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 私の兄は軍鶏を飼っていました。まだ中学生くらいの頃で、私なんかはほんの小さい子供でしたがね。二番目の兄です。うちの父親がどっかから貰ってきたんですな。それを可愛がってずっと世話をしていましたね。二番目の兄というのは何をやっても長続きしないし、第一何かに懸命に取り組むということの無い人間でしたから、私ら家族にとってそれは意外でした。その軍鶏にはクロという名をつけていました。何か犬の名前みたいですが、じゃあ軍鶏に相応しい名前はどんなかと言われても応えに窮しますな。兄はクロの飼料箱の餌や水を換えたり、飼育小屋の掃除をしたり、時には毛羽立った体をきれいに洗って梳ってやっていた事なんかもありました。兄は無口な方でしたから無表情に黙々とそれらをやってのけるのですが、淡々としたそういう動作が却って兄の気心の優しさを示していたように思われました。

 しかし先ほども言ったように、軍鶏は闘鶏用の鳥なんです。やはり飼い猫のように甘やかしてばかりいるわけにも行きません。確かにクロは見た目は彫像のように美しい軍鶏だったのです。燃える様な色のとさかと、焦げ茶と黒のしなやかに引き締まった姿態、そして小さいけれども宝石のように確かな輝きを宿した目を持っていました。しかしそれでもやはりクロは観賞用の鳥ではないのです。父は日々庭先で闘鶏としての訓練をクロに与えました。手鏡をクロの目の前に立てると、クロは鏡に向かって猛進してくるのです、鏡に向かって嘴でついばみ、蹴りを入れようとします。それをひらりと躱してまた目の前に手鏡を置くのです。その繰り返しで、まるでボクシングのスパーリングの様な事をするのですね。また訓練もさることながら、餌にも鳥の笹身を細かくしたのを混ぜたりして、タンパク質を多く摂らせるようにしました。鳥が鶏肉を食う何て共食いみたいですが、軍鶏は案外喜んで食べていた様ですね。

 そうこうしているうちに次第にクロも立派な闘鶏としての闘争本能を育んでいったのでした。大きくなるにつれて筋肉はより引き締まって、顔つきは精悍になり、何かに付けては突進して蹴ったりついばんだり、攻撃的な性格になりました。どこに出しても恥ずかしくない闘鶏でありました。

 しかしそうしてクロを闘鶏用に鍛え上げているのは大体において父でした。兄はといえば黙って、恨めしそうにそれを見ているに過ぎないのでした。そしてクロが次第に闘鶏らしくなっていくのをさも後ろめたそうな目で見ているのでした。今考えればですね、兄はクロを他の軍鶏と戦わせて傷つける様な事はしたくなかったのでしょう。出来る事ならずっと自分の側で抱いていたかったのでしょうな。戦いに負けて傷ついた軍鶏が叩き殺されるか絞め殺されるかして軍鶏鍋に変わるところは島民であれば何度と無く見ている事でしょうしね。しかしそれでも軍鶏というのは本能的に戦いを欲するようにできていますから、そうやってなで回して育てる事が本当にクロにとっての幸せなのかどうかという点では兄はいささか自信が持てなかったのでしょうし、それに当時父は家の中で絶対的な権力を持っていましたから、父の方針に逆らってまでものを言えるような立場ではなかったというのもありますね。まあ昔の家ですから、そこは家父長制というのが確固としてあったんでしょうな。

クロを飼い始めて一年くらい経った頃でしょうか、父はクロの垂れ下がった頬を切り落とさなければならないと言い出しました。軍鶏の頬はまるで頬袋のようにだらりと垂れ下がっているのですね。それを闘鶏の時に相手にくわえられては勝てるものも勝てないということで、父はそれを切り落とすという事を言い出したのでした。私を含め、家族は全員暫くの間黙ったまま何の反応も出来ませんでした。言うまでもなく父の残酷な提案にぞっとしていたのです。しかもよくよく話を聞いてみると、頬のたるみ何てあんな小さなものわざわざ手術なんてしなくても鋏で切り落とせば良いんだというような話で、私などは我が耳を疑ったものでした。動物病院とかいうものは近くにありませんでしたから父は簡単にそう言い出したのでしょうが、それにしても何故麻酔もせずに動物の体の一部を鋏で切り落としたりできるものでしょうか。しかも私達には一人として医学的な見識のある者は無く、それでクロが果たして本当に一命を取り留めるのかどうかも定かではありませんでしたが、なあにその時はその時だという様な父の態度はもはや独善的を通り越して偽悪的ですらありましたね。私はそのとき、ふと兄の顔を見ました。兄はいつものように俯いて黙っているだけでした。ただ微かに体全体が震えている様な、そんな気はしましたね。家の中で一番クロを可愛がっていたのは兄でしたから、兄を差し置いて誰も意見などしようとはしません。ですから家族のうち誰も反対意見を唱える者はいませんでした。いや、兄を差し置いて、などというのは本当は口実で、父に反対意見などする事はみんな嫌だったでしょうから、それを兄に押し付けていただけなのかもしれません。私だってそうでした。父はともかくそれくらい家族から恐れられていたのです。

