八十九回お招きしました。お断りの七十八通は、すべて妹君のお手でした
「婚約を解消してほしい」
コンラート・フォン・メールバッハがそう言ったとき、ヨハンナは驚かなかった。
驚けなかったのではない。驚く必要がなかったのである。
この七年で、ヨハンナはこの人に八十九回の招待状を出している。来たのは十一回だ。断りの返事が七十八通、書庫の綴りに残っている。
七十八通には、同じ一文が書いてある。
妹の容体が思わしくなく。
七年で七十八回、一字も違わずに同じ十一文字が届いた。ヨハンナはその全部を取ってある。
ヴァイセンベルク侯爵家では、社交の記録をすべて残す。誰を招いたか。誰が来たか。誰が断ったか。招待状は写しを取る。返事は原本のまま同じ綴りに挟み、年ごとに麻紐で綴じる。三代前の当主が始めた習わしで、招く相手を呼び忘れないためのものだ。
つまりヨハンナは、この人を疑って記録を残したのではない。そういう家に生まれただけである。
だからヨハンナは、この人がいつか自分を要らないと言い出すことを前から知っていた。
知っていて、七年ものあいだ何も言わずにいた。
言えなかったからではない。言えば薄情になるからである。妹君の看病を咎めるということは、病人に死ねと言うのと同じだ。侯爵家の娘がそれを口にしてはいけない。
だから招き続けた。七年で八十九回になる。
その八十九回目に、この人は来た。そして席に着くなり、婚約を解消したいと言ったのだ。
その席には、ヨハンナとコンラートのほかに五人いる。ヨハンナの父であるヴァイセンベルク侯爵。母。領内の司祭。堤の普請を任せている棟梁。それから、隣領のダールベルク伯爵。
コンラートは供を一人連れてきている。給仕の娘である。挨拶もなく壁際に立ったので、ヨハンナは名前も聞いていない。
誰も動かない。
「コンラート殿。それは」
「侯爵。お聞きください」
コンラートは父を遮った。それから、ヨハンナのほうを見た。
「七年だ。七年のあいだ、君は一度も僕を求めなかった」
ヨハンナは彼を見返した。コンラートは目をそらさずに続けた。
「僕は待っていた。君から何か言ってくるのをだ。手紙でもいい。言伝でもいい」
「なにも、ございませんでしたか」
「なかった。七年、一度もだ」
彼は杯を置いた。
「君は美しいし、家柄も申し分ない。ただ、冷たい人だ」
司祭が杯に伸ばしかけた手を、そのまま引いた。棟梁は膝の上で指を組んでいる。母が父のほうを見た。父は何も言わない。
ヨハンナは膝の上で手を重ねた。
悔しい。腹も立つ。ただ、それを顔に出すつもりはない。出せばこの人が満足するだけだからである。
それに、いま怒るのは順序が違う。
この人が言っていることは間違いだ。間違いだと証明できるものが、この屋敷にある。怒るのは、それを見せてからでよい。
「もう一度、おっしゃってくださいませ」
「何度でも言う。君は僕を求めなかった」
「そこでございます。もう少し詳しく仰せくださいませ」
「七年だ。七年のあいだ、君から来た手紙は今宵の一通きりだ。言伝の一つもなかった」
「一通きり、でございますか」
「一通きりだ」
「お間違いございませんね」
「間違いない」
ヨハンナは頷いて、扉のほうへ声をかけた。
「ヘルムート」
「はい」
「書庫から綴りを持ってきてちょうだい。招待の綴り。七年分、全部」
家令の返事が、いつもより半拍遅れた。
「……七年分、でございますか」
「ええ。一冊も欠かさずに」
ヘルムートが出ていった。
晩餐の食堂に、ヘルムートが綴りを運んできた。
七冊ある。年ごとに一冊で、七年分だ。麻紐の結び目が七冊とも擦り切れて、毛羽立っている。開いて閉じてを繰り返した紐はそうなる。
彼はそれを卓の端に置いた。
「揃っております」
「ありがとう。開いてちょうだい」
ヨハンナは立ち上がった。
「コンラート様。数えさせていただきます」
「数える?」
「わたくしが七年でお出しした招待状と、いただいたお返事でございます」
「そんなものを、なぜ今」
「あなた様がお訊ねになったからでございます」
「僕は何も訊いていない」
「七年、一度も求めなかったかとお訊ねでございました。お答えいたします」
ヨハンナは一冊目を開いた。
左の頁に招待状の写し。右の頁に返事。それが一組ずつ並んでいる。
「一年目。十一枚お出しいたしました。お越しは二回」
「二年目。十三枚。お越しは二回」
「三年目。十二枚。お越しは一回」
「四年目。十三枚。お越しは二回」
コンラートが遮った。
「……もういい」
「五年目。十二枚。お越しは一回」
「もういいと言っている」
「六年目。十四枚。お越しは二回」
ヨハンナは七冊目を開いた。
