〈3〉幸せなこと
リィアは優しく微笑むルナスが心配で仕方がなかった。
どんな風に自然に振舞っていても、心の中には常に妹姫に対する謝罪でいっぱいなのだ。何度か面会に足を運んだけれど、結局顔を合わせることすらできなかったという。
妹姫パルティナ王女は、ルナスの心に深い傷を付けるためにメーディに命を狙われた。レイルによって救われたものの、幼い姫の心にはメーディの狂気がルナス以上の傷となってしまったのだ。声を発することができなくなり、あの明るかった姫は笑顔をなくして部屋に閉じこもる毎日なのである。
心因的なものとはわかっていても、誰も何もしてやれない。
ルナスがどれだけ気に病んだところで、ルナスの顔を見ては姫はあの惨劇を思い出しては取り乱すのだ。姫の護衛のカルソニーが、そのたびにルナスに詫びながら退出を願う。
何もできないどころか、何かをしようと思えば思うほどに姫を苦しめてしまうのだ。
どれだけ姫を可愛がっていたかを知るからこそ、リィアはそれが堪らなく悲しかった。
こうして皆でいる時は笑っているけれど、一人になると打ち沈んでいるのだとすぐに推測できる。だから、本来であれば一時でも一人にはしたくないのだ。うっとうしいと怒られるほどにそばにいたいと思うけれど、そうもいかないのである。
それでも、ルナスを支えることをリィアは自らに課している。絶対に、メーディの思惑通りになんてさせない。メーディの亡霊になんて負けない。
稽古で流した額の汗を拭いていると、何かご機嫌なアルバが戻って来た。デュークも首をかしげている。
「なんだ? 何かいいことでもあったのか?」
すると、アルバはくすりと笑った。
「いえ、少々面白い方がいらっしゃったもので」
「面白い方、ですか?」
きょとんとしてリィアが訊ねると、アルバは更に笑いを噛み殺していた。
「普段は有能なのに、男親ってのはな」
それは一体、とリィアが再び口を開きかけた瞬間に、ざわざわと使用人たちの騒がしい声がした。その声の不穏な響きに、皆が一瞬で気を引き締める。そうして振り向くと、そこには淡い色が凍て付くように鋭い、そんな目をした王子がいた。
ルナスのすぐ下の弟、コーランデル。弟とは言っても同年であり、背丈はほぼ変わらない。けれど、線の細いルナスとは対照的に、両手持ちの剣を扱う腕は逞しく感じられた。
「コーラル……」
ルナスがその名を呼ぶと、コーランデルはまるで唾棄するかのように表情を歪めた。王族でありながらも、護衛など必要としない腕前を持つコーランデルは、ただの一人でそこにいた。
怒りから、絞り出すように呻くように声を出す。
「パールのことを聞きました」
パルティナ王女はこのコーランデルと母堂を同じくする。そうでなくとも、姫は三人の兄王子にそれぞれ可愛がられていた。その妹の異変を知り、護衛のカルソニーを問い質して事実を聞き出したのではないかと思われた。
そうして、ルナスのもとへやって来たのだ。
コーランデルは感情に頬を引きつらせ、獣が牙をむくように言い放つ。
「兄上がっ! あなたがしっかりとファーラーのことを見極められていたのなら、パールはあんな目に遭うことはなかったのです!」
その声の重さに、リィアはびくりと体を震わせた。けれど、ルナスはその責め苦を予期していた様子で、顔色ひとつ変えずに佇んでいる。そんなルナスの様子が、コーランデルには我慢ならなかったのかも知れない。
「兄上は次期国王としての自覚がおありではない! 家臣の胎のうちを見抜こうともせず、気に入っているからとそばに侍らせる。それが王として相応しい行いですか!? 自らの不覚で兄上が失脚するのだとしたら私から申し上げることはありません。けれど、パールは、あの子に罪はない。あの子を兄上の犠牲になどしないで頂きたい!!」
彼に目をかけられ、何度も引き抜きの打診を受けているアルバでさえ、ここまでコーランデルの感情的な姿を目にしたことなどないのではないかと思われる。アルバも間に立つことはできず、その場で静かに見守るばかりである。デュークもまた、ここで庇い立てすることをルナスが望んでいないと思うからか、何もせずにいた。
上官二人がそうであるのだから、リィアに何かができるはずもない。ただコーランデルの怒気にあてられて青ざめるだけであった。
ルナスは、そんなコーランデルに弁明などする余地もなく、ただひと言詫びた。
「すまない」
すると、コーランデルは更に険しい目をルナスに向ける。
「私に謝ったところでなんにもなりません」
そして、青い外衣を翻し、その場を立ち去るのであった。
沈痛な、張り裂けそうな空気を一蹴したのは、唐突に供廊の屋根から降って来たレイルであった。
「ヒッ!」
あまりに唐突で、リィアは思わず悲鳴を上げたけれど、当のレイルはその高さをものともせずに軽やかに着地するのである。
「そんなところで聞かなくてもいいだろ」
呆れて言ったデュークに答えるでもなく、レイルはコーランデルの去った方角に首を向けながら、失笑気味に言うのであった。
「当たるところがあるやつは幸せだよな」