 そしてそれは遂に決行されました。或る晴れた日に、父は庭でクロを捕まえて、それを兄に手渡し、クロはお前に一番懐いているのだから、お前が抑えていろ、という事を言いました。兄がクロを押さえ付けているところを父が鋏で切り落とそうというのです。今考えても実に残酷ですが、兄は手渡されたクロを抱きかかえました。懐いているとは言え軍鶏ですから、それはかなり暴れるのです。それを兄は殆ど目をつぶって、両腕で必死に抑えていました。

 父は鋏を持ち出すと、サクッと一気に片方の頬を切り落としました。クロにしてみればゆっくり切られるよりもその方が良いのかもしれませんが、それにしても父が何故そんなに躊躇も無くそれをやってのけられるのか私には不思議でした。クロはけたたましく叫び、羽や足をばたつかせて必死で抵抗していました。兄の手の甲や太ももはクロの真っ赤な血に染まりました。生暖かい、どろっとした濃い血であるのが見た目にもわかりました。が、私はその時の兄の顔を見る事が出来ませんでした。その時の兄は頬を切り落とされたクロよりも目を背けたくなる様な存在でした。ですので兄がそのときどんな顔をしていたのか私には分かりません。結局父はクロの両頬を切り落としました。父はクロの傷口を縫ってから化膿止めを塗り、これで大丈夫だろう、という様な事を言って手を洗いにいきました。あっという間の荒療治でした。兄はその後一言も発さずにすごすごと風呂場に行って血を洗い流しにいきました。私はなにか恐ろしいものを見てしまった様な気がして、庭に暫く立ちすくんでおりました。そのとき一番上の兄は学校から帰っていませんでしたし、母と妹は一緒に出かけていて家にはいませんでしたので、つまりその光景を目の当たりにしていたのは家族の中で私一人だったんですね。

 まあそれでも不幸中の幸いで、クロは無事でした。あっという間に頬の傷も治って、いつの間にやらまた元気に庭で鏡に向かって、以前よりも更に強力な蹴りを放つようになっていました。頬の脂肪が無くなっていましたので、顔つきは前よりも闘志に満ちて見えました。案外父の行いは人道的にはともあれ、闘鶏を育てる観点からすると間違っていなかったのかもしれませんね。

 その頃になると兄も父の言いつけで、クロを訓練するようになっていました。もしかしたらクロの血を浴びた瞬間に兄の中で何かが吹っ切れたのかもしれません。兄は全く迷う事無く、いや父よりもクロを愛していた分だけ訓練をやり出したら父よりも余計に熱心にやるようになりました。たまにクロが蹴りを出す瞬間に手鏡を引っ込めそびれて手の甲を引っ掻かれるので、兄の手の甲はいつでも傷だらけでしたが、兄はそれをものともしませんでした。それはクロの強さを確信する為の好材料でありましたでしょうし、またその手の甲の上をクロの熱い血が流れ落ちた時の記憶から、クロに一矢報いさせた様な気持ちになったのかもしれません。また兄は飼育小屋の掃除や餌やりや、クロの体を綺麗に洗ってやる様なこともまた前と同じように続けていました。その点で兄は父の様にただクロを粗雑に扱おうとする人とは違って、偏にクロを愛していたということです。私は兄がそのように夢中でクロの世話をしているのを見て、子供心に安心したものです。以前の闘鶏を育てるに際しての兄の葛藤が消えていると分かったからです。

 そんなある日、父が知り合いの家で飼われている軍鶏とクロを戦わせる約束をしてきました。それもいつも世話をしている兄には一言も断らずに約束を取り付けてきたのですから、呆れたものです。しかしやはり兄としてもいつまでも手鏡相手にやっているわけにもいかず、いつかは実践に踏み込まなければならないという事は考えていた様で、その約束には何ら異論を唱えませんでした。

 それで或る晴れた日、近所の公園で二羽の軍鶏を戦わせる事になったわけですが、これは結論から言えばクロの圧勝でした。相手は真っ黒な軍鶏でした。クロよりも黒いのですね。名前は忘れましたが、とにかく勇ましい名前だった気がします。目つきが鋭くて如何にも柄の悪いチンピラの様な風采でした。とても喧嘩慣れしていそうに見えました。

