本編 ~『王子との出会い』~
朝から走り続けた馬車は、ついにドルーン辺境領へと踏み込んだ。
車輪が土を蹴り、最後の丘を越えたとき、ローズは馬車の窓を開く。乾いた風が頬を撫で、視界に広がるのは、予想以上に質素で荒れた大地だった。
草木はまばらで、作物の畑は痩せており、家々は傾きかけている。歩く人々の衣服も粗末で、表情には疲弊が浮かんでいた。
(噂以上の状況ですね……)
だが、そんな景色の中でも異彩を放つ屋敷があった。白い石造りの壁で覆われ、繊細な彫刻が施されている。
(あれが辺境伯邸ですか……さすがに豪華ですね)
馬車が門を通り抜けると、待っていた数人の使用人が出迎えてくれる。ローズが馬車から降り、玄関扉を超えると、紅茶の香りが漂ってくる。
「この匂いは?」
「お客様がおいでです」
「私にお客?」
いったい誰が訪問してきたのかと、眉をひそめて談話室の扉を開ける。すると、そこには一人の青年が深紅のソファに腰掛けていた。
年の頃は二十代半ば。艶のある金髪に、深い緑の瞳。絵画から飛び出してきたかのような美しい容姿と、手元のティーカップを弄ぶ余裕ある仕草。
そんな彼の正体をローズは知っていた。
(第一王子ユリウス様!)
ゲームで幾度となく見た姿に、ローズは心の中で叫ぶ。彼はヒロインの味方であり、恋人候補にもなる攻略対象の一人だ。
(まさかこのタイミングで現れるなんて……こんなイベント、ゲームにはなかったはずですが……)
警戒心と動揺を隠しながら、ローズは丁寧に会釈する。当然、ゲームで顔は知っているが、それは伝えずに問いかける。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「僕はユリウス。王国の第一王子だよ」
「王子様ですか……」
「驚かないのかい?」
「いえ、顔に出ないだけで、内心ではちゃんと驚いていますよ」
ユリウスはその言葉にくすりと笑う。そして優雅に紅茶のカップへと口元を運んだ。
「それで……何の御用でこの辺境まで?」
「噂の伯爵令嬢に興味がわいてね。顔を見に来たんだ」
「……私に、ですか?」
「僕は人間観察が趣味でね……慰謝料に金銭を求めるでもなく、こんな辺境の土地を望む君と会ってみたくなったのさ」
嬉しそうにユリウスは口元を緩める。
脳裏に浮かぶのは、ゲーム内の彼の設定だ。
ユリウスは完璧な外見と血筋を持ちながら、奇行を愛し、常識に縛られない者に惹かれる稀有な性格をしていた。
(その残念さが、プレイヤーを惹きつける要素の一因にもなっていましたね……)
ローズはそっと微笑む。
これはチャンスだ。彼は将来、王国の頂点に立つ男。もしも味方につけられれば、この世界における破滅エンドを回避できるかもしれない。
「さて、聞かせてもらおうか。どうして君がこの辺境を望んだのかを」
ローズの指先が一瞬だけ強張る。
(どう答えるべきでしょうか)
ゲームプレイヤーとしての記憶を持っていると伝えても、信じてもらうには信頼関係が足りない。
かといって適当な嘘でごまかして、彼に「騙された」と思われてしまうのもまずい。
作中通りの性格であれば、彼は自分の好奇心に誠実であると同時に、裏切りに対しては容赦がない。
だからこそ味方につけさえすれば、これほど頼りになる存在もない。
ローズは静かに息を整え、口を開いた。
「私の狙いは、二つありました。一つは、領主になって自由を得ること。そしてもう一つは……この土地に眠る宝の山です」
ユリウスの瞳がわずかに細まる。遊ぶように持っていたティースプーンが、ぴたりと動きを止めた。
「この領地に黄金が埋まっているとでも?」
その質問にローズは曖昧な笑みを返す。
生前の彼女が宝の存在を知ったのは偶然だった。攻略に失敗するとゲームストーリーに変化が生じると気づいた彼女は、千回以上のバッドエンドを繰り返してみたのだ。その結果、攻略サイトにも掲載されていない秘密を知るに至った。
「質問を変えよう。君はその宝の存在をどこで知ったんだい?」
「偶然と女の勘です」
「なるほど……秘密というわけか……面白いね。やはり君はただの伯爵令嬢じゃない」
彼の瞳に好奇心が浮かぶ。その視線を受けながら、ローズは淡く微笑んだ。
「もし興味があるのなら、一緒に宝を見に行きませんか?」
「いいのかい?」
「もちろん、ただではありませんよ。一回、貸しにさせていただきます」
「……僕に何を求めるつもりかな?」
「私が困ったときに手を差し伸べてください。それだけで構いません」
短く笑うローズに、ユリウスも苦笑を返す。
「いいだろう。その取引、乗ったよ」
「では参りましょう。宝は屋敷の裏山に眠っています」
ローズの言葉に、ユリウスは頷くと、二人は並んで談話室を出る。光が差し込む道を歩きながら、屋敷の裏手に広がる草原へ辿り着く。
そこはまさしく辺境の風景そのものだ。乾いた土にまばらな野草。人の手が入った形跡はほとんどなく、一見したところ、宝が存在するようには思えない。
「こんなところに本当に宝があるのかい?」
「信じられませんか?」
「この光景が広がっていてはね」
「まぁ、見ていてください、きっとビックリしますから」
ローズは両手を大地に押し当てると、魔力を集中させる。
次の瞬間、足元の草地が淡く光を帯び、青々とした葉がぐんぐんと育ち始める。
その草には、ただの野草とは明らかに違う気配があった。葉の先にはかすかな光が宿り、心を落ち着かせる香りが漂っている。
「これは魔力草か……」
ユリウスが目を細めて呟くと、ローズは微笑んで頷く。
「食べれば魔力を増加させる効果のある高級品です。普通の環境では育てるのに時間がかかるのですが……私には『成長促進魔術』がありますから」
「あれ? でもその魔術は確か、レオン公爵子息の……」
「その才能は慰謝料として私が頂きました」
ローズの答えに、ユリウスは困惑する。想定通りの反応に、彼女は補足する。
「私は他人の魔術を奪えるのです」
「それは随分と……」
「私が恐ろしくなりましたか?」
「いや、能力が強力ということは、それだけに条件があるはずだ。慰謝料という表現からすると、君に非礼を働いた相手にのみ有効……そんなところだろうか?」
「流石はユリウス様。お見事です……ただこの能力は秘密ですから。他言無用でお願いしますね」
あなただから伝えたと続けると、ユリウスは頷く。
「君の信頼を裏切ったりはしないさ」
その声には王族としてではなく、一人の青年としての誠実さが滲んでいた。ローズがふっと笑みを浮かべると、風が草原を撫でる。
「魔力草があれば、この辺境の領地もきっと発展するだろうね」
「王国の中でも、有数の力を持つことになるでしょうね」
「魔術を奪う力と、辺境伯の地位――そして魔力草で得た金か……やはり君は面白い。これからも、目を離せそうにないよ」
「では約束しましょう。味方でいてくれる限り、私は決してあなたを飽きさせないと」
そう微笑むローズに、ユリウスは肩をすくめて応じる。軽やかな風が、二人の間をすり抜けていく。それは、新たな伝説の幕開けを告げる風だった。