、それでやっと私も『あのサルは自分の芸を誇らしく思っているんだ』って心から信じられて、さっきよりは怖いと感じなくなっていた」
やがてサルは、最後の一掴みの眼球を擦り終わった。たらいの中は、眼球から溢れた液体が半分ほど溜まり、その水面に潰れた眼球の抜け殻が力なく浮いていた。
この眼球の洗濯がサルの芸の全てだと思った彼女が、拍手をしようと両手を持ち上げた瞬間、突然、サルがキーキーと甲高い声で叫びながら、彼女をまっすぐに指差した。彼女は驚いて、思わず椅子から転げ落ちそうになった。先ほどの老人がサルに駆け寄り、サルに耳を傾け、何やらふんふんと頷いて見せた後、彼女の方へよろよろと近寄ってきた。
『お嬢さん、厚かましいながらお願いがあります。サルが、今しがた溜まった眼球の液体で、貴女様のお洋服を洗わせて頂けないものだろうかと熱望致しております。先ほどサルが取り出してきた瞳たちは、世界中の素敵なものを見続けてきた者たちが所有していた瞳です。きっと、そのような瞳から溢れた液体で洗われれば、貴女様のお洋服は更に輝きを増すでしょう。いかがですか?めったにない機会ですぞ』
彼女は勿論断った。しかし、背後からピエロにそっとジッパーを下ろされ、抵抗する間もなくあっと思う間に服は剥ぎ取られ、気が付くとお気に入りのワンピースも柿色の襟巻きも、老人の手に渡っていた。老人は満足そうにそれをサルに渡し、サルはもっと満足そうにそれをたらいに放り込むと、麻袋と一緒に両腕で抱えてどこかへ去ってしまった。
素肌にワンピースを纏っていた彼女は、裸に革靴だけを履いた姿で取り残され、慌てて身を縮めながら着席した。そっとラッパ少年を見たが、彼は裸の彼女に何ら関心を示す気配もなく、自分のラッパのマウスピースを取り外してシャツの裾でそれを拭いていた。
先ほどの老人が手招きをすると、少し痩せた雄ライオンが円舞台の上にのっそりと立ち上がった。
『さて続いては、ライオンのシャワーです。この演目は、お手伝いをして頂くお客様が必要です。おや、そこにお手伝いして頂くのにぴったりなお嬢さんがいらっしゃる!さあ、貴女様、こちらへご足労願えますかな?』
老人は空々しい科白を吐きながら、裸の彼女の左腕を掴み、立ち上がらせた。彼女はあまりの恥ずかしさにいやいやと首を振って抵抗したが、老人はその歩みとは似つかぬ強い力で、彼女を客席から舞台へ引き摺り出した。
「変な話なんだけどね、私、ライオンの側に立たされた瞬間、客席にいる全員が、私の顔でも脚でも胸でもなく、ちっぽけな性器を見ているんだってことが解ったわ。性的なものを見る目じゃなくて、例えばフリーク・ショウで髭女や蛇男を見るときのような、「そんなもの初めて見るぞ」って気持ちで見ているんだって、はっきりとね。何故かは訊かないでね、だって全部夢なんだから、解るときは解るものなの」
老人はライオンに何か耳打ちし、ライオンは面倒臭そうに短い鼻息を漏らした。老人は彼女に向き直り、目を大きく見開いて世にも恐ろしい表情で彼女の前に人差し指を立てて見せた。
『良いですか、お嬢さん。この雄ライオンは今、貴女様のお体をくまなく舐め回して綺麗にして差し上げようと意気込んでおります。このライオンはとても舐めるのが上手いのでございます。貴女様のお体の隅々まで、温かい舌を使って、絶妙な力加減で、優しく潤し清めることでしょう。しかし、どんなに気持ち良くても、決して声を上げてはなりません。貴女様が一声でも喘げば、この雄ライオンは我を忘れてたちまち貴女様を食ってしまいます。良いですか、何があっても、声を上げてはなりませんよ』
彼女は、ほとんど諦めたように頷いた。服を取り去られ、大勢の観客に見詰められ、肉食獣の側に立たされ、恐ろしい力を持っている老人を目の前にして、彼女はどう足掻いても逃げられないと悟ったのだ。こうなっては、大人しくライオンに舐めまわされることに耐え切り、サーカスの終幕を見届けるしか、安全に立ち去る方法はない。彼女は、唇を噛んで目を閉じた。
老人が舞台から降りたと同時に、ライオンの大きな前足が優しく彼女の肩を引き寄せた。ライオンの体からは、獣というより、枯葉と土の混ざったような秋の匂いがした。彼女は、自分の肩に乗せられた大きな肉球と鋭い爪に驚きながらも、ほとんど自棄のような勇ましい気分で(『さあ、どこからでも舐め始めるがいい、絶対に声なんかあげるもんか!』)、ライオンに体を預けた。
ライオンの舌遣いは、それはそれは巧みだった。
首筋を舐めるときはほんの少し舌を細めて耳の裏側まで丁寧に湿らせ、背中を舐めるときはやすりのようにざらざらとした表面を大胆に上下させ、脇腹から腰にかけては力を抜いた舌先をぺったりとくっつけるように撫で回した。
