英雄の俺、オーガの姫と出会い、共存のために英雄をやめることを決めた
俺の名はアベル。
魔物を斬り、人々を救う者。
いつしかそう呼ばれるようになった――英雄だ。
もっとも、その名に相応しい人間かどうかは分からない。
ただ一つ言えるのは。
俺が剣を振るう理由は、昔から変わっていないということだ。
――誰かに笑っていてほしかった。
泣いている人間がいるなら、救いたかった。
それが、子供の頃に憧れた“英雄”だったからだ。
だから俺は、魔物を斬る。
人を襲う存在を、この手で討つ。
それが正しいと、そう教えられてきた。
……仲間を、魔物に殺されてからは、なおさら。
迷いはなかった。
あの日までは。
今日も、いつも通りの依頼を受けた。
オーガの群れの討伐。
特別なことは何もない。
魔物を斬り、報酬を得る。
――それが、俺の日常だ。
この日も、同じように終わるはずだった。
だが。
「どうして襲うのですか! 私は平和に生きたいだけなのに!」
目の前にいたのは、言葉を叫ぶオーガだった。
――いや。
オーガの、姫だった。
他の個体とは明らかに違う。
細身の体躯に、纏う魔力の濃さ。
そして何より、その瞳。
理性を宿したそれが、真っ直ぐに俺を睨みつけていた。
「答えてください、人間……! どうして、襲ってくるのですか……!」
震えている。
怒りか、それとも――別の感情か。
理解が追いつかない。
魔物は、人の言葉を話さない。
理性も、感情も持たない。
それが、この世界の常識だ。
だが、目の前の存在は違う。
「……魔物が、喋るはずがない」
思わず、そう呟いていた。
次の瞬間。
地を蹴る音が響く。
「――ッ!」
振り下ろされた一撃を、咄嗟に剣で受け止める。
重い。
だが、速い。
ただ力任せに振るうだけの他のオーガとは違う。
明確な意思と技がある。
弾き、距離を取る。
「……なのに、なんでお前は言葉を喋るんだ」
口をついて出たのは、問いだった。
「こちらの問いに答えてください!」
即座に返ってくる声。
怒りに満ちているはずなのに、その奥に別の色が混じっている。
再び、踏み込んでくる。
速い。
剣筋は鋭く、無駄がない。
受け流し、いなし、距離を取る。
――強い。
これまでのオーガとは、明らかに違う。
その視線が、わずかに逸れる。
――地面へ。
そこに転がるのは、先ほどまで動いていたオーガたちの亡骸。
沈黙が落ちる。
ぎり、と。
小さく、歯を食いしばる音が聞こえた。
「……あなたが、やったのですか」
低く、押し殺した声。
問いかけというより、確認。
その指先が、わずかに震えている。
「……ああ」
否定はしなかった。
する意味も、ない。
依頼だった。
討伐対象だった。
――それだけのはずだった。
「そう、ですか」
ぽつりと、零れる。
その唇が、強く噛み締められる。
血が滲むほどに。
「なら、やはり――あなたは敵ですね」
顔を上げた瞳には、先ほどまでとは違う色が宿っていた。
怒り。
悲しみ。
そして――覚悟。
「来なさい、人間」
静かに、しかし確かに告げる。
「ここで、終わらせます」
踏み込みと同時に、刃が迫る。
速い。
だが――見える。
これまで斬ってきたどの魔物よりも鋭い。
それでも、俺にとっては対処できる範囲だった。
受け流し、懐へ潜り込む。
剣を振り上げる。
首筋は、がら空きだった。
――斬れる。
そう判断した瞬間。
止まった。
「……っ」
自分でも、理由が分からない。
ただ。
ほんの一瞬前に見た表情が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
倒れたオーガたちを見たときの、あの顔。
怒りだけじゃない。
――あれは、悲しみだった。
剣が、振り下ろせない。
ほんの一瞬の停滞。
その隙を、見逃す相手じゃなかった。
「――甘い!」
