〈3〉美しき盾
その声が届くほどに間近で王子を見たのは初めてのことだった。
『美しき盾』とささやかれるのも仕方がない。そう、リィアは思ってしまった。
陽光を受けて艶やかに輝く濡れ羽色の髪は、肩口で緩く束ねて前に垂らされている。長いまつげに縁取られた瞳は、若い緑色。その煌きはぺリドットを思わせる。
軍事国家の王太子とは思えぬような優美な立ち姿。ほっそりとしたその体にはどんな武器も似合いそうにない。確かに、男性としては美しすぎるくらいだけれど、その麗姿にどれほどの価値があるのだろう。
猛々しさとは対極のこの王子の姿に、リィアでさえも不安を覚えた。
ツァルドはようやくリィアの肩から手をどける。王子の方に向き直り、恭しく拝礼するけれど、その仕草はどこか道化じみていて敬意など感じられなかった。声にも侮蔑が滲む。
「これはこれは、王太子殿下。同期の者同士、親睦を深めていたところですよ」
その態度に、王子は顔色ひとつ変えなかった。けれど、その傍らの武人が露骨に顔を歪める。眼帯で右目を隠した二十代半ばの男だ。長身に中途半端に長い灰色の髪をしている。
もう片方の青年も同世代だろう。こちらも長身で、栗色の短髪に黒い瞳、凛々しく締まった顔は微笑を保っている。何を考えているのかが読めない。
ツァルドはリィアを振り返ると、なあ、と同意を求めた。
告げ口できるのならばしてみるといい、とでも言うのだろう。
この場でこの王子に泣き付いたところで、所詮はその場しのぎにしかならない。自分は、守られるためにここへ来たわけではない。
だから、結局は何も答えられないのだ。
ぐ、と唇を噛み締めたリィアに、王子のまっすぐな瞳が向けられた。ぺリドットの輝きに、思わず体が硬直してしまう。
その瞳は、奥が深かった。簡単に見通すことなどできないのに、驚くほどに澄んでいる。
この瞳に見つめられ、平然としていられる人間などいるのだろうか。
なんとも言えずやましい気持ちになって先に目をそらしてしまいたくなった。けれど、それをしてはいけないと思う気持ちが勝り、リィアはなんとか耐えた。
すると、王子は供を置いて颯爽とリィアたちの方へ歩み寄る。王子を侮るツァルドたちでさえ、王子がそばへ近付くと緊張を滲ませた。所詮、粋がっていても根は小物であるのだと、リィアはどこかで冷え冷えと思った。
「親睦を深めるのもよいだろう。けれど、行過ぎてはいけない。君たちがそのつもりであっても、この者がそう感じたかは別なのだから」
美しい声でそう言った。
その風貌と同じように、争いを好まぬのだろう。優しいその心根を、助けてもらったというのにリィアは素直に賞賛できなかった。
この国にとって、この王子のそうした温和な気質は果たして善であるのか、それとも悪であるのか――。
小さく、笑いが起こった。
「ええ、ええ、そうですね。以後、気を付けましょう」
表向きだけでツァルドは答えた。
そうして、王子は立ち去るかに思われた。けれど、そのツァルドの言葉を信じなかったのだろう。
外衣をさっと払うと、腰帯に挿してあった懐剣を引き抜く。金細工の鞘と柄にびっしりと装飾の施された、実用的とは言いがたい代物である。王子の瞳と同じ緑色の宝石がちりばめられている。
ツァルドたちはぎくりと顔を強張らせた。軟弱だと噂される王子ではあるが、仮にも王太子である。不敬だと手打ちにされたとしても文句は言えない。
この王子に限ってそんな決断はできないと思うからこその態度であったのだ。
リィアは、ツァルドの肩に微かな震えを見た。
ことの成り行きを見守っていたリィアに、王子は問う。
「君の名は?」
「リ、リジアーナ=ヴァーレンティンと申します」
それを聞くと、王子は鷹揚にうなずいた。
「やはり、あのヴァーレンティンの息女か」
「は、はい」
そうして、王子は白手袋の手で懐剣を鞘ごとリィアに向けて突き出した。
「これを君に与えよう」
「え……」
ざわりとツァルドたちが声を上げる。王子は彼らのことなど目に入らないかのように、ただリィアを見つめていた。
断ることなどできるはずもなく、その意味もわからないままにリィアはその懐剣を両手で押し頂く。
その頭に、王子の凛とした声が降る。
「この懐剣は我が意思と同義である。この剣によって傷付けられし者は、私への反意を抱く者として処罰致す。その旨を忘れることなきように」
この言葉は、リィアにではなく、ツァルドたちに向けたものであったのだろう。結局、ツァルドたちはそれ以上何かをできるはずもなく、ただその場を去るのだった。
それを見届けると、王子もリィアに背を向けて供のもとへと向かう。
取り残されたリィアは一人ぽつりとその場に立ち尽くした。ただ、下賜された懐剣の重みだけが、今の出来事が白昼夢ではないのだと語っている。
ぺリドット【peridot】
橄欖石。透き通った黄緑色をした宝石ですね。