文旦
彼女が座卓に置いたそれはグレープフルーツによく似ていて、けれどあの硬質な黄色よりも透明感があった。
「何それ」
「文旦」
ナイフを片手に、座卓にチラシを広げながら彼女は端的に答えた。耳慣れない名前に首を傾げる。
「故郷の果物なの。懐かしくて」
ナイフをチラシの上に置いた彼女はその「文旦」を取り上げ、両手で包むようにして撫でた。重たげに見えるそれはきっとひんやりとしているのだろう。
そして片手でナイフを持ちおもむろに切れ目を入れる。十字の切れ目が分厚い皮にぱくりと開く。外皮の層だけに切れ目を入れた彼女は、そこに両親指を差し入れ力を込めた。鈍い音を立てながらゆっくりと皮が裂かれる。微かに漂っていた香りが俄に強くなる。柑橘類特有の、青く清々しい香り。それもまだ自分が嗅いだことのない。
ごろりと開いた外皮の中から白い房の塊を取り出し一房ずつに剥いていく。その「薄皮」は明らかにそのまま食べるには分厚い。すると彼女はナイフの先で一つ一つの房に切れ目を入れ始めた。半月形の房の真っ直ぐな辺にごく浅く刃先を入れ、引く。それを全てに繰り返す。
その作業が終わったところで半分が自分に向かって押しやられた。
「はい、どうぞ」
「剥いて食べるの?」
「皮ごと食べてもいいけどもしゃもしゃするよ」
言いながら彼女は早速一つを手に取り薄皮を剥いた。艶やかで透明なごくごく薄い黄色の中身はまだ濡れていなかった。中身を傷つけることなく薄皮を裂いていたのだろう。側面の薄い部分を裏返し、小さな房が半月の形に集まった中身を前歯で軽く挟む。そして残った薄皮の底面を中身から剥がした。綺麗な形を保ったまま薄皮から取り出されたそれを頬張る。口の中で咀嚼されるまで、文旦は一切果汁をこぼさなかった。
「食べないの?」
言われて初めて、彼女の鮮やかな食べ方に見惚れていたことに気付き改めて自分の分の一つを取る。しっとり湿った薄皮を裏返すようにして剥き、剥き出しになった瑞々しい中身を歯でくわえる。そのまままだ張り付いている残りの薄皮を剥こうとする。中身を固定しようと顎に力が入る。すると文旦は呆気なく潰れた。唇を濡らした果汁は予想以上に酸味が強く、顔をしかめると彼女が笑った。
「酸っぱい?」
無言で頷き、潰れた中身を口に入れる。濡れてしまった薄皮から残りを前歯で削ぎ取る。形を保っていた小さな房の一つ一つが口中でばらばらになり、微かな弾力を奥歯に返して潰される。酸っぱいだけでなく控えめながら爽やかに甘い。
「熟したらもっと甘いかもしれないけど、私はこのくらいが好きかな。中身が綺麗に取れるくらいが」
「……綺麗に取れなかったんだけど」
「だって、あなた噛む力強いもの」
座卓に肘をついて二つ目の薄皮を剥いていた彼女は目を細めて微笑する。
「痛いのよ、噛まれる方は」
ふっと妖しくなった彼女の表情から目を逸らし、自分も二つ目を拾い上げる。今度は優しくしてあげてね、と笑いを含んだ声がかかる。彼女の肩につけた歯形を思い出す。血の滲んだ痣。自分を睨んだ濡れた瞳。あの印はまだ彼女の肩に残っている、らしい。
彼女は故郷でこの果物を今と同じように上手に食べていたのだろうか。その彼女の時間を、自分は知らない。
舐めた指は、甘酸っぱいだけでなく微かに苦かった。