鋭い踏み込み。
「ッ!」
咄嗟に引いた刃の代わりに、肩口を掠められる。
浅い。だが、確かに届いた一撃。
距離を取る。
血が、じわりと滲む。
「どうしたのですか!」
追撃。
「先ほどまでの勢いは!」
振るわれる刃は、止まらない。
迷いなど一切ない、殺すための連撃。
――いや。
違う。
その奥にあるのは、怒りだけじゃない。
押し殺した何かを、振り払うような動き。
「……っ」
受け流し、いなし、間合いをずらす。
強い。
確実に、こちらを仕留めに来ている。
――なのに。
あの表情が、離れない。
倒れたオーガたちを見たときの、あの顔が。
踏み込みが来る。
今度は、深い。
狙いも正確だ。
――これ以上、長引かせるべきじゃない。
判断が、切り替わる。
刃を滑らせ、軌道を逸らす。
そのまま懐へ。
距離は、十分。
振り上げる。
――だが。
振り下ろしたのは、刃ではなかった。
柄だ。
鈍い音が響く。
「……ぁ」
小さく声が漏れ、オーガの姫の身体が崩れる。
そのまま、地面へと倒れ込んだ。
どれくらい時間が経ったのか。
小さく、息を吸う音がした。
「……っ」
瞼が、ゆっくりと開く。
視線が揺れ、焦点を探すように彷徨う。
そして――俺を捉えた瞬間。
「――っ!」
反射的に身体を起こそうとする。
だが、力が入らないのか、すぐに崩れた。
「動くな」
短く告げる。
「……殺さない」
自分でも、少し妙な言い方だと思った。
だが、それ以外にどう言えばいいのか分からなかった。
オーガの姫は、しばらく黙って俺を見ていた。
警戒は解いていない。
だが、先ほどのような殺気はない。
「……なぜ」
ぽつりと、零れる。
「なぜ、止めたのですか」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「……分からない」
結局、出てきたのはそれだけだった。
嘘ではない。
本当に、分からなかった。
「……そう、ですか」
それ以上は追及してこなかった。
ただ、小さく視線を落とす。
その先にあるのは、倒れたオーガたち。
沈黙が落ちる。
「……一つ、聞かせてくれ」
静かに口を開く。
「どうして、お前は言葉を話せる」
視線が、戻る。
まっすぐに、俺を見る。
「……私が話せるのは」
わずかに、言葉を区切る。
「オーガの中でも、特に知能を持って生まれたからです」
淡々とした声音。
だが、その奥にはどこか張り詰めたものがあった。
「……稀に、いるのです」
「魔物の中にも、人のように考え、理解できる個体が」
ぽつり、ぽつりと続く。
「多くはありません」
「ほとんどは、本能のままに動くだけです」
その言葉は、自分の種を切り分けるようでもあった。
「ですが……確かに、存在します」
小さく、息を吐く。
「私は、その一人だった」
視線が、ゆっくりと下がる。
倒れたオーガたちへと。
「だから」
「せめて、この子たちだけでもと思ったんです」
「人間に見つからない場所で」
「争わずに、生きていけるように」
唇が、わずかに震える。
「……それだけだったのに」
「……ですが」
わずかに、言葉を区切る。
「人間は、そんなの関係ないのでしょうね」
静かな声だった。
責めるでもなく、怒るでもなく。
ただ、事実をなぞるように。
「何度も、襲われました」
「見つかれば、すぐに」
「話をしようとしても、聞いてもらえませんでした」
視線は落ちたまま。
その先にあるのは、動かなくなった同胞たち。
「それでも、逃げて」
「隠れて」
「どうにか、生き延びてきました」
ぽつり、ぽつりと。
途切れながら紡がれる言葉。
「……ですが」
小さく、息を吐く。
「あなたに見つかった」
そこで初めて、顔を上げる。
その瞳には、もう怒りはなかった。
「……皆、討たれました」
事実を告げるだけの声音。
「私は」
「ただ――平和に、生きていたかっただけなのに」
