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 夜は閑散とした近くの料理屋で泡盛を飲みながら、ゴーヤーチャンプルーとタコライスを食った。一人で飯を食うのは淋しかったし、店員も商売っ気が無くて無愛想だった。しかしそれがまた良いというのもあった。沖縄の魚は珍しいのが沢山いるらしい。テーブルの上の下敷きにあらゆる魚が図示してあるが、そのどれもが目玉が出ていたり唇が分厚かったりして、グロテスクだ。とても食う気にはなれなかった。

 奥の座敷では家族連れが楽しそうに飯を食っている。子供は小さな兄妹で、兄は五歳くらい、妹はまだ頭に産毛をはやした、よちよち歩きの赤ん坊だった。二人は退屈して、店の中をはしゃぎ回っていた。私はそれを眺めながら、泡盛の水割りを飲んでいた。そのうち妹の方が転んで泣き出した。酒を飲んで顔を真っ赤にした父親が慌てて出てきて、抱いてあやした。そうこうしながら、家族は運転代行を頼んで店を出て行った。店には遂に私一人になった。厨房の奥からは皿洗いの音がする。私は黙って酒を飲む。それほど酒に強くない私は、すぐに酔った。口を開くのも億劫になって、私は店の者に挨拶もせずに金を払って店を出た。

 酔いをさましに、暫し夜風に当たろうと思った。そこで海辺を歩く事にした。海は漆黒の奥で囁いていた。波打ち際の漁船はゆらゆらと揺れ、隣の船と押し合いへし合いして、軋り音を立てていた。私は埠頭に立った。茫漠とした黒い海に四方を囲まれると、心の底から恐怖が湧き上がってきた。後方で、魚が水面から跳躍したらしい音がした。振り返ると、海面に波紋が起こっていた。潮の匂いが辺りに瀰漫し、錆び付いた感覚を織り込んでいく。私は遠方の離島の影を見つめた。

 私は、苛立たしい心の煩悶を洗い流そうと思った。けれどもどうしても自分が自分から抜け出す事ができずに、頭を抱えざるを得なかった。いっそこの海に溶け入って消えてしまえば、どうなるだろうかとも思った。けれども勿論私はそんな事を本気で考えているわけではなかった。ただそんな思いに身を浸しているのが心地よかったのだ。

 とは言えそのとき私は周りの全てに寄りかからなければならない程力を失っていた。にも拘らず寄りかかるべき何物をも認める事が出来なかった。私は極めて危ういバランスで我が身を律している事で精一杯だった。

 私は宿に戻って、一階のバーでカクテルを何杯か飲んで、それから部屋に戻った。部屋に戻ると、ベッドに寝転んで煙草をふかした。テレビを見てもいつも見ているものと代わり映えがしないので、すぐに消した。煙草を吸うと憂鬱になった。頭の中の靄が分厚い暗雲のようになった。私はノートに少しものを書いて、すぐに寝た。

 その夜は夢も見ずにぐっすりと熟睡した。余程疲れていたのだろう。しかしながらこれほど魅力的な非日常の環境にいながら何も暗示的な夢を見なかったというのも何かつまらない様な気がした。どうせなら人魚姫の夢でも見ればそれらしかったのだが…それは少し違うか。

 朝、目が覚めると、私はやはり沖縄にいた。その事にさして驚かない自分に驚いたりした。私はベッドから勢いよく跳ね起きると、くたびれたスーツに着替えて部屋を出た。昨夜のバーがレストランになっていて、そこで朝食を食った。客は私一人だったが、淋しいというよりは静かないい気持ちがした。若いホテルの従業員は私の分の朝食を用意した後は、ダイバースーツに着替えて惜しみなく晴れ渡った海に繰り出していた。いつもなら客は一人もいないのだろう。

 それから貸切タクシーを呼んで、ホテルをチェックアウトした。タクシーは十時にホテル前に到着した。私はそれに乗った。運転手は初老の痩せた男だった。彼は少なくとも六十は過ぎていそうに見えた。だがそこはかとなく気品があった。眉毛が大変長かった。彼はスーツ姿だったがジャケットは着ておらず、ワイシャツも半袖だった。実際それで事足りるくらい暖かかったのだ。

「大城です。今日一日よろしくおねがいします」

運転手は後部座席に乗った私を振り返って挨拶した。貸切タクシーは八時間貸しきってある。これから帰りの空港に行くまで恐らくずっと一緒だろう。私にとっての今日は彼の為にあり、彼にとっての今日は私の為にあると言っても過言ではない。私の今日一日は彼と上手くやっていけるかどうかで正否が決まる事はもはや疑いようが無い。しかしタクシーが走り出しても、結局私は黙っていた。有り体に言えば、口を開くのが億劫だったのだ。ただぼんやりと窓の外に流れる景色と、その背景にある雄大な海を見ていた。海は恍惚とする程輝いて、光の粒が遠くから私の目を射た。

「一人旅ですか」

大城さんは突如私に問いかけた。

「ええ」とだけ答えた。

「どこからいらしたんですか?」

「東京です」

「そうですか、遠路遥々来たわけですね。どれくらい沖縄に?」

「昨日来て、今日帰ります」

「へえ?一泊二日ですか?そりゃあまた忙しいですね」

「ええ、まあつい思いつきでふらっときたもんですからね」

私は隠し立てせずに言った。

「それはまた大変な思いつきですね。それを実行してしまうのもすごいと思いますが」

「ええ、自分でも驚きですよ」

愛想笑いだったが、ともかく私は笑った。私はここ最近で初めて笑った気がした。

「若いうちはそういう事もあるもんです。私ももう長い事沖縄にいますけど、若い時分には家を飛び出して裸一貫で上京したなんて事もありましたっけ」

そう言えば大城さんの言葉からは方言らしい特徴はあまり見られなかった。こういう商売をしているからだろうか。ともかく大城さんはこの土地の人らしい。というより、そもそも土地の人でなければとても貸切タクシーの運転手など出来ないだろう。こういう仕事は大抵観光案内係も兼ねているのだろうから、余程の土地勘と豊富な知識が無ければ無理だ。

 何故だか、私は若かりし日の大城さんの家出について、理由を訊ねる気にはならなかった。ただへえと相槌を打っていただけだった。自分でも大変不親切な気がしたが、それでもその話頭に乗っかる気になれなかった。しかし大城さんは訊ねられもしない家出の顛末を滔々と語り始めた。余程話し好きらしい。これも職業柄というやつだろうか。しかも大城さんの話には着地点というものがおおよそ見当たらなかった。一体どこまで行ったら終わるのか、どういう落ちが待っているのか私には皆目見当がつかなかった。

 私達を乗せた車が、名護湾を通り過ぎた辺りでカーブを曲がったので、ずっと左側に見えていた海が正面にまで拓けた。私は大城さんの話を聞きながらフロントガラスから広大な水平線を見た。遠くに見える海と陸の境目は、白く緩やかに湾曲して、穏やかだった。


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