本編 ~『回復魔術による治療』~
ローズがユリウスを治療した光景は、衛兵たちに目撃されていた。
最初は兵舎での世間話に過ぎなかったが、次第に行商人や酒場の酔客の耳へと渡っていた。
『第二の聖女様が現れたらしい』
『馬鹿なことを。聖女は世界に一人だけだろう?』
『だが治療する瞬間を見た衛兵がいるって話だ』
声を潜める者もいれば、興奮で頬を赤らめて語る者もいた。
噂は熱を帯び、町の外へも広がっていく。
そんな中、教会が『聖女の資格はセレフィーナからローズへ移った』と公表する。
その瞬間、民衆の熱狂は頂点に達した。
新たな聖女を称える声が広がり、発表から数日も経たないうちに、ローズの屋敷の門前は異様な賑わいを見せるようになっていた。
最初に訪れたのは片足を引きずる農夫で、次に肩に子どもを背負った母親がやってきた。
やがて、戦傷を負った兵士や、裕福そうな商人、領外からの旅人までが加わり、列は門から通りを越えて続くようになった。
「お願いします、妻の熱が下がらないのです」
「この子の腕を……どうか……」
「馬車旅で倒れた仲間を助けてください!」
悲鳴にも似た懇願の声が、次々と屋敷の中庭に満ちていく。
使用人たちは息を切らしながら湯やタオルを運び、木製の長椅子を並べて、中庭を急ごしらえの診療所に変えていた。
湯気の立ちのぼる桶からは蒸気が漂い、鼻先をかすめる薬草の香りが風に混ざる。
そんな中、その場にいる者たちの視線は、ローズへと集まっていた。期待と不安が入り交じった瞳が、彼女を射抜くように見つめている。
「次はこの方を」
呼ばれて現れたのは、腰を曲げ、杖をついた老人だ。足を引きずりながら歩くその姿は、見るからに痛々しい。
ローズは片膝をつき、老人の足首にそっと手を添える。温かな光が彼女の掌から溢れ、淡く足元を包みこむ。
「あ、あれ?」
最初は小さな驚きの声。やがて老人の瞳が大きく見開かれ、杖を放り出す。
「動く……動くぞ! 何十年もまともに歩けなかったこの足が!」
歓声があがり、周囲の人々も息を呑む。
老人は満面の笑みを浮かべながら、重そうな革袋を差し出す。中には金貨がぎっしり詰まっていた。
「これは礼です。受け取ってくだされ!」
「いりません」
「ですが……」
「私はお金のために治療しているわけではありませんから」
その一言に、列に並んでいた人々からどよめきが起きる。
「セレフィーナ様とは大違いだ」
「あの方は治療に大金を要求したからな……」
「ローズ様こそ本物の聖女だ!」
その声は、やがて抑えきれぬ熱を帯び、周囲へと広がっていく。
ローズは次の患者の手を取り、再び温かな光を流し込む。治癒の魔力が患者の体を巡り、痛みが和らいでいく。
返ってくるのは感謝の言葉と涙だ。
その一つ一つに微笑みを返しながら治療を続ける内に、額には汗が滲み、うなじの髪が肌に張りついていた。
「そろそろ休憩したらどうかな?」
優しい声に顔を上げると、ユリウスが立っていた。
並んでいた患者たちも彼の言葉に続く。
「ローズ様。少しは休んでください」
「お身体が心配です」
「我々は待てますから」
心配する声が次第に大きくなる。ローズは彼らの厚意に甘えることにした。
「分かりました。では、少しだけ休憩を頂きます」
丁寧に頭を下げると、ユリウスに付き添われて屋敷の中へ入る。廊下を歩き、辿り着いた先は談話室だ。
「体力を使うと思ったからね。君の好きな焼き菓子を用意してあるよ」
室内に入ると、テーブルの上にはほんのり温かいマドレーヌが並べられている。横には香り高い紅茶のポットも置かれていた。
「さすが、ユリウス様。気が利きますね」
ローズは椅子に腰を下ろすと、マドレーヌを摘まみ上げる。そのまま口に運ぶと、外側は軽やかに崩れ、中からバターの豊かな香りと甘みが舌の上に広がった。
「とっても美味しいです」
頬が自然と緩み、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
そんな彼女を見ながら、ユリウスはポツリと感想を零す。
「君は立派だね」
「慈善活動は嫌いではありませんから……」
「それでも誰にでもできることじゃない」
治療を望む者は多く、彼らの相手をしているだけで日が暮れる。それでもローズは手を抜かず、きちんと一人一人に向き合っていた。
「お褒めにあずかって光栄ですが……実は他にも狙いがあるんです」
「ほう?」
「私の治療は重傷者が優先ですが、軽傷者は先着順ではありません。貴族であっても他領の者たちは後回しにしています」
「なるほど。ドルーン辺境領の領民を優先させることで、領地の価値向上を狙っているんだね」
優先して治療を受けたいなら移住するしかない。
移住者が増えれば税収が増える。人が賑わえば経済も発展する。善意だけでなく、領主としての打算も含まれていると、ローズは語る。
「それに聖女の力が私にあると広まれば、逃げたセレフィーナを追い詰める手段にもなります。彼女はギース様の庇護下にいるでしょうが、『回復魔術』を失ったと知られれば、きっと放出されるはずですから」
「別の勢力に頼ろうとしても、唯一の長所を失っては断られるのがオチだしね。捕らえるのが容易になるわけか……」
ローズの言葉の奥には狡猾さが滲んでいた。だがユリウスは、彼女の顔をしばらく見つめたあと、ふっと笑みを浮かべる。
「やっぱり君は面白い人だ」
「……そうでしょうか?」
「そして素直じゃない。本心は困っている人を助けてあげたいからだろう?」
ローズの瞳がかすかに揺れる中、ユリウスは、ゆったりとした口調で続ける。
「領地の移住者を増やすだけなら、他にも方法はある。こんな手間と労力のかかるやり方を選んだのは、君が優しいからだ」
「それは……」
図星だったのか、ローズは一瞬だけ視線を落とす。次いで柔らかな笑みを浮かべる。
「私の本心を見抜けるユリウス様も十分にお優しいですよ」
互いの視線が交わる。心の温かさが談話室の空気を穏やかに満たしていくのだった。