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私の父は銀行員だったんです。いや銀行員と言っても、沖縄のある信用金庫に勤めていたのです。その父が四十を過ぎたくらいの時に、ある支店の支店長になったのです。私がまだ幼い子供の頃でしたね。どうもそこで鰹節製造業者と話をする機会が多かったと見えますな。父は融資担当でしたから、多くの中小企業の経営者と話をしていたのだと思います。父はそれまで、自分は退職したら旅館をやるとか、大家になるとかいう大言壮語を絶えず私ら家族に吹聴しておりましたが、気が付いたら父は鰹節製造業者になっておりました。私ら家族は当時八重山というところに住んでおりまして、そこは鰹節製造で有名、というより鰹節製造で何とか経済が成り立っている様なところでした。八重山列島の八重山です。本島よりずっと西側にある島の集まりですね。父は元々鰹節製造になんぞ目もくれなかったのですが、色々な人と話をしているうちに段々と触発されてきたんでしょうな。あるいは欲が出たという事なのかもしれません。そういう訳で父は鰹節製造に手を出したのです。
鰹節製造と言っても、父が手を出したのは加工会社ばかりではありませんでした。漁船で沖に出て鰹を取ってくるところから自分でやり出したのです。私も一度その漁船や工場を見に行った事があります。工場はともかく、漁船は目を疑う程ちっぽけなものでした。鰹漁といえば、殆どの人が大きな何トンもある漁船を想像するでしょう。しかし私が見たのは、まるで父が個人的な道楽のために買ったかの様な小さな船でした。事実父は朝早くから弁当を持ち、編み笠を被って船に乗り、来る日も来る日も沖へ漁に出ていましたが、一貫して一人だったようです。
しかしそれからと言うもの、父が鰹を捕ってきたという報せは一言も聞きませんでした。父は毎日手ぶらで漁から帰ってきました。その姿はとても疲れて見えました。小さな漁船や工場とは言え、ただではありません。父はそれらの設備投資をするためにいろんな方面から借金をしていました。肝心の鰹が捕れなくてはそれらの借金は膨らむばかりです。そんな事もあり、余程まいっていたのでしょう。父は私ら家族と殆ど口をきかなくなりました。母は家の隅っこでただシクシクと泣くばかりです。
私には二人の兄と一人の妹がおりました。兄達はもう独立し家を出て働いていましたが、父親を助けようなどという気概は微塵も無く、一円たりとも援助しようなどとは言い出しませんでしたし、父は父で意地を張って息子達に援助を乞うなどという事をしたがりませんでしたので、借金は返済の見込みの無いまま日に日に増えていくばかりです。私と私の妹はそんな家庭の事情を大変心細く思い、かといってまだ働きに出る様な年齢でもありませんでしたので、毎日綱渡りの様な居たたまれない思いで家族の顔色を伺いながら生活していたものです。
そのうち債権者の一人である父の兄夫婦が、倅を預かってやるという提案を父に持ってきました。勿論倅とは私の事です。家計のやりくりが大変だろうから、一人こっちで引き取ってやるというような口ぶりでしたが、実質は何の事は無い借金のカタにされるというだけの話でした。そのとき私はもう中学生になっていましたから、それがどういう話なのかおおよその想像がつきました。私の兄夫婦は本島に住んでおり、まあ私達の家庭と比べればの話ですが、多少は裕福な家庭でした。しかしそんなところによそ者の私が乗り込んでいって、何不自由なく暮らしていけるだろうなどという甘い妄想はいくら私が子供だと言ったって決して抱いたりはしませんでした。行った先では私は大変肩身の狭い思いをするだろうし、他の子供達とは差別されてまともな教育も受けられず、着るものはみんなお下がりで、重労働にこき使われ、教育の無いせいでろくな働き口も見つけられずに途方に暮れた挙げ句、仕舞いには父が遺した借金の肩代わりをさせられて苦しい生活を強いられる事などが子供心にも容易に思い描かれました。
私はそんなわけで、何としてでもよその家には引き取られたくありませんでした。しかし私の意思はその際問題ではなかったのです。私が何と思おうが、そんな事とは何の関係も無く状況は次第にそれを余儀なくする方向で進行していきました。
私はいっそのこと家を出ようと思いました。私は日頃から、こんなところから一刻も早く出て行きたいと考えていたのです。こんな寂れた村落にいてもまともな将来なんてありゃしない。大体こんなところにいて何が出来るのだ?鰹節を作るしか無いじゃないか。その鰹節製造だってこうして目の前で暗礁に乗り上げているのだ。何も出来る事なんかないじゃないか。私はただでさえ常日頃からそう思っていたのです。増してや借金のカタにされて身売りされそうになっているその時の状況で、私が行動を起こしたのはごく自然な成り行きだったと思います。
