〈4〉大会開始の裏側で
リィアはその日の夕刻、自室へ戻るために兵舎に向かっていた。彼女の部屋は他の兵たちと分けられてはいるのだが。
ほぼ唯一と言っていい女性であるがための配慮だった。リィアのためばかりではなく、軍の秩序のためとも言える。
ただ、そこへ向かう途中で他の兵たちに出くわすこともある。それでも、同期の兵士たちのほとんどがリィアに声をかけることはない。かけるとすれば、同じデュークの配下である隊員くらいである。彼らはルナスの居住棟の中にまで入ってくるわけではないが、周囲の見回りや警備を担当しているのだ。
その他の兵たちがリィアに声をかけない理由は、リィアの背後にルナスの威光がある――皆がそう思っているせいだろう。
ルナスはリィアに懐剣を下賜し、その剣に傷付けられた者は王太子である自分への反意があるものとして処罰すると触れたのだ。
事実はわからない。本気で処罰するというよりも、脅し文句でしかないのかも知れない。リィアもそう簡単にこの懐剣を抜くつもりはなかった。軽はずみに使わないと感じたからこそ、ルナスは懐剣を与えてくれたのだと思う。
初めはその特別扱いが嫌で仕方がなかった。自分は軍人になったのであって、守られるためにここへ来たのではない、と。
けれど、今となってはルナスの配慮を少しはありがたく感じている。
守られる自分は好きではないけれど、面倒な諍いを回避することができているとは思うから。
それでも、この日はリィアが最も苦手とする人物に遭遇してしまったのだ。
リィアと同期のツァルドという男だ。クリオロ領のルーメル伯の子息で、その身分から鼻持ちならない態度を取る。周囲には常に二人以上の取り巻きがいることも、リィアにとっては軽蔑の理由である。
「おい、お前!」
呼び止められたけれど、リィアは立ち止まらなかった。すると、ツァルドの取り巻きがリィアの行く手を塞ぐ。ただ、ルナスの懐剣が恐ろしいのか、リィアに触れることはない。
リィアは背後からゆとりを見せ付けるかのように遅々とやって来たツァルドを振り返る。睨みを利かせると、ツァルドは歪んだ笑みを見せた。
「呼ばれたら返事くらいはしろよ」
「呼ばれた覚えはありません。わたしは『お前』ではありませんから」
はっきりとした口調で返すと、それでもツァルドは自分を大物に見せようとするのか、怒鳴り付けることはしなかった。
「フン、まあいい。お前の上官も武術大会に出場するんだろう?」
そういえば、彼の配属先はどこだっただろうか。確か、海軍の方だったとは思うけれど。
「ええ。それが何か?」
「あの軟弱王子の護衛に相応しく、日々ティータイムに勤しんでいるのだから、剣のように重いものを持って大丈夫なのか?」
あはは、と取り巻きの追従が聞こえる。
この連中は懲りないな、とリィアは嘆息した。
「それなら、あなたの上官はどうなのです? そこまで仰るのならもちろん優勝されるだけの実力はおありなのですよね?」
嫌味のひとつも返してやりたくなった自分は、まだまだ子供っぽいと思いながらも、気付けば口からこぼれていた。ツァルドは頬をヒクヒクと動かす。
「上官? あの使えない男が優勝なんてするはずがないだろう。規則で俺が出場できない以上、誰が優勝するかなんて知ったことか」
実力もないくせに大口を叩く。規則に守られてホッとしていることくらい、リィアには透けて見えた。
「使えないとはあんまりですね。上官を敬えない部下を持ったその方に同情してしまいます」
すると、ツァルドは顔色を変えた。
「何故俺がロヴァンスの下に……! こんな屈辱があるか!」
ロヴァンス。
つまり、このツァルドのルーメル伯爵家と同列のロヴァンス伯爵家。どちらもクリオロ領であるのだが、実績ではルーメルはロヴァンスに敵わないのである。
ロヴァンス家当主は海軍中将、ルーメル家当主は隠居した身なのだ。両伯爵は先の戦いでアリュルージへ向かい、貢献したとの話だが、やはり同格には扱われていない。
そこでふと、リィアは気付いた。
「もしかして、あなたの直属の上官はロヴァンス伯のご長男ですか?」
アルバの兄、確かエルナと呼ばれていた。
ツァルドは心底憎らしげに声を発する。
「だったらどうだと言うんだ?」
「……いえ、別に」
リィアの上官がその弟だと知っているのかはわからない。ただ、下手なことを口にしない方がいいと思えた。
まだ一度も会ったことはないけれど、アルバの兄に対し、こんな不良部下を持って気苦労が堪えないはずだと同情してしまった。
アルバに優勝してほしいと思う反面、その兄にも大会で勝ち進んでツァルドを見返すことができたらいいと思う。両方は並び立たないとわかっているけれど。
大会にはたくさんの思惑がひしめく。
開催はまだ少し先だけれど、当分はどこもこの話題で持ちきりなのではないだろうか。
では、失礼致します、と愛想笑いひとつ浮かべずに去ったリィアの後姿を粘着質に眺めるツァルドに、取り巻きの一人がぼそりと言った。
「あまり、あの娘に関わらない方がよいのでは……」
けれど、ツァルドはその声さえ耳には入っていなかったのかも知れない。ただ、じっとリィアが去った方角を見据えている。その視線の暗さに、取り巻きの二人は微かに身震いした。