最後の言葉だけが、わずかに揺れた。
沈黙が落ちる。
何も、言えなかった。
目の前にいるのは、魔物のはずだ。
人を襲い、命を奪う存在。
だから、斬る。
それが正しいと、そう教えられてきた。
――実際に、見てきた。
仲間が、魔物に殺されるところを。
血を流し、倒れていく姿を。
忘れたことなど、一度もない。
だからこそ。
迷いは、なかったはずだった。
――なのに。
目の前にいる存在は、なんだ。
悲しみ、言葉を持ち、仲間を想う。
それは――本当に、俺が斬ってきた“魔物”と同じなのか。
「……俺は」
言葉が、続かない。
正しさが、分からなくなる。
ただ一つ、分かるのは。
このまま剣を振るうことに、もう迷いがないとは言えないということだけだった。
「……あなたは、優しいのですね」
ぽつりと、彼女が言った。
「私が言葉を話すと知って、迷っている」
「だから、殺せない」
静かな声だった。
決めつけるでもなく、ただそう見えた事実を口にしただけのような。
「違う」
即座に、否定していた。
「そんなんじゃない」
自分でも驚くほど、強い言葉だった。
「……喋ったから殺さないんじゃない」
「俺が――」
一度、言葉が詰まる。
それでも、吐き出す。
「……もし、お前が人間だったらどうしようって、そう思っただけだ」
沈黙。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
「……そう、ですか」
小さく、息を吐く。
「なら、なおさら」
ゆっくりと、言葉を続ける。
「私を殺しなさい」
迷いのない声音だった。
「そして、何もなかったように過ごせばいい」
「それが、あなたにとって一番楽なはずです」
顔を上げる。
まっすぐに、俺を見る。
「……あなたは、英雄なのでしょう?」
その一言が、胸に刺さった。
――英雄。
憧れた存在。
誰かを救い、誰かを笑わせる者。
泣いている人間がいれば、手を差し伸べる。
それが、俺の思い描いていた“英雄”だった。
じゃあ――
目の前にいるこいつは、なんだ。
仲間を失い、悲しみ、それでも誰かのために言葉を選ぶ存在。
それは、本当に――斬るべきものなのか。
剣を、見る。
何度も振るってきたそれを。
そして。
――ゆっくりと。
冒険者証を取り出した。
「……俺は」
小さく、呟く。
「そんな英雄には、なりたくない」
手に力を込める。
ぱきり、と。
乾いた音が、静寂の中に響いた。
折れたそれが、地面に落ちる。
もう、戻れない。
「……なあ」
顔を上げる。
呆然とする彼女へと。
「お前が言ってた、その――」
「魔物が、静かに暮らせる世界」
少しだけ、息を吐く。
「俺にも、手伝わせてくれないか」
言葉が、森の中に落ちる。
しばらく、返事はなかった。
ただ、彼女はじっとこちらを見つめている。
信じられないものを見るように。
「……あなたは」
かすれた声が、ようやく零れる。
「本気で、言っているのですか」
「ああ」
迷いはなかった。
もう、決めたことだ。
彼女は、しばらく何かを言おうとして――
やがて、諦めたように小さく息を吐いた。
「……変な人間ですね」
ほんのわずか。
先ほどまでとは違う、柔らかい響きだった。
「そうかもな」
苦笑が漏れる。
沈黙。
だが、それはもう先ほどまでの重いものではなかった。
「……名前を」
彼女が言う。
「教えてください」
「アベルだ」
短く答える。
「――アベル」
確かめるように、その名を口にする。
そして。
「私は、ツヨクミ」
静かに、名乗った。
風が、森を抜ける。
血の匂いはまだ残っている。
失われたものも、消えはしない。
それでも。
――ここから、始まるのだと思った。
英雄と呼ばれた男と、オーガの姫。
相容れないはずの二人が。
同じ目的のために歩み出した、その瞬間だった。




