本編 ~『旅立ち』~
辺境伯の地位を得た今、もはや屋敷に留まる理由はない。旅立ちの日を迎えたローズは、朝の澄んだ空気を吸い込みながら、庭先に留められた馬車へと向かう。
黒塗りの車体には、伯爵家の紋章と並んで、彼女の新たな爵位――辺境伯の印が刻まれている。
「すべての荷を積み終えました、ローズ様」
御者が軽く帽子を掲げて頭を下げる。
「ご苦労様です。すぐに出発しましょう」
ローズは馬車の扉に手をかける。その時だ。
「お姉様っ!」
声がした方を振り返ると、庭の奥からセレフィーナがドレスの裾を握り締めて駆けてくる。そのすぐ後ろには息を切らした母マリーヌの姿もあった。
「待ってください、お姉様!」
セレフィーナは息を切らしながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「辺境領で暮らすと聞いたのですが本当ですの?」
「ええ、本当ですよ」
「考え直してください!」
「お断りします。これは私が決めたことで、あなたには関係のない話ですから」
「関係ならあります! だって……」
セレフィーナは言い淀み、拳をぎゅっと握りしめる。
「お姉様があんな荒地に一人で暮らすなんて……そんなの心配で……」
「心配? 誰のせいでこうなったのかを忘れたのですか?」
「――ッ……だ、だとしても、さよならも言わずに出ていくなんて……」
絞り出すようにセレフィーナは言葉を継ぐ。そんな彼女を援護するため、母も顔を真っ赤にしながら口を開いた。
「ちょっと! 妹に対して薄情すぎると思わないの?」
「思いませんね。婚約者を奪われたのですから。むしろ会話してあげていることに感謝して欲しいくらいです」
「そ、それでも、お姉ちゃんなのだから、妹の不義理くらい許してあげなさい!」
母の叱責は怒気を含んでいたが、ローズは微動だにしない。
「いいえ。私は我慢しません。だからこそ私はこの家と縁を切る覚悟を決めたのですから」
「あなたが一人で暮らしていけるほど世間は甘くないのよ!」
「貴女にとっては、そう見えるのかもしれませんね」
ローズはひとつ深く息を吐き、まっすぐに母を見つめる。
「私は辺境伯の爵位を得ました。所領もあります。立場としては、伯爵よりも上ですから。もはや、貴女から口出しされる筋合いはありません」
「うぐっ……」
母が、悔しさと怒りが入り混じった顔で俯く。
言い返す言葉は、もうどこにもない。
ローズは視線を外し、無言で馬車に乗り込む。
振り返ることなく、ドアが閉じられる。最後まで妹と母の視線が突き刺さったが、もうそれを気に留めることもない。
(私は辺境で幸せに生きていくと決めましたから)
車輪が動き出し、揺れる車窓の景色を眺めながら、ローズは心の中で意気込むのだった。