「七年目。十四枚でございます。お越しは、本日で一回」
彼女は顔を上げる。
「合わせて八十九枚。お越しは十一回でございます」
食堂の空気が動かなくなった。
ヨハンナは頁に指をかけたまま、そこで一度止まった。
声は落ち着いている。落ち着かせている。七年、この数を口に出したことは一度もない。数えたこともない。数えれば口に出したくなると分かっていたからである。
いま、はじめて口に出している。
指が震えていた。頁が細かく鳴るので、ヨハンナはその手を紙の上に伏せた。
「残る七十八回は、お断りをいただいております。七十八通、ここに」
「一通も捨てておりません。ヴァイセンベルク家では、捨てないことになっておりますので」
コンラートは動かなかった。
「……八十九回」
「はい」
「僕は一枚も見ていない」
彼はそう言った。声が変わっている。
「一枚もだ。屋敷に届いたものを、僕は見ていない」
「七年、屋敷にお届けしております」
「見ていない!」
コンラートが立ち上がった。杯が倒れて、葡萄酒が布に広がった。
「侯爵。これは、今日作らせたものだろう」
父が名を呼んだ。
「コンラート殿」
コンラートは聞いていない。
「七冊など、いくらでも作れる」
「それはありません」
声がしたのは、左手の席からである。
ダールベルク伯である。マティアス・フォン・ダールベルク。隣領の伯爵で、二十七歳である。堤の普請と橋の取り決めで、七年前からこの家に出入りしている人だ。
「ダールベルク卿。あなたに何の関わりがある」
「同じ晩に、私も招かれておりますので」
ダールベルク伯は懐から一枚を出して、卓に置いた。
「今宵の招待状でございます。半月前に頂戴いたしました」
誰も口をきかない。
「日付も紙も筆も、そちらの綴りに挟んである写しと同じものです」
「……一枚あったところで」
「七年分をお持ちしましょうか」
ダールベルク伯は侯爵のほうを一度見た。
「うちにも綴じてございます。侯爵家ほど律儀ではございませんが、届いたものは残っております」
「……」
「今日作らせたものかどうかは、私の家の紙をご覧になれば済みます」
ダールベルク伯はそれきり口を閉じた。
ヨハンナは一冊目に手を置いている。左の頁の、一枚目である。七年前に書いたものだ。
婚約が決まったのは、ヨハンナが十四のときである。
ヴァイセンベルク侯爵家とメールバッハ伯爵家の縁組で、家格は釣り合わない。侯爵家のほうが上である。それでも父が受けたのには理由がある。メールバッハ家の領地が川を挟んだ向こう側にあり、堤と橋の取り決めを一つにまとめたかったからだ。
ヨハンナの気持ちを訊く者はいない。
それが当たり前だとヨハンナは思っている。侯爵家の娘とはそういうものだ。
ふた月後、はじめての招待状を書いた。宛先はコンラートである。文字を間違えないように、三度下書きをした。
その一枚は今も、一冊目の一枚目にある。几帳面すぎて、かえって読みにくい字だ。
返事は五日後に来る。
妹の容体が思わしくなく、伺うことがかないません。
次の月にもう一枚書いた。同じ返事が来る。その次も同じである。
七十八通は、どれも同じ手で書かれている。コンラートの字ではない。
書記か家令のものだろうとヨハンナは思っている。大きな家の断り状はたいていそうである。主の字が入るのは、断らないときだけだ。
だから、誰の手かを確かめたことはない。確かめる理由がない。
四通目を出したあと、ヨハンナは礼拝の帰りにコンラートを見かけた。
四通目の返事も、もう来ている。同じ一文である。それでも、顔を見たら言えた。
「今度の日曜、お待ちしております」
コンラートは少し考えてから頷いた。
屋敷に戻って、ヨハンナは同じ日付の招待状を書いた。五通目である。
口で決めた日でも、紙にして残す。ヴァイセンベルク家ではそうすることになっている。
この一枚に、返事は来なかった。
その晩、彼は来る。
十五歳のコンラートは背が低くて、早口だ。庭の池を見て、鯉は食えるのかと訊いた。食べませんとヨハンナが答えると、つまらなそうな顔をした。
その日、ヨハンナは嬉しかった。四度断られたあとで、はじめて来てくれたからである。
紙では来ない人が、口で言えば来る。
そのときヨハンナは、そういうものだと思っただけである。
そして、その晩に一つだけ願いを持った。
いつかこの人が、招かれなくても来てくれるようになればいい。
それが夫婦というものだと、ヨハンナは思っている。
七年、その願いは叶わない。
コンラートは来るたびに妹君の話をした。今朝の熱がどうだった。夜はよく眠っている。粥を半分残した。
