〈19〉裏切り
「――レイル?」
再び、メーディが問う。レイルは、自らが師事する文官に向けて言った。
「どうして、とお訊ねしてもよろしいですか?」
その声は、はっきりと澄んでいた。ボソボソと消え入りそうに喋るレイルの声とは思えぬほどに。
強く詰問する声は続いた。
「何故、パール様にこのようなものを……」
メーディは、小首をかしげて眉を跳ね上げた。
「このようなもの? 私のいれた茶はいつもと同じだが。どうしたと言うんだい、レイル?」
笑っている。
メーディはいつもと変わることなく笑っている。
「そうですね、確かに同じ茶ではあります。けれど、パール様のカップに茶を注いだ瞬間に、僅かながらに異臭がしました。すぐに甘く強い芳香に紛れてしまいましたけど、間違いありません」
その異臭とは、言うまでもなく彼女を害するものであるのだろう。パールはあまりのことに声もなく、カタカタと小さく震え出した。それでも、メーディは笑っていた。
「言い逃れなどできませんよ」
鋭く言い放ったレイルに、メーディは好々爺然とした笑顔を向けたままでいる。その表情のどこにも曇りなどなかった。
ルナスは、眼前で繰り広げられているやり取りにまるで現実味が湧かなかった。けれど、次の瞬間には冷水を浴びせられたような衝撃が走る。
「言い逃れ? おかしなことを言う」
少しも恥じ入るところなどないかのような口振りだった。メーディは優しく慈しむような瞳をルナスに向ける。
「私はずっと、この瞬間を待っていたのですよ」
「メー……ディ……?」
震える唇でルナスがその愛称を呼ぶと、メーディは嬉しそうに微笑んだ。
「なんと心地よいのでしょう」
「な、何を……」
デュークも愕然として立ち尽くしていた。メーディの、クスクスクス、と神経を麻痺させるような笑いがその場に充満した。メーディはルナスに向けて、彼だけに向けて言う。
「ルナス様、私があなた様のために茶をいれ始めたのはいつの頃であったのか、覚えておられますか?」
ルナスの唇は色を失い、顔も蒼白であった。そんなさまを、メーディは愛おしそうに眺めている。
「私がまだ幼い頃……だった」
その言葉に、メーディはゆったりとうなずく。
「十年ですよ。十年前から私はルナス様に茶をいれ始めたのです。試しにいれてみた、私の決して美味くもない渋い茶を、ルナス様は美味しいと言って飲んで下さいましたね。あの時、私は喜びに打ち震えました」
恍惚と、微笑む。
いつもその笑顔に癒された。よりどころであった。
その笑顔を恐ろしいと思ったことなどない。けれど今は、その微笑がどんな憤怒の形相よりも耐え難く感じられた。
「ああ、この方は私を心から信頼して下さっているのだと」
「もちろんだ。私はいつ何時もメーディを信じていた。優しく見守ってくれるメーディのことを……」
その声は悲痛に響く。けれど、その声に顔を歪めたのはメーディではなかった。それ以外の者たちである。
「私の出したものであれば、ルナス様は疑うことなく口にされる。例えそれが毒であったとしても。――私がルナス様のお命を握っている。茶をいれるそのつど、私はそう感じていたのですよ。だから、私はルナス様に茶をいれる喜びを覚えたのです」
けれど、とメーディは愕然とするルナスに言った。
「私にも次第に欲が出て来てしまったのです。私がもし、ルナス様に毒を盛ったとしても、ルナス様はそれと気付かずにお亡くなりになる。それは私にはとても虚しいことに思えてしまいました。それならば、ルナス様のお命を奪うよりも、その清いお心に深い傷を付けてみたい、と」
大きく手を広げ、天の言葉を拾うようにメーディは告げる。
「信頼していたはずの私が、あなた様の大切な方を害する。これはルナス様にとって何よりの衝撃であり、苦痛であるのではないか――ふと、そう思ったのです。私がパール様を殺害したという事実を知った時のルナス様の苦悩を想像するだけで、私はその時が待ち遠しくて仕方がなかったのですよ」
パールはガタガタと大きく震え、そのまま力が抜けてしまったのか、椅子の上に崩れ落ちた。幼く無邪気な心には到底受け入れることのできないこと――。
それでも、この場はメーディの独壇場であった。
「ルナス様――私のお育てした、大切なルナス様。お優しいルナス様。夢見がちなルナス様。その苦しげなお顔が見たかったのです」
名を呼ぶ声に、執着がある。ぞくりと背筋が寒くなるほどの。
「ほうら、現実とはかくも無情なものでしょう? それだけは嫌だと叫んだところで、現実は厳しいものなのです。あなた様が夢見る理想など、叶うはずがないではないですか」
微笑む。けれど、その笑顔は今までと同じだというのに、すでに薄暗くしか感じられない。
メーディに何があったのか。何が彼を歪めたのか。
廉直なその人柄が、緩やかに蝕まれ、笑顔の下で狂気を孕んだ。長い時をかけて完成したその想いは、泥沼のようにルナスの心を絡め取る。
これを裏切りと呼ぶのだろうか。それすら、わからない。
けれど、皆が同じ時に同じ夢を追った中で、メーディだけはそれを叶うはずがないと嗤っていた。それこそが、何よりの裏切りであったように思われる。
ですから、とメーディは不意にテーブルの上のケーキサーバーを握り締めた。そこで皆がハッと息を飲む。
「今度は叫び声を聞かせて下さいませ」
ナイフのように煌くケーキサーバーが振りかぶられた先には、力が抜けて動けなくなったパールがいる。
「止めてくれ!!」
ルナスは必死に叫んだけれど、その程度でメーディは満足などしなかった。顔を庇うように腕を上げたパールの、幼く甲高い悲鳴が空気を劈いた。




