〈5〉自らのためでなく
つい先月、このペルシ王国中央のトリニタリオ領で、商人たちの馬車から積荷を剥奪するという盗賊騒ぎがあった。その盗賊は、王都近くの貧民窟ウヴァロの者たちであり、ルナスは豪商スピネルの協力のもと、彼なりの解決をしたのだ。
気の利くスピネルは、その後のウヴァロの状態と立ち上げた事業の経過をこまめに報告してくれている。
「スピネルに任せておけば安心なのだが、また折を見て私もウヴァロへ行こうと思う」
キィン、と剣を弾く金属音が響く。芝生の上で、リィアはルナスとの会話に集中したいのに、正直なところ気が気ではなかった。
何故なら、眼前で繰り広げられているデュークとアルバの稽古のせいである。当たり前のように真剣を使っている。それなのに、その打ち込む速度は尋常ではなかった。
なのに、ルナスは平然とそれを眺めながら世間話をしている。もしかすると慣れているのかな、とリィアは思うのだが、どう見ても防御一辺倒のデュークの顔にゆとりがない。
容赦なく剣を閃かせるアルバの表情は、ほぼ無であった。それがまた怖い。
以前、デュークやアルバに稽古を付けてもらったことがあるのだが、二人とも相手がリィアなので手加減をしていた。加減を必要としない相手となると、こうも違うのかとリィアは密かに身震いする。
きっと、ルナスに稽古を付ける時とも違うはずだ。
そろりとルナスを見遣ると、そこにはいつもの穏やかな微笑がある。最初は苦手だったこの美貌も、ルナスのことを少しだけ知った今は心が落ち着く。
リィアはぼそりと不安を口にした。
「ウヴァロに行かれると……その、大丈夫なのでしょうか?」
ルナスはくすりと笑った。
「私がジャスパーを連行したことを、住民がよく思っていないから?」
「……はい」
ジャスパーとは、ウヴァロのまとめ役であった男だ。ルナスは積荷強奪の件を収めるため、ジャスパーを代表として投獄するという処置を取った。ウヴァロ全体を救うための処置である。
そこはジャスパーも納得の上でのことなのだが、人の心というものは厄介だ。ウヴァロの人々も、その処置は優遇されていると言えるほどに軽いのだと知りつつも、どこかで不満は抱えている。
それはひとえに、ジャスパーが皆に慕われていたからなのだろう。
大人たちは口にこそ出さないが、子供たちはそうではない。
身分を明かしたわけでもなく、彼らはルナスをやや位の高い軍事関係者程度に捉えている。罵声を飛ばしただけで首が飛ぶような相手だとは知らないのだ。
それでも、ルナスはまだ身分を知らせるつもりもないのだろう。
だから、そうした負の感情を向けられることになるルナスを、リィアは少し心配したのだ。
けれど。
「人々が不満を口にできるのならば、まだ救いはある。私はそう思うよ」
穏やかながらに、決然とした口調だった。
何も言えず、死んだような目をしてうつむく民たちの姿こそ、ルナスには耐え難いものであるのだろうか。それくらいならば批判も受けよう、と。
リィアは思わずつぶやいていた。
「ルナス様はお強いですね」
信念を持ち、周りに流されることなく国を、民を想っている。
その心は、リィアには到底計り知ることのできない深いものであるように感じられた。
けれど、その一言にルナスは苦笑する。
「人はね、自分のためにはなかなか強くなれないのではないかな」
「え?」
「弱い自分を守るために強くなることは難しい。弱い誰かを、守りたい誰かを守るために、人は強く在れるのだと私は思うから」
弱い自分だったなら、守ってほしいと願ってしまう。救ってくれる誰かを待ってしまう。
けれど、弱い者が目の前にいたのなら、自分が守らなければと思うだろう。
確かに、人とはそうしたものかも知れない。
そんなリィアの思考に、ルナスの言葉が割り込む。
「君が――」
「はい?」
「君が、お父上や家のために入軍を決意したこともそうであったのではないか?」
「あ……」
男兄弟のいないリィアの家が、父に続く軍人を輩出することができず、国へ貢献できていないとささやかれていたことをルナスは知っていたようだ。だからこそ、自分が役に立たなければと肩肘を張っていたリィアを気に留めてくれていたのだ。
深く考えもせず、ルナスの気遣いを疎ましく思った自分が、今は恥ずかしい。
頬を染めてうつむいたリィアの方を向かず、ルナスは遠い目をして続けた。
「誰かのために強くなろうとする心を持つ者は多い。デュークやアルバもそうだ。コーラルも、そうなのだよ」
デュークやアルバは主であるルナスのために。
だとするのなら、コーラルは――。
『諸刃の剣』と称される、冷酷な王子が何を想うのか。
「コーランデル王子は、一体誰のために?」
おずおずと訊ねたリィアに、ルナスは再び顔を向けた。
笑顔を絶やさないルナスの心は、やはり奥が見通せない。
「――無辜の民、かな」