ヨハンナはそれを聞いて、優しい人なのだと思っている。妹思いの方だ。病人を置いて出てこられないのも無理はない。
婚儀の日取りは四度決まって、四度延びた。
四度目は去年、二十のときである。
四度とも、メールバッハ伯爵家から正式な申し入れ状が来た。下に伯爵の印が押してある。
理由は四通とも同じだ。
娘の容体が思わしくなく、婚儀の支度がととのいません。
「お父様。四度目でございますよ」
「わかっている」
「お断りになりますか」
「断れんよ」
父は書状を畳んだ。
「病人を理由にされている。断れば、こちらが薄情になる」
「さようでございますね」
「侯爵家は薄情であってはならん」
同席したのはメールバッハ伯爵とコンラート、それに双方の家令である。伯爵が事情を述べ、父が了承した。それで終わるはずだった。
終わりぎわに、コンラートが言った。
「ヨハンナ嬢は、よく待ってくださる」
ヨハンナは顔を上げた。
「四度でございますね。気を悪くはしておりません」
「気の長いことだ」
誰かが笑った。伯爵側の家令である。それにつられて、もう一人が笑った。
コンラートが続けた。
「妹が申しておりました。ヨハンナ嬢はお優しいから、いくらでも待ってくださると」
今度は三人が笑った。
父の顔が動いた。何か言おうとして、やめたのが分かる。ここで言えば、婚儀の話が壊れるからだ。
ヨハンナは父を見ない。見れば、父に言わせることになる。
笑いは長くは続かなかった。ただ、確かに起きた。
ヨハンナは背筋を伸ばしたまま答えた。
「待っております」
「熱心なことだ」
「婚約とはそういうものでございますので」
その場ではそれで済んだ。ヨハンナは覚えている。
この人は妹君と、わたくしがどれだけ待つかを話している。臥せっている方と、そういう話をしている。
二十一になる。
同じ年の娘たちは、たいてい二人か三人の子を持っている。
十六で社交界に出た年、ヨハンナは同じ年の娘を十三人知っていた。そのうち十二人が二十歳までに嫁いでいる。残る一人は修道院に入った。
嫁いでいないのはヨハンナだけだ。
はじめのうちは、誰も何も言わなかった。婚約者のある娘に余計な口をきくのは無作法だからである。
十八を過ぎたあたりから、言い方が変わった。お幸せそうで。ご婚儀はいつ頃に。訊いたあとで、相手が困った顔をした。
二十を過ぎると、誰も訊かなくなった。
訊かないというのは、答えを察したということである。
ヨハンナは何も言わずに、招待状だけを書き続けた。
ただ、半年前に一度だけ申し出た。
教会の前でコンラートに会ったときのことだ。月に一度の礼拝である。
「コンラート様」
「やあ」
「妹君のご容体は、いかがでいらっしゃいますか」
「よくないね。この頃はずっと臥せっている」
ヨハンナは一つだけ頼んだ。
「お見舞いにうかがってもよろしゅうございますか」
コンラートの返事は早かった。
「いや、それはやめておこう」
「ご迷惑でございましょうか」
「妹は人に会いたがらない。痩せたところを見られたくないのだろう」
彼はそう言った。それから、こう続けた。
「君は優しいな」
ヨハンナは一礼して、それ以上は言わなかった。
重ねて頼めば、看病を疑っていることになる。
だから、そこで止めた。
七年のあいだに、妹君にお会いしたいと申し出たのはこの一度きりである。
会えないのなら、せめて何か届けようとヨハンナは思った。
その月のうちに、蜂蜜と干した果実を籠に詰めて送った。臥せっている方が食べやすいものである。
妹君のネーレから、はじめての礼状が来た。
字がきれいで、言葉の選び方に品がある。結びにはこう書いてあった。
わたくしの手は、これくらいのことしか役に立ちません。
ヨハンナはそれを読んで、しばらく手に持っていた。
この字を知っている。
いま、その字は卓の上にある。
「コンラート様。もう一つ、申し上げたいことがございます」
「……なんだ」
「お断りの七十八通でございますが」
ヨハンナは四通を抜いて、卓に並べた。一年目から一通。三年目から一通。五年目から一通。最後の年から一通である。
「読んでくださいませ」
コンラートは動かなかった。代わりに司祭が身を乗り出して、それを覗き込んだ。
「……妹の容体が思わしくなく」
司祭は次の紙に目を移した。
「妹の容体が思わしくなく」
「妹の容体が思わしくなく」
「妹の容体が思わしくなく」
四通目を読み終えて、司祭は口をつぐんだ。
「七十八通とも同じでございます。七年で七十八回、一字も違えずに」
「それが何だと言うんだ」
コンラートの声が高くなった。
「妹は病気だ。ずっとだ。同じ理由になるのは当たり前だろう」
「はい」
「では何が言いたい」
「筆でございます」
