本編 ~『交渉の結果』~
扉をノックする音が響いたのは、朝食後の静かな時間だった。ローズが読んでいた本から顔を上げると、ドア越しに低く落ち着いた声が聞こえる。
「ローズ、僕だ。入ってもいいかい?」
「どうぞ。鍵はかかっていません」
許可を返すと、ドアが開き、レオンが姿を現す。ローズは椅子から立ち上がることなく、淡々と問う。
「結果の報告に来てくれたのですか?」
「そのとおり」
レオンは苦笑気味にうなずき、持っていた書類をテーブルの上に置く。
「君の望んだ辺境伯の地位が正式に承認された。王印付きの任命状だ」
ローズは小さく目を見開いたが、すぐに表情を戻す。
「交渉を成し遂げたのですね。ご苦労さまでした」
「やれやれ、本当に大変だったよ。君の遠慮のない要求にはね」
レオンは椅子を引いて座ると、肩をすくめる。ローズは書状を手に取り、王印と署名を確認する。
「要求しておいて何ですが……よく、この条件が通りましたね。辺境とはいえ、伯爵より上の爵位です。そう簡単に得られるとは思っていませんでした」
「君は僕の立場を軽く見すぎだよ。父からの信頼は厚いし、家の稼ぎ頭でもある。だからこそ押し通すことができた」
ローズは少し意外そうに目を細めたが、彼の領地が農業を主な産業としていることを思い出した。
「農作物を育てるなら、レオン様の魔術は欠かせませんからね」
彼の生まれ持った才能は『成長促進魔術』だ。植物、麦、果樹であれ、実りを広げることができ、農園の安定的な豊穣を支えていた。
「この魔術があるおかげで、父も僕に頭が上がらないし、そこで得た莫大な利益のおかげで王家から爵位を引き出すこともできた……僕の才能に君も感謝するんだね」
レオンはどこか誇らしげな態度で胸を張る。自信と驕りが声にも表情にも滲んでいた。
(浮気したくせに、よくもそんな顔で語れるものですね)
怒りが胸の奥で静かに煮え立つ。だがその怒りをぶつけるつもりはない。彼の誇りであり、自信の源を奪うつもりでいたからだ。
(私の『強奪魔術』ならその才能も私のモノです)
ローズの『強奪魔術』は相手に非がある時にしか使用できない制約があるものの、視界に対象を収めるだけで魔術を奪い取ることができる。
レオンの『成長促進魔術』を自分のものにするべく、ローズは瞳に魔力を集中させる。次の瞬間、黒い閃光が、瞳孔の奥で蠢いた。
(発動!)
レオンの体が小さく揺れる。何かに引っ張られるような違和感が、その身体を貫いたのだろう。だが彼は、それが何であるかを理解できず、首を傾げる。
「なんだか、急に力が抜けたような……」
「顔色が悪いようですし、風邪かもしれませんね」
「ちょっと頭もぼんやりするから、そうなのかもね……」
すでに彼は魔術を失い、代わりにローズの内にその力が芽吹いていく。
(レオン様。あなたの才能も慰謝料として頂いておきます)
ローズが美しく微笑む。氷よりも冷ややかな瞳には同情も慈悲も宿していなかった。
(無能になったレオン様に、妹が愛情を注ぎ続けるのか見ものですね)
真実の愛とやらが本物であれば婚約は維持されるだろう。だがもし二人の関係が打算によるものだとしたら、きっとローズを捨てたことを後悔することになるだろう。
「では、話は終わりですね。私は次の予定があるので失礼します」
ローズは部屋を出ていこうと立ち上がる。だがレオンは、そんな彼女の背中に焦ったように声をかける。
「これで僕の浮気は水に流すと考えていいんだよね?」
ローズは立ち止まるが振り返らない。その背中にレオンは言葉を続ける。
「僕とこれからも友人として付き合ってくれるよね?」
「ふふ、絶対にお断りです」
はっきりと拒絶の言葉を突きつける。彼の愚かさに呆れながら、ローズは自室を後にするのだった。