五月に降る雨、皐月雨
この小説はBL小説です。
性的表現はありませんが、同性での恋愛描写に嫌悪感を抱く方は閲覧をお控え下さい。
「海行こうゼ!」
昼食を食べてからずっと、寝転がったまま漫画雑誌を読んでいた公平が急に起き上がってそう言った。それから勢い良く立ち上がると、そうとなったら、などと呟きながら、滋の部屋のクローゼットをかき回し始める。
公平同様、寝転がったまま埒の明かない物理化学のレポートを眺めていた滋は、突然耳に入った”海”の言葉にそれこそ、はぁ?といった顔つきで半身を起こした。しばらく、公平に引っ張り出される冬物のジャケットや、安売りの時買ってきたままつっこんであったトイレットぺーパーの袋が部屋の中に散らばって行くのをぼう然とみていたが、ここが自分のアパートであることを思い出して滋はやっと公平に、おいっ、と制止の声を掛けた。
「………何?」
「何って。お前こそ何してんの! 人ん家のクローゼットを漁るな!!」
「だって、海行くだろ?去年買った海パン、お前ん家に置きっ放しだったなーって」
きょとんとした公平の顔と、そのセリフで滋はがっくり肩を落とした。この男の突拍子のない言葉は時々ひどく滋を疲れさせる。しかも、同時に去年の夏のナンパ戦績の散々たる結果を思い出したものだから、ひとりでに深い溜め息が零れた。こんなに疲れる奴なのに、高校からずっと友達をやっているのは何故だろうと、自分を訝しみながら滋は立ち上がって、床に散らばったクローゼットの中身をひとつ、ふたつ拾った。
「……水着はあるけど……。まだ海って時期じゃないだろー?しかも天気曇って来てんじゃん。海なんて何しに行くのよ」
「ゴールデンウィーク何もすることないって腐ってただろ。だから、景気付けに、な?」
「景気付けたってなー……。この時期じゃ女もいないだろうし、潮干狩りたって男二人じゃ悲しいだけだ」
「いいじゃん、行くだけでもさ。どっか行ったってことに意義があるのよ」
「けどなぁ……」
拾い集めた物をクローゼットに片づけながら、滋は傍に立つ公平を見上げた。きもち左に首を傾げて、お願いしますの表情を浮かべている。少し垂れ目気味の顔と、伸ばしっ放しの髪が実家で飼っているゴールデンレトリーバーによく似ている。でかい図体して可愛子ブリッコしてくるその態度もそっくりそのままだ。なのに、そいつのおねだり顔と全く同じ表情に、いつでも押し切られてしまうのだ。滋は再び溜め息をついた。
今回もまたどうしようもない気分になってしまった滋は、しょうがねーなー、とクローゼットの奥に頭をつっこんだ。それから、夏物をしまい込んだ引き出しから公平の海水パンツを引っ張り出し、彼の頭に乗せた。公平は大人しく滋の言葉を待っている。
「言っとくけど俺は泳がねぇからな」
頭の上に海水パンツを乗せたまま、公平はうんうんと何度も頷いた。海水パンツの裾から、してやったりの笑顔を浮かべた口元が見える。
このやろ、と思いながら、滋は続ける。
「それから、車の運転はお前一人だかんな」
「もちろん」
公平は立ち上がると、何がそんなに嬉しいのか、鼻歌でも歌いそうな顔で頭の上の海パンを取り上げ、指先でくるくると回した。
滋は窓の外に眼をやった。空はどんよりと薄鼠色に曇り、さっきまであった陽の光も徐々に弱まりつつある。こんな天気で海に行こうとはどうかしている。
ほんと、しょうがねぇ奴。
そう思いながら、今日三度目の溜め息をつく。
滋は傍らで楽しそうに海パンを回している男の為に、タオルやらの準備を始めた。
当然ながら、二人が海岸についた頃には、雨はひどい土砂降りになっていた。
海岸線に止めた車の窓は、ざぁざぁと雨水が流れを作っていて、やっと辿り着いた海も暗い緑色にしか見えない。空はもう完全に曇天で、時折微かに紫色の亀裂のように稲妻が走った。
「やっぱ、降ってきたかー」
公平は自分が誘ったくせに全く悪びれない様子でそう言った。
フロントガラスからチラリと空を見上げて、こりゃまいったなーなどと呟いている。