ヨハンナには一つ得意なことがある。人の字を見分けることだ。
修行をしたわけではない。招待状の写しと返事を綴じる仕事を十四のときから続けていると、同じ人の字を何十通も見ることになる。そのうち、書いた人が違えば分かるようになる。
ヨハンナは一通を持ち上げた。
「七十八通は、どれも同じ手で書かれております。あなた様のお手ではございません」
「書記が書いたのだろう」
「わたくしも、六年はそう思っておりました」
ヨハンナは一通を彼のほうへ回した。
「どなたのお手でございましょうか」
コンラートは紙を受け取った。受け取って、見た。
それきり動かなくなった。
「……コンラート様」
「……」
「どなたのお手でございましょうか」
彼は紙から目を上げない。
喉が動いた。声にならずに、もう一度動いた。
「……十一年だ」
やっとそれだけ言った。
「十一年、同じ家にいる。毎日見ている字だ。見間違えようがない」
「どなたでございますか」
「……妹だ」
ヨハンナは頷いた。
「わたくしも、そう存じております。半年前から存じておりました」
コンラートが顔を上げた。
ヨハンナは扉のほうへ声をかけた。
「ヘルムート。書斎の抽斗から一通持ってきてちょうだい。ネーレ様からのお手紙」
家令はすぐに戻ってきた。一枚きりである。
半年前に見舞いを断られたあと、ヨハンナが送った籠の礼状である。
ヨハンナはそれを断り状の横に並べた。
「ご覧くださいませ。跳ねが同じでございます。行の終わりの落ち方も同じでございます」
彼女は指で二枚をなぞった。
「わたくしがネーレ様のお手を存じておりますのは、この一通があるからでございます。七年で、いただいたお手紙はこれきりでございます」
「……」
「半年前に並べました。並べて、こう思ったのでございます」
ヨハンナは顔を上げた。
「臥せっておいでの妹君が、兄君の代わりにお返事を書いておられる。ご立派なことだと」
誰も口をきかない。
「そう思っておりましたのは、今夜まででございます」
「……」
「あなた様は、一枚も見ていないと仰せになりました」
ヨハンナは礼状を置いた。
「では、妹君はあなた様の代わりにお書きになったのではございません。あなた様にお見せもせず、お断りするとご自分でお決めになったのでございます」
「……」
「代わりに書くことと代わりに決めることは、別のことでございます」
コンラートは何も言わなかった。
「それから、こちらもご覧くださいませ」
ヨハンナは別の綴りから四枚を出した。婚儀の延期を申し入れる正式な書状である。
「延期のお申し入れも四通ございます。伯爵閣下の印がございますが、字は同じ手でございます」
「父の書状だ」
「印は閣下のものでございましょう。手は違います」
ヨハンナは断りの七十八通の上に、四通を重ねて置いた。
「お断りが七十八通。延期のお申し入れが四通。合わせて八十二通、すべて同じ手でございます」
「……代筆だろう」
「はい。代筆でございましょう。わたくしは、代筆を悪いこととは存じません」
ヨハンナはコンラートから目を離さない。
「母方の大叔母は目を悪くしてから、侍女に書かせております。当家はそれを承知でお招きしております」
彼女は四通を脇へよけた。
「こちらの四通には閣下のお印がございます。閣下にうかがうべきことでございますので、いまは措きます」
「……」
「残る七十八通は、あなた様のお名前で出ております」
ヨハンナは七十八通に手を置いた。
「ですが、代筆とは頼まれて書くものでございます」
「……」
「あなた様は、お頼みになりましたでしょうか」
コンラートは答えなかった。
答えられないのである。頼むためには、招かれたことを知っていなければならない。この人は一枚も知らなかった。
「あなた様がいらしたのは、本日で十一回でございます。本日を除く十回は、すべてわたくしが直にお誘い申し上げた回でございました。舞踏会で。狩りの集まりで。教会の前で」
ヨハンナは指を折った。
「その場で日を申し上げて、その日にいらっしゃいました。屋敷に戻ってからは、同じ日付の招待状も出しております。十回とも、そうでございます」
「……」
「紙でしかお招きしなかった七十八回に、あなた様は一度もいらっしゃいません」
「そんなはずは」
「では、本日はいかがでございましょう」
コンラートが顔を上げた。ヨハンナはその顔を見ている。
「本日、わたくしはあなた様にお目にかかっておりません。お誘いの言葉も申し上げておりません」
ヨハンナは八十九枚の写しに手を置いた。
「本日は、紙でお招きいたしました。そして、あなた様はいらっしゃいました」
「……」
