〈7〉虚像の奥に
リィアはその後、日が暮れた頃に兵舎へと戻る。けれど、その途中でまた出くわしてしまった。
ルーメル伯爵家のツァルドだ。ルナスに懐剣を下賜されて以来、リィアに突っかかって来るのは彼くらいのものである。いちいちリィアに構うツァルドに、取り巻きたちでさえ困り果てている様子だった。
「おい」
兵舎の壁際を歩くリィアを、ツァルドは呼び止める。
いつも上からものを言う。デュークもそうだが、それとは比べ物にならないような不快な声だ。常に人を馬鹿にしている。
「……何か?」
面倒だけれど、ついて来られたくはない。立ち止まり、冷ややかな視線を向ける。体格が立派だろうと、家柄が上だろうと、今更怖がったりなんてしない。
すると、ツァルドは苛立ちを顔に出す。
「随分と態度がでかくなったじゃないか。お前はただの一等兵でしかないくせに、王子の威光をかさにいい気なものだ」
他人の神経を逆撫ですることが趣味なのだ。相手にするほどでもない、とリィアはあえて微笑んでみせた。
「懐剣を抜く機会は今のところありません。いつか、試してみたいものですが」
ざわ、と取り巻き連中が下がった。それでも、ツァルドは踏み留まる。生意気だとでも言いたげだ。
けれど、リィアはこれ以上取り合うつもりはない。
「それでは失礼」
さっさときびすを返して去ったリィアを、ツァルドは恐ろしい形相で睨むのだ。
取り巻きの一人がぼそりと言った。
「何故、あの娘にこだわるのですか……?」
その途端に、その取り巻きはパァンと大きな音を立てて手の甲で頬を張られた。それは八つ当たりでしかないと皆がわかっていても、ツァルド自身にも止めることはできなかった。
「女のくせに、俺に逆らうあいつが――」
それ以上の言葉は、奥歯に噛み砕かれるようにして消えた。すでに誰も、その先を聞きたくはなかった。
※ ※ ※
翌朝。
早朝に、リィアは剣術の稽古をしようと修練場に向かった。デュークやアルバも稽古を付けてくれるのだが、それだけで満足してはいけない。自習は大事だ。教えられたことを吸収するのは当たり前なのだから、それ以上のものは自分でつかまなければならない。
ルナスの身辺は今後もっと物騒なことになるという予感があるからこそ、鍛錬を重ねるのだ。
ただ、そんな時、修練場にはすでに先客がいた。
早起きしたつもりだったので、先を越されたことに驚いてしまった。そうして、その無駄のない宙を切り裂く音から、かなりの達人であることが読み取れる。それだけの腕前を持っていても弛むことのない努力、姿勢。
その舞うように剣を振るう姿に、リィアは瞠目した。
朝陽に彼女の輝く汗が散る。リィアは憧れの存在をこれまでで最も間近で見た。軽く束ねただけの銀髪が踊る。その勇姿を自らに刻み込むように目で追った。ただ立ち尽くし、ひたすらに。
小さく息を弾ませ、一連の型を終えたアイオラは、サーベルを鞘に戻すとおもむろにリィアの方へ顔を向けた。修練場の柵の前にいたリィアに彼女は気付いていたようだ。
その淡い瞳を向けられると、リィアは緊張して上がってしまった。言いたいこと、訊きたいことは山積していたはずなのに、とっさには何ひとつ出て来ない。
「あ、あの、そのっ」
デューク辺りが見ていたなら嗤われそうな醜態だけれど、アイオラはくすりと魅力的な笑みを見せてくれた。
「君は、ヴァーレンティン中佐のところの?」
凛とした、少し低めの声が発せられた。
アイオラが自分のことを知っていてくれた。それだけで、リィアは舞い上がってしまった。
「は、はい! リジアーナ=ヴァーレンティンです、中将!」
自分でも顔が赤い自覚がある。けれど、アイオラは耳に優しい笑い声を立てただけだった。
「そう。ヴァーレンティン中佐が娘が軍に入ったと嘆いていたよ」
女性らしいという話し方ではないけれど、それもまた素敵に思えた。
「父は心配性なんです」
こうしてアイオラと話せるネタになってくれたのだから、父の心配性にも今は感謝しよう。
「それはそうだろう。軍に入った娘を心配せぬ親はいない」
と、アイオラは苦笑する。リィアは、バクバクと高鳴る胸を押さえ、思い切って言った。
「でも、わたしはアイオラ中将のようになりたいのです。女性でも、男性に負けずに強く生きて行けるように。中将はわたしの憧れなのです」
まるで異性に告白する時のような勇気を出したというのに、アイオラの反応はリィアが予測したものとはまるで違った。彼女の顔から表情というものは消えてしまっていたのだ。
リィアは呆然として、自分の言葉を思い起こす。何か失礼があったのだろうか、と。
すると、アイオラは苦々しい笑みを浮かべた。
「私のように、か。ならぬ方がよいと思うが」
「え?」
アイオラは修練場の中央からリィアの方へと歩み寄る。そして、柵を開いて外へ出ると、リィアの正面に立った。
「私はね、二十三歳の頃に離縁されたのだよ。子が産めなかったからね」
突然の彼女の過去に、リィアはなんの言葉も返せずに長身のアイオラを見上げた。過去は過去と割り切りながらも、深い傷であると表情が物語っている。
「実家に戻るも居場所はない。そんな私が生き抜くためにどうあるべきであったのか、選択肢はそう多くなかった。軍に入り、死に物狂いで鍛錬を重ね、今の地位にある。……君は私に憧れていると言うが、私は男性に負けたくないがために軍人であるわけではない。成り行きだ。すまないが、君の憧れは虚像だよ」
「あ、あの……」
頭が働かないままに口を開いた。そんなリィアのことを見抜いていたのか、アイオラは言う。
「君は私のようになりたいと言ったが、私は君の方がよほど羨ましいな。君は軍人としても女としても生きられる。選び取れる未来がある。私が君ならば、軍人などという選択はしない。それだけは確かだ」
ひざが震えた。足もとが急に覚束なくなる。
頭が、真っ白になった。
そんなリィアを、アイオラは困った風に優しく見つめる。
「勘違いのないように言うが、何も私は君が相応の覚悟を持って、本気で軍人を志すのならそれを否定するつもりはない。すべてを捨ててでも選び取るのなら、その意志は賞賛に値する。けれどもし、君が想う男性を見付けたのなら、その時は軍を退くという選択もあるのではないかな?」
「わたしは……」
「気を悪くしたならすまないが、君を心配する中佐を知るからこその老婆心だ。では、失礼するよ」
颯爽と去るその背を、リィアはぼんやりと見つめた。
理想を押し付けて、本当の彼女がどんな人物であるのかに目を向けられていなかった。嫌な思いをさせてしまったのはこちらの方なのに、それでもアイオラは優しかった。笑顔を見たのも初めてで、もっと厳しい人だと思っていた。何から何まで、思っていたアイオラとは違った。
けれど、アイオラの生き方にリィアは幻滅したわけではない。傷付いても前を向く姿勢は、やはり素敵な女性だと思う。
だからこそ、そんな彼女に向けられた言葉を考えずにはいられないのだった。