半ば予想通りの展開に、滋は1時間のドライブで凝り固まった身体を伸ばした。同時に、身体の奥の方から気怠い欠伸が出た。時計を見るともう4時10分前で、もし仮に晴れていたとしても海に入るような時間ではない。滋はぐりぐりと首を回すと言った。
「……もう帰ろうぜ。どっか途中で飯でも食って、さ」
「………………」
ホルダーのペットボトルを取る。中身はもう3分の1くらいになっている。
「まぁ、お前のいう通り、景気付けにはなっただろ。大学に戻ったら、海行ったんだーって言ってやれって」
「…………残念だ」
急にぼそりと響いた公平の声に、滋は運転席の公平を見た。
公平は未だフロントガラスを睨んでいた。全く平気な顔をしていると思っていたのに、その横顔には”気にくわない”とでも書いてあるかのようなふてくされた表情が浮かんでいる。21にもなってよくもそんな表情ができるもんだ、と滋が内心感心していると、公平は再び、残念だな、と呟いた。
「何が。何がそんなに残念なんだ」
滋は温くなった茶を一口飲むと、ボトルを公平の鼻先に差し出した。
「そんなに泳ぎたかったなら、また来りゃいいだろ?明後日からまた晴れるらしいし」
公平は、突然呆気に取られたような顔をした。
それから身体ごと滋の方へ向き直り、まるで滋がこの天気の原因であるかのような剣幕で差し出されたペットボトルを引ったくり、ごくごくと飲み干して、今日が良かったんだよっ、とボトルをホルダーに乱暴に戻した。空になったボトルはボコンという情けない音を立てて、ホルダーから外れ、運転席の足下に落ちた。公平はそれを無視し、そのままフロントガラスに向き直り、黙り込んでしまった。
その態度に、今度は滋の方が呆気に取られた。
「……子供か、お前は」
「………………」
公平は答えない。
しばらく滋はふてくされた公平の横顔を見ていたが、フロントガラスを睨んで腕を組んだ姿勢を崩す様子もない彼に、軽い溜め息をついた。
こういう公平の感情の起伏には慣れている。勝手に怒って、勝手にへこんで、最終的には滋に謝ってくるのが彼の常だ。今度も30分も放っておけばどうせ自分から何か言ってくるに違いないのだ。
滋は、深く倒したシートに身体を預けた。フロントガラスには相変わらず雨水が川のように流れている。外の風景はその薄い水の川にはばまれて、まるで印象派の描く淡い風景画に見えた。
大雨の時の車内というのを、滋は案外嫌いではない。子供の頃に台風を待った時のような既視感が胸のどこかから、急に立ち昇ってくる気がするからだ。車の外のバケツを引っ繰り返したような状況にも関わらず、文明の利器エアコンのお陰で、車内はカラリと涼しく快適だ。車の外側を叩く暴力的な雨音もどこか遠く、小さく絞ったFMからJ-POPのヒットチャートが流れていた。聞き覚えがあるだけの曲はだたのインストメンタルになり、次第に瞼が重くなってきて、滋は黙り込んだ公平を放置したまま、そのうち機嫌も直るだろ、と思いながらいつしか眠りに落ちていった。
急に頬に降りかかった水滴に滋は眼を覚ました。
寝起きの頭では一瞬状況が把握出来ず、ドアが開いて雨が降り込んだのだと気がついた
時には、もう公平は車外に出てしまっていた。あっと思って、シートから身体を起こすと、フロントガラス越しに海岸線を走っていく公平が見え、激しい雨の中、浜辺へ降りる階段を降りたのか、そのまま姿が見えなくなる。滋は何か傘の替わりになるものはないかと車内を見回してから、それから諦めて車を降りた。降りた途端、雨で全身がみるみるずぶ濡れになっていった。
「公平っっ!」
滋は、何考えてんだっ、と毒づくと公平の降りていった階段の方へ走った。その間も雨は容赦なく滋の全身を叩く。階段の上に辿り着くと、浜辺を見回して公平の姿を探した。夕闇が迫っており、ざぁざぁと降る雨と相まって、視界は思ったより悪い。眼下の砂浜は既に青く沈んでおり、動くものは確認できなかった。
ぐっしょりと濡れた髪から、眼の中に雫が垂れてくるのがうっとおしい。乱暴に前髪を掻き上げて、もう一度眼下の浜辺を見渡した。しかし、視界の利く場所に公平の姿はなかった。
(まさか、海に入ったのか?)