「七年で八十九枚でございます。お手に届いたのは一通きりだと、あなた様は仰せになりました」
コンラートは答えない。ヨハンナは答えを待たずに続けた。
「七年一枚も届かなかった紙が、今宵だけ届いております」
彼女は言葉を切った。
「どなたがお渡しになったのでしょうか」
コンラートの唇が動いた。声にはならない。
彼はゆっくりと顔を上げた。そして、ヨハンナではないほうを見た。
壁際である。
晩餐のあいだ、そこに立っていた給仕の娘のほうを。
給仕の娘は壁際に立ったままである。
盆を胸の前に抱えて、目を伏せている。晩餐のあいだコンラートの杯が空くたびに注ぎ、そうして立っている。誰も気に留めていない。見知らぬ顔は、供の給仕と区別がつかない。
「ネーレ」
コンラートが言った。
娘が顔を上げた。
ヨハンナは立ち上がりかけて、途中で止まった。
目の前にいるのは、痩せても青くもない娘である。細いが、弱くは見えない。
ネーレは、メールバッハ伯爵が後添えを迎えたときに連れてきた娘だと聞いている。母親は八年前に亡くなり、それからは奥向きの文の出し入れを引き受けているという。病を理由に、社交の場へは一度も出たことがない。
だから、この屋敷の誰も顔を知らない。
「お前が書いたのか」
コンラートの声がかすれていた。
「僕に一言も言わずに、お前が書いたのか」
ネーレは盆を置いた。それから、兄をまっすぐに見た。
「はい」
それだけである。
言い訳をする顔ではない。詫びる顔でもない。ヨハンナはそう思った。
「ネーレ様」
呼んでから、ヨハンナは息をひとつ入れた。落ち着かせるためである。
「ネーレ様で、いらっしゃいますか」
「……はい」
「七年、床にお臥せりとうかがっておりました。お目にかかるのは今宵がはじめてでございます」
ネーレは答えなかった。
答えないので、ヨハンナは続けた。
「その方が、今宵はひと晩あそこに立っておられました。兄君の杯に注ぎながら」
「……」
「痩せたところを見られたくない方の、なさることではございませんでしょう」
ネーレは目を伏せない。ヨハンナはその目を見たまま訊いた。
「今宵、なぜこちらにいらしたのでしょうか」
「兄様のお供でございます」
「供に給仕の身なりは要りません」
ヨハンナは壁際を手で示した。
「お顔を知られたくなかったのでございますね。この家の者に、ご容体のよいあなた様を見られては困りますので」
「……」
「それでも、いらっしゃった」
ネーレは口を開いた。開いて、すぐには言わなかった。それから、言った。
「見ておきたかったのです」
「何をでございましょう」
「兄様が、あなた様と終わるところを」
誰も口をきかなかった。
「今宵の一枚をお渡ししたのは、わたしです」
ネーレは兄のほうを見ずにそう言った。
「七年で、一枚だけでございます」
「……お前が」
「兄様のお手にお乗せしました。婚約の解消をお申し出になるなら晩餐の日になさいませ、とも申し上げました。お客様の前でなら、あちらの方はもう何も言えませんと」
「ネーレ」
「兄様もそれがよいと仰いました」
コンラートは何も言わない。
七年、この人は一枚も渡さなかった。今宵だけ渡した。渡せば婚約が終わると分かっていたからである。
そして二人は、わたくしが人前で捨てられるところを見に来た。司祭がいて棟梁がいて隣領の伯爵がいる席を選んだのも、そのためだ。
そして一人は、給仕の身なりで立っていた。
「ネーレ様」
「……」
「あなた様は、兄君と一緒になりたかったのでございますね」
ネーレの肩が、はじめて動いた。
「わたしと兄様は、七年になります」
ネーレは兄を見たままである。
「兄様の朝は、わたしの部屋から始まります。七年、ずっとでございます」
「ネーレ」
「婚儀が四度延びた晩も。あなた様がお待ちだった晩も。みなそうでございました」
コンラートが一歩下がった。
「ネーレ。よせ」
「なぜでございますか。兄様もお望みだったでしょう」
ネーレは兄を見た。
「わたしと兄様は血がつながっておりません。それでも、兄と妹として届けられております」
彼女はヨハンナのほうへ向き直った。
「同じ家で兄と妹として育った者が一緒になると申し出て、どなたが許してくださいます。父も教会も社交界も、誰一人おりません」
「……」
「ですから、婚儀さえなければよろしいのです。兄様が誰とも一緒にならなければ、あの家にはわたししかおりません」
ネーレはそこで、はじめて笑った。
「七年、そうしてまいりました。うまくいっておりました」
「……」
「ですが、あなた様はお待ちになるのをおやめにならない」
笑いが消えた。
「二十一におなりになっても、まだお招きになる。このままでは、いつまでも終わりません」
