第十回 ユキ
第十回創作五枚会概要
・禁則事項…手抜き禁止
・テーマ…幸福
-604号室-
チャイム音が鳴る。「こんばんはー。坂本です」
「はいはーい」さよが早足で玄関へ向かう。俺は気になって玄関を覗く。ちょうど、さよがチェーンロックを外していた。「どうぞー」
「おじゃまします」と坂本さんが入ってきた。髪には整髪料がたくさんつけられている。あれが若者の間では格好良いのか、と俺は不思議に思う。
服装はいたって普通のスーツ。ぴしっと着こなしている。細身の坂本さんによく似合っている。だが、何もこの暑い夏にそんな格好をしなくてもいいじゃないか、と思う。
手には段ボール箱を一つ持っている。中はそれほど重くはなさそうだ。
リビングに入ってくる。俺のことを見つけ「おじゃまします」と彼は軽く会釈をする。俺はそれに「おう」と返した。
「えー、神田さん」
「おう」
「何でしょうか」さよと声が重なる。
「以前お話した通り、例の合図で作戦決行です。お願いしますよ」
「おう」
「はいはい」
そう言えば、今日か。その事に気がついて、徐々に緊張してくる。少年時代、祭りの神輿を担ぐ前のことが脳裏を過ぎる。確か、あの時もこんな感じだったな。
「それじゃあ」と言って坂本さんは我が家を出て行った。
-友紀-
「おじゃましまーす」段差に気をつけて家の中へ入る。
「どうぞどうぞ」彼の暖かい声が聞こえる。
私はハイヒールを脱いで、三和土と思われる場所に足を置く。自分の靴を三和土に寄せようとする。だが、そこで頭上から声がした。
「いいよ、そこまでしなくて」
私は彼にむっとする。お邪魔した家で、靴を三和土に寄せるのは当たり前だ。それを、目が見えないから君だけ特別、というのはおかしい話だ。「いい、やる」
付き合って今日で十年だが、こういうことはよくある。原因はわかっている。価値観の相違だ。彼としては私に無理をさせたくないと思って言っているんだろうが、そう言うことではない。私は、自分だけ特別扱いを受けるのが嫌なのだ。
靴の爪先をドアの方に向けて、靴の踵をこちら側に持ってくる。だが、手前に靴があったようで、こちら側には持ってこれなかった。靴を持っている右手に、暖かい感触を感じる。――彼の手だ。
「もうちょっとこっちだよ」そう言って彼は私の手を右に動かす。突然、温もりが消えて私は焦る。
「どうした?」
「いきなり、手を離すから……」彼が隣にいたようで、私は少しほっとする。
私みたいな盲目の人間にとって、人の手と言うのは安心するものだ。それがいきなり消えると、とても不安になる。普通の人に例えると『自転車に乗る練習をしていて荷台を持ってもらっている時に、いきなり手を離される感じ』らしい。ルームシェアの香苗にしか聞いていないから、合っているのかはわからない。
「さ、リビングに行こう」彼が私の手を取って歩いていく。暖かい、手。やはり、彼の手が一番安心する。
彼の足音が前へ向かっている。足取りはゆっくりだ。きっと、私のことを思ってだろう。こういう心遣いは嬉しい。私は頬が緩むのを感じる。
「少し、座る?」彼が歩くのをやめたので、私も止まる。
「うん」
右に曲がる。「そこがソファだよ」と彼が言うので私は座った。
雲に座ったような感覚。ふわふわで、気持ちいい。
「ちょっと待ってて。飲み物持ってくるから」そう言って彼は、小走りに奥へと向かっていった。
-604号室-
「私、携帯ってよくわからないんですよね」あなた、わかります? とさよが俺に訊いてくる。
「俺も知らん」
「そうですよね。私が知らないのに、あなたが知っているはず無いですもんね」その言葉に、少し苛立つ。俺だってお前の知らない事を知っている。例えば……とにかく、何かだ。
さよが携帯をいじっている。俺は子供が機械に触っているような危なっかしさを覚える。
「おい、そう言うのって、いじらないほうがいいんじゃないか?」下手にいじって、携帯を壊してしまったら一大事である。ふと、昔の事を思い出す。そう言えば、買ったばかりのCDプレーヤーを壊していたな、あいつ。
「珍しいものがあったら、触ってみたくなるじゃないですか」さよは携帯電話をおとなしくテーブルの上に置いた。
俺は新聞を開く。広告欄に、同い年ぐらいの俳優が携帯電話を笑顔で手に持っている。俺はそのコピーに目を留める。『これぞ、イケてるオヤジ』
俺はテーブルの上にある携帯を取っていじりだす。
「ちょっと、何いじってるんですか!」
「これを使えなければ、俺はイケてないオヤジらしい」孫のしーくんの顔を思い浮かべる。来週には恭介一家が帰省して来る。しーくんも帰ってくるだろう。「しーくんに、イケてるオヤジな所を見せないとな!」
突然、携帯電話が震えだした。俺は驚いてそれを落とす。画面には、便箋のマークが書かれている。そして、真ん中のボタンらしきものが光っている。
俺は、そのボタンを押した。すると文面が現れた。おお、これがメールと言うやつか、と俺は驚く。
「準備お願いします、ですって」さよが文面を読む。そんなの、わかっている。
「おう!」俺は腕まくりをして台所に行く。
しーくん、じいじ、メール出来たよ。俺は心の中で自慢げにそう言った。
-友紀-
「ユキだ!」そう聞こえて、私は彼のいる方へ向く。
「友紀だけど?」
「お前の名前じゃなくて、天候の雪!」
何を言っているんだろうか。私は彼を訝る。今月は八月だ。
「ほら、外行くよ!」乱暴に手を取られ、ベランダへ連れて行かれる。
むわっとした熱気が私にぶつかる。それと衝突した所為で、体からじわっと汗が噴出す。
上階の音がすごくうるさい。冷房を点けているのかだろうか。――いや、何かを削っているような音でもある。
そんなことを考えていると彼が「ほら、手を貸して」と言ってきた。彼が私の左手を虚空に上げていく。
冷たく、柔らかい感触。――雪だ。
「ゆ、雪だ!」私は驚く。本物だ。
「だろ?」そういい終わるか否や、不意に背中に触れ合う感触。どうやら、抱きしめられているらしい。いきなりのことで、私はびっくりする。
「まあ、雪というか霙だけどね」私はそう言って微笑む。手についたものは、液体となって腕に滴る。それが冷やっこくて気持ちいい。
「霙って、いい名前だな」急に、彼がそんなことを言った。
「そう?」
「ああ、優しい感じが」
「何それ」私は笑う。
「子供の名前、霙がいいな。男の子でも女の子でも使える。それに、清水に友紀に霙。全員に水が関連している」
「まだ結婚してないじゃん、私たち。気が早すぎだよー」
瞬間、風を感じた。そして、感じたと同時に温もりを感じた。どうやら、私は回転させられて彼に抱きしめられているらしい。
「じゃあ、結婚しようよ」
「……何よ」頬が、目が、鼻が熱い。「ここまでされたら、断れないじゃない」
「断る気だったの?」意地悪く坂本くんが私に訊いてくる。
「さあね」そう言って、私は愛の言葉を囁く。
-「Sleet and proposal at midsummer.」end-