はっとして黒い海に眼をやった。うねる海面は降り注ぐ雨粒に叩かれて、白い波頭が立っている。こんな状態で海に入ったら、日頃運動していない滋などひとたまりも無く、
沖に流されて行くだろう。ふっとそんな想像が脳裏をよぎった途端、滋は公平の名前を叫んでいた。
「……っっ! こうへーーいっっ!!」
「…………ハイ」
呆気ない程間近で返事が返った。
返事が返った方向を見ると、公平が階段の下でバツの悪そうな顔で滋を見上げていた。
滋同様ずぶ濡れで階段の一番下に座り込む公平を確認して、滋は全身の力が抜けるような気がした。それから、次の瞬間焦って公平の名前を大声で叫んでしまった先程の自分を思い出して、かっと頬が熱くなった。滋は公平に向かって怒鳴った。
「何やってんだよっっ」
「……いや、泳ごうかと思ったんだけど、海がその、あれだからさ」
「泳げるわけないだろっっ」
滋は階段を下りると、彼の襟首を掴んで無理やり立たせた。そのまま、公平を引っ張って歩かせながら、心配させやがって、と吐き捨てた。公平は滋にされるまま、おとなしく彼の後を歩いていたが、滋が吐き捨てた言葉に、思いもかけなかったかのような顔で、心配したの、と滋に尋ねた。
滋は足を止めて、公平に向き直った。
雨が二人の全身を叩く。
「当たり前だろっ!」
それだけ怒鳴って、滋は公平に背を向けて歩き出した。背後から付いて歩きながら、公平が何度もごめん、と謝るのが聞こえたが、滋は無視して歩き続けた。馬鹿みたいに叫んだ己の羞恥心がそうさせるのか、それともそこまで心配させた公平に本気で怒っているのか自分でも判断がつかなかった。
車に戻ると、滋は後部座席に置いてあったボストンからタオルを2枚取り出した。最悪の気分なのに、変なところに気が回ってしまう自分が恨めしい。やがて、遅れて運転席に乗り込んできた公平に大きいほうのタオルを投げてやった。
しばらく、黙り込んだまま二人はタオルで全身を拭っていたが、やがて公平のほうから話し出した。
「……どうしても、今日じゃないとダメだったんだ」
「何で」
滋は自分の声がとげとげしくなっているのを感じながら先を促した。途端、公平の声は雨の音に掻き消されそうな程、ぼそぼそとしたものになった。
「前につきあってた子がさ、教えてくれたジンクスなんだけど」
そこまで言って言い淀んだが、公平は諦めたように続けた。
「5月4日に海に行って告白したら、その、…………キスできる……って」
滋は運転席の公平を見た。頭からタオルをかぶったまましょんぼりした顔をしている。 滋はさっきまで感じていた沸騰するような感情が急速に萎んでいき、その代わりにひどい脱力感が全身を覆うのを感じた。
「それって、好きな奴とってこと?」
「…………そう」
「そんなおまじないの為に海に入ろうとしたわけ?」
公平は視線を落としたまま、頷いてその問いに答えた。脱力感はさらにひどいものになり、こういうのが気が抜けたっていうのか、と滋は思った。
シートに背を預けて、滋は天井を仰いだ。腹の底から、馬鹿馬鹿しいという言葉が出た。
「大体、あの海ン中入る勇気があったら、キスぐらい何でもないだろうが……それをこんなに」
こんなに心配させやがって、という言葉が危うく零れそうになり、滋は口を噤んだ。こんなことを言ったら、悪いことをしたんだってことを躾けられなくなる。こんな場合は、毅然とした態度でいなければ。滋は実家の愛犬を躾ける時のようなことを考えながら、運転席の公平に顔を向けた。
ところが、想像と反して公平はしっかりと顔を上げて、滋を見つめていた。こんな風に真剣な表情の彼と向き合うのは、初めてのことかもしれなかった。