「……」
「ですから、七年で一枚だけお渡ししました」
食堂の誰も動かなかった。
ヨハンナはネーレを見ていた。
この人は詫びない。詫びるつもりで来ていないからである。見物に来た人が、見物される側になった。それだけのことだ。
それで失ったヨハンナの七年が返るわけではない。
「ネーレ様。お手紙の結びに、こうお書きでございました」
ヨハンナは礼状を持ち上げた。
「わたくしの手は、これくらいのことしか役に立ちません」
「……」
「ご謙遜には及びません。妹君のお手は、七十八回役に立っております」
ネーレの顔が、はじめて崩れた。
崩れたのは口のあたりである。詫びるかたちに動いて、途中で止まった。
止めたのだ、とヨハンナは思った。
ヨハンナは言葉を切る。切ってから、続きが出てこないことに気づいた。
言うべきことは全部言った。証拠も出してある。数も合っている。
それでも足りない。何が足りないのかは分かっている。七年である。二十一になるまでの七年で、この人が取っていったものである。
返してもらう方法はない。
「妹君のお手は、七十八回役に立ちました」
同じことを、ヨハンナはもう一度言った。
「わたくしの七年分でございます」
声が、そこで少しだけ崩れた。
崩れたのは一言だけである。ヨハンナは息を整えて、綴りを閉じた。
答えはない。
翌日、両家の席が持たれた。
メールバッハ伯爵が来ている。昨夜のことは聞いている、という顔だった。
馬車は表に停めたままである。ヨハンナは窓から一度だけそちらを見た。
幌の下に人が座っている。降りてこない。降ろされないのだと分かる。
昨夜、この屋敷の誰もその顔を知らなかった。今日は、屋敷じゅうが知っている。
「侯爵。昨夜のことは、息子が興奮していたと聞いております。婚約の解消は、なかったことに」
「閣下。その前に、うかがいたいことがございます」
ヨハンナが言った。伯爵は少し驚いた顔である。娘が口を開くと思っていなかったのだろう。
「四通の申し入れ状でございます。閣下の印がございました。昨夜、閣下にうかがうと申し上げております」
「……押した。四度とも押しておる」
「お読みになりましたか」
伯爵はすぐには答えなかった。
「読んだ」
「では、うかがいます」
ヨハンナは四通を並べた。
「ご息女のご病名は、なんとお書きでございましたか」
「……」
「四通のどこにも、病名は書いてございません。娘の容体が思わしくなく、とだけでございます」
伯爵は四通を見ない。
「……書式の話だ。ああいう申し入れに病名は書かん。書かんものだ」
「さようでございますね」
ヨハンナは頷いた。
「では、書式でお困りになることはございません。うかがいたいのは別のことでございます」
彼女は伯爵を見た。
「閣下は、婚儀を延ばしたいとお思いだったのではございませんか」
伯爵の手が止まった。
「……何を言う」
「四度とも、こちらから延ばしてくれと申し上げたことはございません。四度とも、そちらからでございました」
「……」
「本当のところは、支度の金がなかったからではございませんか」
「侮辱するのか」
伯爵が卓を叩いた。
「わしの家の内証を、侯爵家の娘が知った風に言うな」
「わたくしは存じません」
ヨハンナは伯爵から目を離さない。
「ご存じの方が、こちらにいらっしゃいます」
ダールベルク伯が席を立った。昨夜と同じ、左手の席からである。
メールバッハ伯爵が顔を上げた。
「ダールベルク卿。あなたに何の関わりがある」
「堤でございます」
ダールベルク伯はそう言って、束にした紙を卓に置いた。
「川は両岸のものですので、普請の費えは両家で折半という取り決めがございます」
「知っておる」
「七年、メールバッハ家からの入りがございません」
伯爵の顔が変わった。ダールベルク伯は構わずに続けた。
「七年分をこちらで立て替えております。金貨で三百十枚。これがその受取でございます」
ダールベルク伯は紙の束を押し出した。
「催促は年に一度、書面で差し上げてまいりました。七通ございます。七通とも、お返事はいただいておりません」
「……」
「私は取り立てに来たのではありません。堤は落ちれば両岸が沈みます。ですから黙って払いました」
ダールベルク伯はメールバッハ伯爵を見た。
「ですが、払えぬ家に婚儀の支度ができるとは思えませんでした」
伯爵は何も言わない。
ダールベルク伯は続けた。
「メールバッハ家の一年の実入りは、金貨でおよそ二千枚とうかがっております」
「侯爵家との婚儀は、その一年分では足りません。閣下はそれをご存じのうえで、七年も日を延ばしてこられた」
「……」