私は東京に行こうと思い立ちました。東京に行って住み込みで働けるところを探せば、自分一人くらいは自力で養っていけるだろうと思ったのです。勿論そうしたところでろくな教育は与えられないだろうし、余計にこき使われるであろう事は分かっていました。しかしそれでも借金のカタにとられて肩身の狭い思いをするよりはどれほどましか知れないと、そう思っていました。とは言え私には東京に行く為の旅費などありませんでしたので、私は当時通っていた中学校のある友人に平身低頭と頼み込み、どうにか工面してもらえないだろうかという様な事を言ったのです。友人だって中学生ですから、そんなに自由になる金があるわけでもなかったでしょうが、それでも東京に行く金はないが鹿児島に行くくらいの金なら何とか都合が付くと言ってくれました。私は悩みました。確かに今の状況を考えればいつ伯父夫婦の家にやられてしまうかもしれず、そう思えば一刻も早くそこを出て行く事が先決にも思えました。しかし中途半端に鹿児島に行ってみたところで、働き口があるかどうかも分かりませんし、そうなればすぐに路頭に迷って警察に補導されて家に連れ戻されるくらいが落ちだ、それでは元も子もない、私はどうしても東京へ行かなければならない。そう思いました。そこで私は悩んだ末、友人に或る提案をしたのです。それはその友人も一緒に東京に連れて行く事でした。友人と共に遊びに行くための旅行の費用という事であれば友人の両親も旅費を出してくれるかも知れないし、それに帰りの交通費は一人分だけでいいのです。つまり行きの分の交通費を一人分余計に出してくれれば良いのですね。東京に旅行に行くのに一人分の片道の交通費くらい余計に出してくれない事はあるまいという算段でした。今思うと随分おこがましい話ですが、私は必死で友人に頼み込み、友人はそれを両親に相談してみることを了承してくれました。
計画は思う通りになりました。私と友人はある三連休を使って東京見物に行く事になりました。勿論東京見物とは私について言えば建前であって、家出に他ならなかったのですが。
私は家族には何も言いませんでした。下手に旅行に行くとか嘘をつけば、費用はどうするんだとか余計な穿鑿を受けて計画がご破算になってしまいます。だから私が家を出る時は、ある日忽然と姿を消すようにいなくなるというのが一番でした。実際そうしました。私は一寸庭先に出る様な振りをして白昼堂々と家を出てそのまま友人との待ち合わせ場所に向かったのです。
私は友人になるべく迷惑をかけまいと、東京に着いたらもうそこですぐに別れて別行動を取るように提案しましたが、友人の方もまだ中学生ですし、東京は初めてだったというのもあって、私を引き止めようとしました。折角東京にまで行くのに一人で見物するのもつまらないし、宿だって一人で借りるよりも二人の方が安上がりだろうから、自分が帰るまでは私が一緒にいた方がいいじゃないかと、そう友人が言いましたので、友人が帰るまで私は友人と行動を共にする事になりました。
飛行機に乗って電車を乗り継ぎ、東京の都心部に着いた時にはもう暗くなっていましたので、私達早速は宿を探しました。まず初めての東京は人が多くて開いた口が塞がりませんでしたな。テレビも殆ど普及していない時代でしたから、そう言う光景を目の当たりにするのは本当に初めてだったのです。人混みを歩く時など他の人とぶつかってしまわないかずっとヒヤヒヤしておりました。またそれくらい世間知らずな中学生ですから、当日直接行けば泊まれるだろうと高をくくって宿にも予約もしていなかったので、色々なホテルを巡る羽目になりましたが、結局池袋の安いビジネスホテルの一室を取る事が出来、私達はそこで一晩過ごしました。しかし中学生二人でいきなりホテルに押し掛けるなんて今考えたらどう考えても怪しいですが、当時はそれくらい平和な時代だったんでしょうな。
私はホテルの一室で眠りに就く際、ふと家族の事を思いました。今頃は私がいなくなって大騒ぎしているだろうなと思うと、少し胸が痛みました。しかしそんな感傷に浸っていたのも一瞬だけで、もう少し現実的な方面へと私の頭はすぐに切り替わりました。私は自分の家族が大騒ぎして友人の両親に何か相談すまいかという危惧に襲われたのです。その時に友人の両親が、おたくの子はうちの子と一緒に東京見物に行っている筈だ、おたくは何も聞いていないのか?という風に言ってしまったら、私の計画は水の泡だという事に思い至りました。いや、私の計画だけなら何も心配せずにただ東京に身を潜めていればいいだけなのでまだ何とかなりそうなものですが、友人にしてみればそうなってしまってから沖縄に帰ってしまったら、きっと周囲から私の事を問いただされるに違いありません。そういう友人の行く末を案じて、私は布団から飛び起きるが早いか友人を揺り起こし、その事についてどう考えているのかと問いました。すると友人は落ち着いた様子で、俺は何があっても家族や教師にお前の事をしゃべったりしないから安心しろ、第一その時となればお前の居所はもう俺にも分からないのだからしゃべりようがない、だからお前は自分の事だけ考えていれば良いのだ、と言いました。