彼女は、その予想以上の心地良さに自分の吐息が上がっていることを確認して怯えた。このままだと、いつかうっかり声を上げてしまいそうだ。奥歯を噛み締め、これは生死をかけた闘いなのだ、と自分に云い聞かせ、彼女は細い足首に力を込め直した。
やがて雄ライオンの舌は、彼女の性器にさしかかった。ライオンは、上手に尖らせた舌先で彼女の繊細な部分をほんの少し突っついた。途端に彼女の鳩尾は揺れ、膝の力が抜け、彼女はその場にしりもちをついた。地面に体を打ちつけた衝撃で、彼女の口から短い呻き声が漏れた。それを耳にしたライオンは目を輝かせ、してやったりという顔で彼女に飛び掛った。
「でも私が声を上げた直接の理由は、地面にぶつかったお尻が痛かったからなのよ。ライオンに舐められたからじゃないわ。だから私は、鼻先を私の胸に押し付けるライオンにそう云ってやったの。『お前の舌が私の声を引きずり出したんじゃない!』って」
その言葉を聞いた途端、彼女に圧し掛かったままライオンは動きを止めた。そんなことを云われるとは思っていなかったし、絶体絶命の崖っぷちに立ちながら抵抗する人間など、ライオンにとって初めてだったのだ。
観客席からブーイングと大笑いが同時に沸き起こり、この前例のない成り行きに驚いた老人がよたよたとライオンに走り寄った。ライオンは彼女の体から離れ、老人に何やらぼそぼそと耳打ちし、それを聴いた老人は忌々しそうに彼女を睨んだ。
『お嬢さん、困りますな。このライオンは貴女様を大層気に入り、できることなら貴女様とひとつになりたいと切実に願っておりましたのに、貴女様がそのようなことをおっしゃった所為で、彼は非常に困惑し、意気消沈してしまいました。今夜、彼の夕餉の用意はございません。この類稀なる才能を持った芸達者な雄ライオンが、空腹を抱えながら惨めな気持ちで夜を明かすなど、この老いぼれには耐えられません。ここはひとつ、前言を撤回し、彼の胃を満たしてやっては下さいませんかな』
「その言葉を聞いて、私、今まで感じたことのない怒りがワッと体中に溢れたのが判ったの。それで、老人に人差し指を力強く突きつけて云ってやったわ、『心からそう思っているなら、お前が彼の胃を満たしてあげても良いじゃないか!』って」
彼女のその言葉が空に舞い上がった途端、そのこだまの端っこが消える前に、ライオンは老人の体を頭から飲み込んでしまった。悲鳴ごと老人が消え去ると、ごく僅かな間が空き、それから大きな拍手と歓声が野原中に広がった。
「どこからか、さっきの洗濯するサルが走ってきて私の前にひざまづいて、ぴかぴかに磨かれたワンピースと襟巻きを私に差し出したの。私はその服を着て、サルの耳にキスをしてやったわ。それから大歓声に両手を大きく振りながらサーカスを後にしたの。電飾が徐々に少なくなっていって、気が付いたら私はあなたの腕の中に戻ってきていた」
これでおしまい、と彼女は満足そうに微笑んだ。僕は、先ほど畳んだ朝刊の端を指先でいじりながら、「長い夢だったね」と困惑の笑みを漏らした。彼女の夢の話を聞いて、誰かの人生を丸ごと一編生きてしまったような疲労を覚えていた。
「見ているときは長いと思わなかった。でも言葉にして説明すると、なかなかの長編大作だったみたいね」
ご静聴心から感謝申し上げます、とおどけて云いながら彼女は珈琲のお替りを淹れるために立ち上がり、僕は椅子の上でうんと伸びをした。
開け放したままのベランダの向こうから、ヒヨドリの大きな声が聞こえてきた。アパート沿いの道路を駆けていく子どもの足音と大声。ひんやりとした風が部屋中に貼り付き、ガラス戸を閉めるために立ち上がった僕は大袈裟な身震いをした。
「ねえ、今日動物園に行かない?本物のサルとライオンに会いたいの。それからそのままどこかでおいしいものでも食べましょうよ。ねえ、どう?」
彼女の無邪気な提案に、僕はほんの少しうんざりしながら瞼を擦った。できることならしばらくは何も考えたくなかったが、台所から戻ってきた彼女の、綺麗に揃った睫毛が珈琲の湯気に震えながら微笑んでいるのを認め、シャワーを浴びたら気に入っているシャツに着替え、ジャケットにかぶさったままのクリーニングのビニールを破いてやろうと考えた。
お越し頂き、ありがとうございます。二作目になります。
前回書き忘れましたが、今回の作品も前回のものも、数年前に書いた文章に少々加筆したものになります。
私自身は、夢の詳細を比較的憶えている方です。痛みも匂いも味もありますし、夢と現実が混ざってしばらく区別がつかなくなる事態も時々あります。
しかし、今回の話の内容に関しては、1から100まで作り話です。
夢に引きずられ、消耗し過ぎないよう、気を付けて参りましょう。
未熟ではありますが、閲覧頂きありがとうございます。
あなたの夜が、温かく穏やかなものでありますように。
感謝を込めて。