「言えば内証が知れます。縁組が流れます。ですから、別の理由が要りました」
ヨハンナは伯爵のほうへ顔を戻した。
「そこへご息女が、ご自分の病を差し出されました」
「……」
「閣下はそれをお使いになった。病人ではないとご存じのまま、四度お使いになった」
伯爵は口を開いて、閉じた。
ここで父が口を開いた。
「メールバッハ殿。一つだけ道がある」
「……侯爵」
「印はお押しになった。だが中身はご息女に任せきりで、確かめておられなかった。そう申し立てられよ」
父は書付を卓に置いた。
「家の落ち度は不行き届きにとどまる。企てたのは一人の者ということだ。婚約の解消は双方の合意とし、違約金は請求せん。当家はそれで構わん」
ヨハンナは父を見た。父はヨハンナを見ていない。
代わりに書くことと代わりに決めることは、別のことでございます。
昨夜そう申し上げたのは、ヨハンナである。
伯爵が息を吸った。助かった、という顔をしていた。
娘一人に負わせれば家が残る。
「コンラート。お前がそう言え。お前が知らなかったと」
「……父上」
「言えばよい。事実であろう」
コンラートは答えなかった。
彼は昨夜からずっと、同じところを見ている。卓の上の八十二通である。
伯爵がもう一度呼んだ。
「コンラート」
「妹は、僕のために書いた」
彼はそう言った。
「僕が返事を書かせていた。忙しいときは頼んでいた。妹は言われたとおりにしただけだ」
「何を言うか」
「妹ひとりの企てではない。メールバッハ家の届けだ」
伯爵が立ち上がった。
「黙れ。お前は知らなかったのだろう」
「知っていた」
コンラートは父を見ずにそう言った。
伯爵は座らなかった。立ったまま、息子の横顔を見ている。
見ているうちに、手が卓についた。体を支えるためである。
助かった、という顔はもうない。
嘘である。この人は昨夜まで一枚も知らずにいた。昨夜あの食堂にいた誰もが、それを見ている。
それでも彼はそう言った。
ヨハンナは彼を見ていた。
七年、この人は一度も自分から来なかった。
その人が、いま一分でこれを決めた。
守るものが決まっている人なのだと思った。ずっと決まっていたのだろう。
父が息を吐いた。
「……そうか」
「お父様」
ヨハンナが言った。
「請求してくださいませ。証書のとおりに」
父はヨハンナを見た。それから、書付を取り上げた。
「では、家の届けとして扱う。証書の条項どおり、違約金を請求する。代理人を明日そちらへ遣わす」
「侯爵。話し合いを」
「四度話し合った」
父はそれだけ言った。
「四度とも、こちらが折れた。五度目はない」
伯爵は何も言わなかった。
帰りぎわ、伯爵は馬車のところで足を止めた。幌の中に向かって何か言っている。長くはない。
馬車が門を出るまで、幌の中の人は一度も外を見なかった。
見ておきたい、と言った人である。
違約金の請求は、七日後に正式に出された。
証拠として出したのは、綴り七冊の該当箇所の写し。断りの返事七十八通。延期の申し入れ状四通。それに、ネーレからヨハンナへ宛てた礼状一通である。
メールバッハ伯爵家は争わなかった。
争うには、八十三通が偽りだと申し立てるほかない。
八十三通はすべて同じ手である。うち一通にはネーレの名がある。残る八十二通を書いた者が誰かは、それで足りる。
前の晩に、当主の嫡男が自分の口でそう認めてもいる。
争えば負ける。負ければ費えだけが増える。
違約金は金貨で四千二百枚である。証書に書いてある額に、七年分の利がついている。メールバッハ家の一年の実入りの、二年分にあたる額だ。
払える家ではない。
メールバッハ家の領地には、村が十九ある。一年の実入りが二千枚というのはその十九からの上がりで、家に残る分ではない。
まず、ダールベルク伯への未払いが清算された。三百十枚の受取が公文書に載った以上、見て見ぬふりを続ける理由がなくなったからである。
その支払いに、川沿いの二つの村が渡された。
違約金の四千二百枚は、まだ手つかずである。
そして書面が公になると、待っていた者が動いた。
メールバッハ家に金を貸していたのは、ダールベルク家だけではなかったからである。
証文を持つ者が順に来る。取れる者から順に取っていった。
村が十七、人手に渡った。
屋敷が売られた。銀器も馬も蔵書も別に売られている。値のつくものから順に出したからである。
メールバッハ伯爵は、その冬に亡くなった。
爵位だけが残った。爵位は食えない。
ネーレの手紙は写しが公文書に残った。
七年にわたって臥せっていたという記述が、七十八通ぶん残っている。日付も入っている。
その七十八通を書いた手の持ち主が侯爵家の晩餐でひと晩立っていたことも、同じ書面に載った。
