〈5〉文官たち
「ただいま」
春の日に相応しい柔らかな微笑を浮かべつつ、ルナスは王城の一室に戻った。
ただ、このペルシ王国の王城の中で、ルナスに割り振られた居住空間は、王太子に相応しいような高みではない。
城といえば優美な建築物を思い浮かべるだろう。けれど、ここではむしろ要塞と呼びたくなるような無骨な建物である。軍事に力を入れ、華美を嫌うような風潮がこの城にも現れている。
色味や装飾の乏しい城の、いくつかに別れた棟のうちで最も奥深い場所が、ルナスのものであった。
それを不服と思うこともない王子であるため、臣も侍女たちも何も言うわけにはいかなかった。
かといって、部屋の中までが質素なわけではない。最低限の調度品はそろっている。
とはいえ、ルナス自身も装飾の激しいものが好きなたちではないため、シンプルなものが多いのだが。深海のような色合いの絨毯の上でまず目を引くのは、真っ白なテーブルクロスのかかった大きな円卓。それにそろいの椅子。余分なものはほぼない。
「お帰りなさいませ」
好々爺としか言い表せない風貌のメーディは、皺だらけの穏やかな笑顔をルナスに向けた。白髪の上に上品に乗った帽子は文官としての位を表す。
「お帰りなさい、ルナス様」
メーディのそばでおずおずと拝礼した少年は、レイルーン=ノクスという。癖のないチャコールグレーの短髪に黒い瞳、黒縁の眼鏡という出で立ち。文官として出仕し始めたばかりなのだが、彼は真面目そのものである。見習いであるために位はなく、帽子も被ってはいない。簡素なローブ姿だが、常になんでも書き取れるように白紙の冊子を抱えている、勤勉な少年だ。
「ああ。レイル、ただいま」
ルナスがにこりと微笑むと、レイルは恐縮してうつむいた。彼がここに馴染むには、まだ時間がかかりそうである。
「茶の支度は整っておりますよ。如何ですかな?」
メーディのその一言に、戻った三人は破顔した。
「さっすがメーディ殿! ルナス様のことをよくわかっておられる」
デュークはいそいそと重厚な椅子を引いた。主の席である。
「ありがとう」
ルナスは優雅な所作で腰を下す。そこへメーディが茶をカートに乗せて運んで来た。レイルもそれを手伝い、ティーセットをテーブルの上に広げる。本来であれば軍事会議ができそうな机なのだが、今は憩いのひと時であった。
「いい香りだね。これは、林檎かな?」
メーディが厳選した陶磁器のティーカップに注がれた紅茶の湯気が香る。ルナスが首を向けると、メーディーは微笑んでうなずいた。
「左様でございます。林檎の実と葉で香り付けした紅茶です。それから、干し葡萄のスコーンと棗の蜂蜜漬け、アニスクッキー、簡単なもので恐縮ですが」
「十分だ。ありがとう」
「メーディ殿は侍女泣かせですな。彼女たちの仕事をそうしてすぐに取ってしまわれる」
くくく、とデュークが笑う。確かに、文官でありながら給仕のようだ。そんな自分をわかっているのだろう、メーディは苦笑した。
「メーディ殿以上の仕事をすればいいのですよ。しかし、隊長は茶葉の違いなど、いつになってもわかりそうもありません。せっかくの茶が勿体ないと言わせて頂きましょうか」
ぐ、とアルバの言葉に詰まるデュークだったが、その場にクスクスと笑いが起こる。主やメーディを睨むわけにも行かず、結局その視線の先はレイルだった。レイルは慌ててメーディの陰に隠れる。
「さあ、頂こうか」
こうした何気ない日常。
けれど、何気なく平穏であるのはこの空間だけなのかも知れない。この国は五年前から、例えるならば沈み行く太陽なのだ。
五年前、子供だったルナスに、あの決断を止めることなどできなかった。のどを潰すほどに叫んでも、何ひとつ聞き入れられなかった。
決定事項だと告げられた。ただそれだけのことであった。
アリュルージに対する武力干渉が、その他の国からも信頼を失うきっかけとなることが、父王にわからなかったはずはない。
それなのに、恐れてしまったのだ。
内戦の続くシェーブルを隣国レイヤーナが落とし、最大の国となって頂点を取る未来を。
諸島一の国力を持つと自負していた自国が虐げられる行く末を。
そのために、アリュルージを手に入れようとした。
そうして、目論みは崩れ去り、父王は国民の王室離れを引き起こしたのだ。
敗戦は、民の心を折った。
アリュルージへの賠償を終えた今となっても、それは変わりない。
諸島一の国であると自負していたのは、国民も同じなのだ。最も強い国の民であることが誇りであったのだ。
軍事のみに頼るこの国において敗戦がどれだけのことであるのか、皆が理解できぬまま性急にことを進めた。
それは、小国家アリュルージに対する侮りが生んだ、自らの隙である。
負けるはずがないからこそ、負けた時のことなど考えられなかったのだ。
その驕りが今になって国を蝕んでいる。
こうして皆で楽しく笑い、穏やかな時を過ごしている瞬間でさえ、ルナスはそれを考えずにはいられないのであった。