〈16〉黒幕
暗い、闇の濃い夜。
窓の外を見遣ると、手燭の灯りと共にやって来た人物がいた。
ユーリは、ようやくかと小さく嘆息する。
控えめを装った尊大なノックの音がして、ユーリの許可など必要としていないとでも言いたげに扉は開かれた。部屋の中に明かりはなく、扉が開かれた瞬間に部屋の中に光が差し込む。その明かりは、戸口で待つ人物、ベリアール王子が手にする灯りであった。
「このように暗い場所へ閉じ込めて申し訳ない」
ユーリは、背に灯を受けた人物へ不敵に微笑んでみせた。
「明かりが漏れては面倒ですからね」
すると、その人物はクツクツと笑った。
「さすがと言うべきかなんと言うべきか、肝の据わった『お嬢さん』だ」
大らかにそう言ったかと思うと、不意に声は鋭さを増す。
「けれど、あのラスタール=メトローナの後継者がこのような貴婦人とは。戦乱の世にあの小さな国を守った軍神――伝説とまで謳われた彼が、何を思って君に軍略を授けたのであろうな」
ユーリは待ち焦がれた対面に震える心を静めながら言った。
「あなたが五年前の戦いの根源ですね? 私を連れ去ろうとしたのもあなたの指図でしょう? ――ペルシ王国宰相スペッサルティン殿」
宰相。軍事においては参謀の地位にある。すべてにおいて国を掌握するのは、王よりもこの男であるのだろう。
ユーリの挑むような声に、彼は皺の深い顔を歪めて笑った。日の光のもとであるならば品よくも感じられたかも知れないが、薄暗がりの中ではその不気味さは際立って見える。それでも、ユーリは怯む様子を見せるつもりはなかった。
「――五年前、メトローナが死去したという情報を得た。それを王にお伝えしたのは確かに私だ。アリュルージは諸島の要とも言える土地。押えることができたならば、諸島はこのペルシの手中に収まったも同然だ。時を置いてはいけない、決断は今だと……」
「過ぎた欲は身を滅ぼします。あなた方は国を満足に治めることだけを考えておられるべきでした」
臆することなく言い放つユーリに、スペッサルティンの奥からベリアールの瞳が向けられる。そこにあるのは、渦巻く不安。
けれど、それを上手く外へ吐き出すことはできないのだろう。
「弱小国家でありながらも、その手腕を持ってして軍師メトローナは国を守り抜いた。そのことは賞賛する。けれどまた、馬鹿らしいとも思う」
スペッサルティンの言葉が孕む毒に、ユーリはスッと目を細めた。そんな彼女に、スペッサルティンは言う。
「あれだけの能力を持ちながらも小国にくすぶり、死した。望めば諸島統一さえも夢ではなかったやも知れぬのにな」
そのひと言に、ユーリはくすりと笑う。
「随分と大仰なことを仰るのですね」
「女の君にはわからぬか?」
「男性のラスタール師でもそのようなものを目指したりはされませんでした」
そうして、ユーリはぴしゃりと言い放つ。
「ラスタール師から私が受け継いだものは、軍略ばかりではありません。その精神です」
自らの力に溺れ、手から零れ落ちるほどのものを手にしようとする。そうした強欲さを、ユーリの師は何よりも嫌っていた。自らの策を披露し、賞賛されることを願うような人間はそばに寄せなかった。ひっそりと慎ましやかに先を読んで、人知れずことを収める。それこそが最善であるのだと。
その精神こそが、スペッサルティンにとって最も忌まわしいものであるかのように顔を歪めた。
無欲でありながらも、常に自分の上を行くラスタール師が、スペッサルティンには我慢ならなかったのかも知れない。
「……ならば君は、私に協力するつもりなどないのであろうな」
「ええ」
はっきりと答えたユーリに、スペッサルティンはにこやかに告げる。
「そうか。それならば、仕方がない。解放してやろう」
途端にベリアールはハッと目を見開いてスペッサルティンを見遣るけれど、スペッサルティンの視線がユーリから外れることはなかった。
「……」
ユーリは苦々しい顔をしてつぶやく。
「あなたの狙いはそれですか……」
スペッサルティンは、勝ち誇ったように笑ってユーリに背を向け、一度だけ振り返る。
「いくつかの利があって動く。それは当然のことだろう」
そうして、スペッサルティンは不安げに押し黙っているベリアールの肩に触れた。
「ベリアール様、後ひと晩だけです。明日にはすべて解決致します。お心を強くお持ち下さい」
「僕ならば大丈夫だ」
虚勢に他ならないその声に、スペッサルティンは満足げに微笑む。
「ええ、ではお任せ致します。『我が君』」
スペッサルティンが去った後、ユーリは無言でベリアールに瞳を向けた。けれど、ベリアールはユーリを直視することはなかった。その瞳に浮かぶものを見据える勇気が持てなかったのかも知れない。
ベリアールもそっと立ち去ると、部屋の中は再び静寂の闇に包まれた。
ユーリはまぶたを閉じ、その裏に浮かぶ顔に小さく詫びるのだった。