書いた本人が一番よく知っているとおり、どちらか一方は嘘である。
二人は同じ家に残った。
屋敷を失った伯爵家に娘をやる家はない。七年病んでいたことになっている娘を娶ろうという家もない。二人は売られずに残った小屋へ移った。畑が一枚ついている。
畑は二人のどちらも耕したことがない。
婚姻の届けは出ていない。出せるものではない。許す者は父も教会も社交界も誰一人いないと、ネーレ自身がそう言った。
だから二人は、これから先もずっと兄と妹である。
ネーレは七年、兄を独りにしておくために書き続けた。いまは独りにしなくてよい。
同じ屋根の下に二人しかいない。話す相手も、二人しかいない。
妻にはなれない。妹をやめることもできない。出ていく先もない。
欲しかったものを手に入れると、それしかなくなる。
それが三十年か、四十年続く。
秋の終わりに、ヨハンナは一度だけ二人を見た。
街道沿いの市である。堤の普請の帰りに寄って、麻紐を見ていたときだった。
乾物の台のところに男が立っている。値を訊いて、買わずに離れた。
その三歩うしろに女がいた。籠を持っている。籠は空である。
二人とも痩せている。着ているものは悪くない。仕立てのよいものが古びると、そう見える。
女が何か言った。男は振り返らなかった。
もう一度言うと、今度は振り返った。
女が身をすくめる。振り返られただけで、そうなる者の動きである。
男が先に歩き出す。女は三歩うしろについていく。
その距離は、はじめから決まっているように見える。
ヨハンナは声をかけなかった。向こうも気づかない。
ネーレが七年かけて手に入れたのは、あの三歩である。
兄の隣に並ぶ位置ではない。振り返られれば身をすくめる、うしろの位置である。
七十八通と四度の延期を書いて、手に入れたのがそれである。
その冬、ヨハンナのもとへ一通の手紙が来た。
差出人はネーレである。
封を切ると、四行あった。あの日のことを詫びる文が一行。兄と暮らしている、という文が一行。もう一行は、いまの暮らしがいかに苦しいかであった。
最後にこう書いてある。
わたくしの手は、これくらいのことしか役に立ちません。
ヨハンナは読み終えて、それを同じ抽斗にしまった。二通目である。
詫びる文が一行あった。苦しいと書いた文も一行あった。どちらが本文なのかは、書いた本人が知っている。
返事は書かなかった。
コンラートからは、何も来ていない。
冷たい人だと言われたことは、いまも取り消されていない。あの晩の席にいた者は、みなそれを聞いている。
ヨハンナは訂正を求めなかった。求めれば、また待つことになる。
冬になって、ヨハンナは書庫に入った。
綴り七冊を出して、卓に並べた。代理人に渡した写しは戻ってきている。
もう一度、最初から繰った。十四歳の自分が書いた一枚目から順にである。
繰りながら、ヨハンナは枚数を数えていた。八十九という数が正しいかどうかを確かめたかったからだ。そのあいだに、客の名前まで見た。
司祭は八十九回のうち六十四回。棟梁は五十一回。母方の大叔母は三十回。
三年目のあたりで、手が止まった。
欠席の返事が一通もない名前がある。
ヨハンナは最初の年から順に確かめた。二年目。三年目。四年目。
どの年にも、その名前がある。
五年目の冬は雪が深く、街道が三日ふさがっている。あの晩の客は三人しか来ていない。その三人のなかにも、その名前がある。
六年目の夏には熱病が流れている。司祭も来ていない。
その晩にも来ている。
八十九回、全部だ。
ヨハンナは綴りを閉じた。
七年、同じ食堂にいた人である。左手の、暖炉に近い席だ。顔も声も知っている。堤の普請の話も、橋の板の話も聞いた。
気づかなかった。
七年のあいだ、ヨハンナはずっと戸口を見ていたからである。馬車の音がするたびに、そちらを見た。だから、もう座っている人のことは見ていない。
招かれなくても来てくれる人がいればいい。七年前に、ヨハンナはそう願った。
その人は、招かれるたびに来ている。八十九回とも来ている。
願ったものとは違う。だが、七年欠かさず来る人をヨハンナはほかに知らない。
ヨハンナは机に紙を置いた。インクを取って、宛名を書いた。
マティアス・フォン・ダールベルク伯爵。
字は自分で書く。七年、ずっとそうしてきた。
扉が開いて、ヘルムートが顔を出した。
「お嬢様。書庫は冷えます」
「もう少しおります」
「かしこまりました」
「ヘルムート。封蝋の支度をしてちょうだい」
「かしこまりました。……お嬢様」
「なに」
「何枚目でございましょう」
ヨハンナは書き終えた紙を持ち上げた。
「わたくしは、九十回目をお出しいたします」