友人は実に泰然自若としていましたが、私はそこで初めて軽率な行動を起こしてしまった事を後悔しました。しかもどうしてそんな考えればすぐに分かりそうな事を今の今まで思いつきもしなかったのだと自分を責めました。そしてそうなってからは私の行動は早いものでした。一刻も早く友人と別れなければならないと考えたのです。というのも、既に私や友人の家族から男子中学生二人組ということで捜索願が出されているかも知れないし、何より私は友人にこれ以上の迷惑をかけてはいけないと思ったのです。金を出してもらった挙げ句に私の事を隠し通さなければならないという精神的負担まで友人に強いてしまったことに強い自責の念を覚えました。そういうことから私はこれ以上友人の側にいてはいけないと思ったのです。尤もそこで友人と別れたところで状況は何も変わりませんから、私がただ友人に対する罪悪感から逃れたかっただけかもしれませんがね。
しかし翌日になってホテルを出た後で、私がいくらその事を伝えても、友人はなかなか私の側を離れようとしませんでした。私は友人を説得しました。いや説得というのも変ですね。私は最初から遅かれ早かれ友人とは別れる積もりでいたのですから、むしろ友人の方が駄々をこねていると言った方が正しいかもしれません。俺は東京見物などしにきたのではない、一刻も早くここで自活していく為の手立てを考えなければならないのだ、だから済まないがここで俺と別れてくれ、一刻も早く沖縄に帰ってくれ、勿論君の援助が無かったら俺はここには来れなかったろう、それは大いに感謝している、それに俺がここに居続ける為にはこれからも君の協力が必要だ、君は俺の両親は勿論教師にも君の両親にも俺の事を打ち明けてはならない、そういう負担をこれからも君に強いて行くだろう、だがせめて君一人でも家に帰って両親を安心させてやってくれ、何俺の事など誰も心配したりしないさ、どうせ借金のカタにしようとしていたくらいだ、出て行った方が却って穀潰しが一人減って都合が良いかもしれんくらいだ、肉親がその調子じゃ誰が心配しようともたかが知れている、皆すぐに俺の事など忘れてしまうよ、だが君は俺とは違う、君をこれ以上巻き込む訳にはいかないんだ、だからここで別れて家に帰ってくれ。私がここまで言っても友人は、まあそう急がなくたっていいじゃないか、俺だって東京に二泊三日で来たわけだし、その間は予定通りここにいるつもりだ、俺は少なくとも明日まではここにいるわけだ、それなら別に一人でいたって二人でいたって変わらないだろう、むしろ二人の方が都合が良いだろう、何なら俺がここにいる間は君の独り立ちを手伝ったって良いんだ、等と言って居座ろうとするのです。私も一抹の心細さもあってかついついそう言う友人に引きずられて、二人で行動を共にしました。私達はとりあえず私の職探しをしようと考えました。しかしそうは言ってもどうすれば良いのか分かりません。今みたいにコンビニもインターネットも無いですからね、情報が簡単に手に入る時代ではなかったのです。だからというわけではないですが、私達は詮方も無く街をブラブラ歩いて行っても行かなくても良い様なところを訊ね歩きその日を暮らしました。まあ初めての東京ですからな。そんなに迅速な行動を起こせる程私も街に慣れていなかったというのもあるでしょう。そして遂にその日も暮れてしまって結局その前の晩と同じホテルに泊まる事になったわけですけれども、私は、まあ明日になれば友人は予定通り沖縄に帰ってくれるだろう、そうして一人になった時がいよいよ俺の正念場だ、一刻も早く仕事を探して独り立ちできるようにしなければ、と考えていました。
ところがその次の日になっても友人は帰ろうとしません。私はそう無闇に帰れ帰れとは言えませんでしたが、遂に意を決してどうするつもりなのか訊ねてみました。それまでもそれとなく訊いてはいたのですが、なんだかんだと言って逃げられてしまっていたので、その時は強い語調で、帰るのか帰らないのかどっちなんだ、と詰問しました。
すると友人は俯いたなり、帰りたくないという様な事を言いだしました。私一人を東京に置き去りにしたまま沖縄に帰ってはお前も含めて皆に悪い様な気がするという事でした。それは以前友人が安心しろと言った時の口調とは反対にとても弱々しく、恥ずかしそうで、自信が失われていました。何の事は無い、充分に予測できていた事がいざ目の前に起こってみると急に怖くなったというだけの話だったのです。いやあの時は参りましたね。かといって友人を責める気にもなれませんでした。むしろ私の家の事情に友人を巻き込んでしまった自分が悪いのだと深く反省しました。壁を打ち壊すのに他力本願では駄目なんですね。
それでまあ馬鹿みたいな話ですが、私は友人と一緒に沖縄に帰る事にしました。私は帰りの飛行機に乗る時に思いました。いつか誰の手も借りずにまたここに来よう。その時こそ誰にも口出しはさせず、自分が持っている自由を全て使ってやりたい事をやってやろうと、そう誓ったのです。でもそれ以来、この歳になるまで結局一度も東京には行っていません。