「心配してくれた?」
「……当たり前だろ……いきなり雨の中飛び出して行きゃ……」
「俺だから、心配してくれたの?」
ぐいと運転席から乗り出して、公平は滋に身を寄せた。それから何か言いたそうに口を開いたが、そこからは言葉は出て来なかった。
滋は急に間近に迫った公平から、切羽詰まったかのような気配を感じた。
「…………何?」
車外の遠い雨音に混じって、公平がごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「好きなんだ」
滋は言葉を失った。小さな混乱が徐々に大きくなり、その混乱を持て余したまま、公平を見た。しばらく見つめあった後、公平は一言ずつ確認するようにゆっくりと言った。
「滋のことが、好きなんだ」
滋はただ公平の顔を見つめ続けるしかなかった。
エンジンの掛かっていない車内は蒸し蒸しと暑い。滋はこめかみから汗の粒が顎の方に伝うのを感じた。
「…………滋」
思わず身を引いた滋の二の腕を公平が掴む。空気が張りつめるような緊張感が走った。しばらく二人とも身じろぎもせず見つめあっていたが、やがて公平の方から何か苦い塊でも飲み込んだかのような表情で顔を背けた。掴んでいた滋の腕を放すと、運転席の方へ離れた。こもるような雨音の中、蒸し暑い沈黙が落ちた。
助手席のシートで放心しながら、滋は先程の公平との会話を辿っていた。
ジンクス。おまじない。5月4日。告白。キス。好きな奴と……一緒に。
こうやって辿ってみると、公平のやりたかったことは明白だった。公平は、”好きな奴”である滋と一緒に5月4日に海で泳ぎ、告白するつもりだった。昔、誰かに教わったジンクス通りに。
「…………ごめん」
低い声に運転席を見ると、公平はハンドルにすがるようにして俯いていた。
公平が、好きな奴は俺、と滋はぼんやり思った。
雨はまだ勢い良く降り続いている。明後日から晴れるという天気予報を訝しみながら、滋はフロントガラスを眺めた。外の景色を滲ませて流れる雨の川を見ていると、全身を占領していた緊張感が徐々に消えていくのを感じた。
「公平……俺さ」
滋の落ち着いた声に、公平が顔を上げた。
滋はフロントガラスに視線を注いだまま続けた。
「悪いけど、お前のこと友達以上には考えられない。でも、俺の一番の友達であることは変わらないと思う」
一気にそう言ってから、滋は軽く深呼吸をした。
「それじゃ、ダメか」
滋は公平を見た。泣いてはいなかったが泣きそうな表情を浮かべていた。雨で頬に張り付いた髪が少しうねっていて、滋はまた実家の愛犬のことを思い出した。雨の日の散歩の時、泥水に勝手に入ったことを叱ったら、あいつもこんな顔してたな、とぼんやりと思うと、我知らず笑みが零れた。
「泣きそうな顔すんな。もしかしたらおまじないとやらが効くかもしんないだろ」
公平は、泣きそうな顔のまま、うん、うん、と何度も頷いた。
滋は額から垂れてきた汗を拭きながら、公平の肩を叩いた。
「暑ィよ、早くエンジン掛けてくれ」
滋は公平の足下に落ちていたペットボトルを拾った。肩が公平の肘に触れたが、もう元通り混乱も緊張もやって来なかった。
エアコンが心地よい空気を車内に送り出す。FMは懐かしの80'sを流し始める。
フロントガラスの雨の川だけが変わらずに、滲んだ景色をたゆたわせていた。
ぬ、る、い!!温すぎる!!
男同士の恋の始まりを書こうとして、そういう気質がない人が告白されてはい、そうですか、とつきあえるか?と疑問に感じながら、進めたところこんな温い話になってしまいました。