 丸い囲いの中に放たれた二羽がバサバサとぶつかりあうと、抜けた羽が舞い上がって、その中で殆どどこがどちらの体か分からなくなるくらいに緊密に絡み合って一塊になるのですが、そこからひょいと飛び上がったかと思うと同時に相手の体を蹴り飛ばすのです。絡み合い、あるいは嘴で相手の後頭部を突っついて屈んだ拍子に蹴りを食らわすという流れを繰り返し、遂に相手の真っ黒な軍鶏は尻尾を巻いて逃走しました。それを追いかけようとするクロを、父は素手で受け止めました。すると興奮覚めやらないクロは父の掌に食らいつき、引っ掻き傷を負わせたので、父はクロを容赦なく殴りつけてようやく大人しくさせました。

 しかしクロの勝利に、父は勿論の事、兄も大変喜んでいました。初勝利ですからね。それにさっきも言ったように、戦いに敗れて再起不能な程の怪我を負ってしまった軍鶏は叩き殺されて軍鶏鍋の肉になってしまう事もあるのです。まあ賭場で行う本番の闘鶏じゃありませんでしたからそんな事も無かろうと思っていても、やはりその可能性はゼロではありません。そういう意味で兄の喜びは安堵と言った方が良いかも分かりませんな。私もそんな兄のほっとした様な顔を見て嬉しく思いました。何だが兄はクロの件に関しては可哀想な思いばかりしていましたからね。

 しかしほっと息をついたのもつかの間、それから父は自信をつけたのか、次々に試合を取り付けてくる様になりました。初めは知り合いだとか、会社の同僚とか身内同士でやっているに過ぎませんでしたが、とうとうそれが賭場で行われる本式の闘鶏に乗り出すようになりました。勿論私はそんな所に行って戦い続けていたら、クロがいくら強いと言ったっていつかは傷ついて帰ってくる事になるだろうと気が気でなりませんでしたし、増してや兄の心中は推して知るべしです。しかしながらクロはそうした私達の心配をよそにどれだけ戦ってもおおよそ負ける事がありませんでした。いつも父の期待にあっさりと応えてしまうのです。再起不能にならない程度に一回くらい負けてしまえばまだよかったのかもしれませんが、勝ち続けていくうちに段々クロの無敗の評判は広まっていきました。もう関係者達の間では知らない者は無いくらいに。そう、それが今考えればいけなかったのです。

 前にお話しした中で、父が借金を背負った話がありましたね?そのとき兄は全く父を救おうとはしなかったとも確か言ったと思います。そしてそのわけは二番目の兄に関して言えば正しくそのクロの件にあったのです。実は私が伯父夫婦に借金のカタに取られようとする前、クロが伯父夫婦の所に取られていたのです。伯父というのが父の兄だけあってまたかなりの好事家で、クロの評判を聞くや否やクロをよこせと言ってきたわけですね。父も返済の見通しの無い借金をしている手前偉そうな事は言えませんでしたし、増して兄などはその状況で何か口を挟む事など出来る筈もありませんでした。クロが伯父に首輪を付けられて引っ張っていかれる所を、兄はどんな気持ちで見ていたのでしょう。ああこの年になっても忘れられません。あの兄の蒼白な横顔。涙すら見せずに開きっぱなしの目でクロの後ろ姿を見ていたのです。あれは表情などというものではなく、弛緩した穴ぼこみたいな目でした。

 クロがいなくなってからの兄は、父を避け続けました。兄はもうその頃高校生でしたが、大学には行かずにどこかに就職し、家を出て行きました。それから兄がどこに行ったのかとんと分かりません。家の財政を考えれば元々大学になど行ける筈も無かったのですが、もし経済事情が許したとしても、兄はそれ以上父の膝下にいたがらなかったでしょう。当然の事ながら兄は父を恨んでいたのです。

 因みにその後に私がクロに続いて借金のカタに取られそうになったのですが、先ほど話した通り私は家出をして何とか難を逃れました。しかしそのせいでクロにその分の負担が行ってしまったのでしょうか、これは後から聞いた話なのですが、クロは伯父の提案である催しに参加させられたそうなのです。その催しというのが当時流行していたアメリカ式の闘鶏で、足にナイフを取り付けて軍鶏を戦わせるという催しだったのです。恐らく蹴りあう度にナイフが彼らの体を傷つけるのでしょう、私もさすがにそれを直に見た事がありませんが、どちらかが斬り殺されるまで試合は続行されるのでしょうし、勝った方とて無傷では済まないでしょう。危険極まる催しです。しかしその分見応えはあるのでしょうから、普通の闘鶏よりも集客は見込めますし、勝った方に払われる賞金だって多額なのでしょう。恐らく伯父の目当てはその賞金だったのだと思いますが、しかしクロはその戦いに敗れ、無残にも切り刻まれ血まみれになって死んでしまったのだそうです。私は後で父からその話を聞いてそれを知ったのですが、とは言えそこにもう兄はいませんでした。この先兄に会っても、この話は伏せておく事にしようと、そう思いました。庭先でクロの背中を撫でてやっていた兄の姿がふっと蘇って、私は悲しい気持ちになりました。


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