〈16〉優しさは時に
「ルナ兄様!」
ノックもなしに、パールは白い頬を紅潮させてルナスの居室へと駆け込んだ。姫君としては元気のよすぎる音を立て、パールは慌てて扉を閉める。
中にいたのは、この部屋の主であるルナスを待つメーディとレイル、文官の二人である。パールの様子に二人は目を白黒させた。
「パール様?」
メーディが声をかけると、扉を押えていたパールは叱られた後のような顔をメーディに向ける。
「メーディ? ルナ兄様はいないの?」
ルナスはあまり外出をしないと誰もが思っている。だから、この不在がパールは心底不思議そうだった。常にいるはずの場所に、当のルナスがいないのだから。
レイルはちらりとメーディを見遣ったけれど、メーディは穏やかな顔を崩すことなく、優しくパールに告げるのだった。
「ルナス様は少々席を外しておいでですが、そのうちに戻られると思いますよ。それよりも、パール様はどうなさったのです? そんなに息せき切らされて……」
乱した髪を手ぐしで整えつつ、パールは可愛らしい仕草でその場から二人を窺う。そして、おずおずと言った。
「だって、刺繍の時間なんだもん」
「は?」
メーディが思わず声を漏らすと、パールは一度口を大きく曲げてからまくし立てる。
「シーリン先生って、すごく細かいんだもん。ちょっとずれただけでやり直しやり直しやり直しって! か、課題の分も終わってないのに会えるわけないじゃない! なのにカールはわかってくれないし!」
カールとは、カルソニーというパールの護衛である青年のことだ。自分の味方をしてくれなかった彼にも腹を立てている様子だった。
ただ、課題をこなしていない上、指導が厳しいという理由で嫌うのでは、彼も庇いようがなかったのだろう。あまりに常軌を逸脱した指導でもない限り、口など挟めないのだ。彼の困った様子が目に浮かぶ。
そしてパールはカルソニーの隙を突いて独りで抜け出して、優しい兄のもとへと逃げ込んで来たのだ。ただし、その兄は不在であったのだけれど。
メーディはその可愛らしい逃走劇にコロコロと笑った。当の本人にとっては真剣そのもので、笑い事ではないのだが。
「けれど、その教えを修められた時、パール様は更に素敵な女性になれるのですよ」
そんな老官の言葉に、パールは頬を膨らませる。
「刺繍なんてできなくても素敵な女性はたくさんいるわ。それくらいならば剣を取って馬を駆って……その方がこの国の姫としては相応しいと思わない?」
メーディとレイルは思わず顔を見合わせた。
「まるでどこかのご令嬢のようなことを仰いますね」
と、レイルは笑ってしまった。当の本人は今頃くしゃみのひとつでもしているかも知れない。
クスクスと笑い声を立てた後、メーディはパールに皺に埋もれた小さな目を向けた。
「では、匿って差し上げましょう」
そのひと言に、パールは顔を輝かせた。
「ほんとう? ありがとう、メーディ!」
レイルは不安げにメーディを窺う。メーディは乾いた唇に指の背を押し当て、笑う。
「一度だけですよ」
「うん! メーディは優しいから好き!」
「おやおや、この老骨に勿体ないお言葉をありがとうございます」
可愛らしく飛び跳ねる姫に、レイルはやはり困惑した。
「あの、よろしいのですか? お早めに戻られた方がパール様のためには……」
パールはいいのいいの、と元気に答えて無邪気にクルクルと回った。そうしてぴたりと止まったかと思うと、人懐っこい笑顔をメーディに向けるのだった。
「そういえば、ルナ兄様がメーディはお茶をいれるのがすごく上手なんだって仰ってたわ。私もいつか飲ませてほしかったの。ねえ、いいでしょ? お茶が飲みたいわ」
メーディははいはい、と小さな我がままに答える。
「どういった茶葉がお好みですか?」
「えっと、甘い香りがするものがいいわ。ミルクが合うと嬉しい」
「了解しました」
恭しく小さな姫君にメーディは一礼すると、レイルに向かって穏やかに言った。
「レイル、私は茶を用意して来るから、テーブルのセッティングは任せたよ。それから、パール様のお相手も」
普段から手伝っているのだから、テーブルのセッティングは問題ない。ただ、パールの相手は引っ込み思案なレイルには荷が重い。ただ、メーディなりにレイルのそうしたところを改善しようと心を鬼にしていたのだろうか。
「え、あの……」
案の定どもったレイルをパールは面白そうに眺める。
そして、メーディは微笑みながらルナスの居室を一時的に去るのだった。
「…………」
うつむいたレイルの表情は、少し距離のあるところに立つパールには窺えなかった。
だから、パールは一歩、また一歩と彼に歩み寄る。




