〈7〉もう、いない
メーディの男爵家はトリニタリオ領の境界、フォラステロ領に入るすぐ手前のところにある。それは牧歌的な農地が広がる場所であり、軍事国家とは思えぬようなのどかさであった。柵の中で放牧された家畜たちが伸び伸びと過ごすその道を通ってルナスたちの乗る馬車はファーラーの屋敷へと向かう。
少しだけ小高いところにあるその屋敷は貴族の館としては質素で、築何年ほど経っているのかもすでにわからない。手直しをしたのも随分と前なのではないだろうか。それほどに慎ましく倹約している。
ただ、もう少し体面を整えないといけないのではないか。これでは領民に不安を与えてしまうとリィアには思えた。
乗り付けた馬車に出迎えはなかった。使用人もきっと必要最低限なのだろう。そこまで手が回らないのだ。
ルナスたちは勝手に敷地へ入り、そのドアノッカーを大きく鳴らした。
「ごめん下さい!」
アルバのよく通る声が侘しい屋敷の中へ届く。そうして、慌しく駆けて来たのは腰の曲がった老執事だった。
「ああ、お客様でございましたか! 申し訳ございません!」
不自由な体だが懸命に頭を下げる。本来であればもう隠居していてもおかしくはない。それを、老体に鞭打って働いているといった印象だった。
その老執事の前にルナスがサッと歩み出た。
「ファーラー卿は在宅だろうか?」
その屹然とした姿に、老執事はハッと息を飲んだ。その麗容はそうそう出会えるようなものではない。今は亡き主から話に聞き及んだことはあったのだろう。
「も、もしやあなた様は……」
「王太子が面会に来たと伝えてもらえるかい?」
「は、はい! 少々お待ち下さいませ!」
老執事は転がるように奥へと消えた。身分を明かした以上、面会を断られることはない。
ルナスのはっきりとした意志がリィアにも伝わる。
そうして、ほどなくして老執事はメーディの息子である男爵を連れて来た。年の頃は確か四十ほど。けれど、やつれた顔は十歳以上は老けて見えた。
――だからこそ、その顔はメーディによく似て見えた。
リィアでさえもどきりと胸を震わせたのだから、平然としているように見えるルナスも本当はたくさんの感情を飲み込んだのだと思う。
「お、王太子殿下、このようなところにお越し頂き、恐悦し――」
そこでゴホゴホと、咳き込む。その咳は激しく、仮病をごまかすために演じているのではないとすぐにわかった。本当に体調が優れないのだ。老執事が気遣わしげにその背をさする。
ルナスも戸惑いを滲ませながら言葉を選んでいた。
「無理をさせてしまってすまない。それでも、一度話さねばならぬと思って参ったのだ。ただ、そこまで体調が優れぬのならば寝台に横になったままでよい。少しだけ話を聴いてもらえるだろうか?」
「そ、そのような恐れ多いことは……」
「あ、半日もしましたら、領地を巡っておられる若君が戻って来られるかと」
老執事はそう言ったけれど、それを待てるほど時間にゆとりがあるわけでもない。それに、ルナスはやはり男爵と話したいのだと思う。
「私ならば大丈夫です。王太子殿下は父のことでお見えになったのでしょう。それならば、私が受け止めねばならない問題です」
メーディも狂気を見せるその瞬間までは清廉な人柄であった。それを息子である男爵にも感じ取ったのか、ルナスはそっと目を細めた。
「ならばせめて座って話そう。その方がいくらかはマシだろう」
「ありがとう、ございます」
通された応接間も質素で、逆に言うのならば無駄がない。壁や床の落ち着いた配色は、はけばけばしいよりは好ましかった。
紅茶を運んで来てくれたのはメイドではなく男爵夫人のようだった。どちらかと言えば地味な、控えめな印象はこの屋敷と同じである。
「私は、メーディの死の真相を話さねばならぬと思って来たのだ」
この地味な場所にいてさえ、ルナスの存在は際立って見えた。だからこそ、余計に際立つと言うべきだろうか。
男爵は色のない顔をくしゃりと歪めた。
「父は――何をしたのでしょう?」
そのひと言から、メーディが完全な被害者ではないのだと感付いている。表向きはルナスの命を狙う者に盾に取られ、自ら命を絶ったとされているのにもかかわらず。
「我が妹に毒を盛り、その後に自害した。妹は毒を飲まずに済んだのだが、心には傷を負って声を失ってしまった」
ヒ、とたどたどしく息を飲む音がした。まるで発作のように男爵の様子は見る見るうちにおかしくなったけれど、ルナスはそれでも続けた。
「妹を害することで、苦しむ私が見たかったのだそうだ」
ガタガタと震えて涙ぐむ男爵は、それでもようやく言葉をひねり出す。
「も、申し訳……ございません。父の罪は、私が……っ」
代わりに償うとでも言おうとしたのだろうか。けれど、ルナスはその言葉を遮る。
「私は罪を問いに来たのではない。真相を伝えに来たのだ。メーディのしたことを許すのではない。けれど、その罪をあなたに償わせるつもりなどない。メーディは……当事者はもういないのだから」
その声は優しかった。
パールの状態を、それに心を痛めるルナスの心を知るだけに、リィアは泣き出したいような気持ちでその場にいた。
「父は、父は……っ」
うわ言のように繰り返す男爵に、ルナスは柔らかく悲しく微笑む。
「それでも、メーディと過ごした日々は私にとってかけがえのないものであったよ。そのことに対する感謝の念も確かにあるのだ。私がメーディに対して思うことは、恨み言ばかりではない。だから、あなたがそうして体を壊すほどに思い詰める必要はないのだ。それだけをわかってくれればいい」
メーディの心の動きを誰よりも先に感じ取っていたのは、息子である彼だろう。
男爵は嗚咽を漏らしながら切れ切れに言うのだった。
「父は、私の、末の息子が死んでから……何かが変わって、しまいました。そうして、その後で、お仕えすることになった、殿下に、強い執着を、見せるようになって……」
「うん……」
ルナスもそっと相槌を打つ。
「うちへ戻っても、殿下のお話ばかり、でした。それは、少し、常軌を逸した、ほどに……」
ゴホゴホ、と咳き込み、今度は夫人がその背をさする。
そこで、ずっと黙って大人しく聞いていたレイルが口を開く。
「そういうところが利用されたってことだ」
男爵も夫人もぎくりとしたけれど、すぐに肩を落とす。
「利用された、のでしょうか。だとするのなら、あの方は……」
「スペッサルティンのことかい?」
男爵は無言でうなずいた。それは、大きな収穫であった。
これ以上、男爵に無理をさせてはいけない。ひどく疲弊していた。
「……長居をしたね。では、よく体を労わって、早く調子を取り戻してくれ」
そう言って立ち上がったルナスに、男爵はすがるような目をした。ルナスはただ、微笑む。
「もしあなたが私がなんと言おうとも罪の意識を感じてしまうのであれば、その償いはいつか、私の治世が訪れた時に私を支える力となってほしい。そのためにはまず体を治すことだ」
気にしなくていいと言われただけではかえって不安になる。
だからこそ、ルナスは最後にそう告げたのだ。その目論見は成功であったのだとリィアは思う。
ルナスを支える、そうした目標ができ、男爵は生きる気力をその目に取り戻したのだから。




