本編 ~『送り込まれた刺客』~
ローズが窓の外に視線を向けると、厚く垂れ込めた灰色の雲が空を覆っていた。
屋敷の外が薄闇に包みこまれる中、大粒の雨が勢いよく窓硝子を叩き、無数の雫が流れ落ちては筋を作っていく。
ときおり突風が吹きつけ、窓枠が軋む音が鳴る。
庭の木々は風に煽られて枝葉を振り乱し、ざわざわと響いていた。
そんな外の荒れ模様とは対照的に、屋敷の談話室は柔らかな光に満ちている。暖炉の中では薪が赤々と燃え、時折、火花がはじけている。
「外に出るのは無理ですね」
「今日は屋敷でゆっくり過ごすしかないよ」
傍らで分厚い本を閉じたユリウスが、雨音を聞きながら微笑を浮かべる。
テーブルの上には、半分ほど残った焼き菓子と、湯気を立てる紅茶のポットが置かれている。
甘い香りと茶葉の芳醇な匂いが漂う中、部屋の外から男たちの声が響く。
「この音は……」
「衛兵の訓練音だろうね。警護を強化するために増員をかけたから。いつもより声が大きくなっているのだと思う」
王都から選りすぐりの衛兵を招集したと、ユリウスは自信を滲ませる。
「ということは、ユリウス様はセレフィーナたちが襲ってくると想定しているのですか?」
「可能性は低いと思っているよ。なにせギースは慎重だ。高いリスクを自分から取りに行くとは思えないからね」
ただ絶対にないとは言い切れない。だからこそ護衛を強化したのだと続けると、ローズは顎に手を当てる。
「むしろ、私はセレフィーナが刺客を送り込んでくると思っていました」
「どうしてだい?」
「妹は私を恨んでいます。その私を排除するようにと、ギース様を誘導するでしょうから」
そのための材料もある。
例えばギースに王家の血が流れていない設定は、プレイヤーの間では周知の事実だ。口封じのためならば、慎重なギースもリスクを厭わないはずだ。
やがて控えめなノック音が届く。
ユリウスが「入れ」と告げると、顔以外を甲冑で武装した衛兵が踏み込んできた。
「緊急のご報告がございます」
敬礼した衛兵が近寄ろうとするが、その動きを制するようにローズが鋭い声を放つ。
「そこで止まってください!」
命じられた衛兵は足を止める。怪訝な視線を向けるローズの反応から、ユリウスにも緊張が伝播する。
「ユリウス様、この方の顔をご覧になったことはありますか?」
「いや、初めて見るね……でも、僕は衛兵全員の顔を知っているわけじゃないから……」
ローズは、眼前の衛兵が刺客なのではと疑っていた。彼女は視線を鋭くし、甲冑の胸元から足元までを素早く観察する。
「王都から集めた精鋭のはずですよね。それにしては、甲冑に傷一つありません。まるで新兵のようではありませんか?」
「確かにね……」
鎧は高価だ。簡単に買い換えられるようなものではないため、磨いていたとしても傷は残るはずだ。
だが衛兵は肩を揺らしながら、取り繕うように言葉を返す。
「お二人に礼を尽くすため、新品を用意しただけです」
「そうですか……なら、合言葉は?」
「……合言葉?」
ローズはわざと口元に笑みを浮かべる。
「警備の衛兵には全員伝えてあるはずです。あなたが本物なら言えるはずですよね?」
問いを投げかけた刹那、男の顔色が変わる。笑みが消え、ゆっくりと剣を抜き放つ。
「そんなものを用意していたとは……調査不足だったな」
「ふふ、はったりですよ。あなたが本性を現すように、誘導しただけです」
男の口元が噛み殺した怒りで歪む。だがローズは怯まない。
「騒ぎを聞きつけて、人はすぐに集まってきます。もしあなたが降伏するなら、命は保証しますし、加えて、依頼人について話すなら報酬の倍額をお支払いしましょう。どうです?」
「魅力的な条件だな」
「では……」
「だが残念だったな。俺もプロだ。任務は果たす」
男の声は決意を帯びていた。
次の瞬間、鍛え抜かれた肉体が弾けるように動く。床板を蹴る衝撃音とともに、剣が閃光を帯びて振り上げられた。
鋭い金属音が空気を裂く。
「ローズ!」
ユリウスが立ち上がり、その身体を盾にする。
鋭い衝撃がユリウスの左腕を裂き、赤い鮮血が飛沫となって舞った。
「……っ」
ユリウスの顔が一瞬だけ歪む。だがすぐに余裕の笑みに変わる。
「ユリウス様! 大丈夫ですか!」
「問題ない。ちょうどいいハンデさ」
ユリウスは男を見据える。
鋭い視線を向けながら、彼は男の懐へ飛び込む。そして、怪我をした左腕は使わずに、右肩から体当たりを食らわせ、相手の呼吸を奪う。
そのまま男の手首を掴み、容赦なくひねり上げると、骨のきしむ音が響いた。
「ぐっ!」
男が苦悶の声をあげた瞬間、ユリウスは足を払って床に叩きつけ、そのまま膝で背中を押さえ込む。
男の顔が床板に押しつけられ、呻き声がくぐもる。
やがて廊下の向こうから複数の足音が近づき、衛兵たちが一斉に飛び込んでくる。
「殿下がお怪我を!」
「薬師を呼べ!」
「急げ!」
慌てて声が飛び交う中、数人がユリウスの代わりに男を押さえ込み、残りが廊下へ駆け出していく。
ローズはしゃがみ込み、ユリウスの腕に視線を落とす。切り口からは血が溢れ、紅の滴が床に落ちて広がっていた。
「庇ってくれてありがとうございました」
「気にしないでいいよ、この程度なら数日で治るからね」
「いえ、数秒で十分です。私が治しますから」
ローズはユリウスの腕を取り、指先を傷口の上にかざす。
次の瞬間、掌から柔らかな金色の光が溢れ出す。温かさが皮膚を通して広がり、傷の奥にまで染み込んでいく。
やがて光が収まると、ユリウスの腕の裂傷はきれいに塞がり、血の跡すら残っていなかった。
衛兵たちはその光景に息を呑み、互いに目を見交わした。
「これは治癒の力……」
「まさか辺境伯様にもその力が……」
「新たな聖女が誕生したんだ!」
ざわめきが波紋のように部屋を満たしていく。
ユリウスは軽く腕を回して確かめ、満足げに口元を緩める。
「また君に借りができたね」
「いらないですよ。私が先に助けていただいたのですから」
二人は自然に笑みを交わす。その空気に衛兵たちの緊張もほどけ、穏やかさに包まれていくのだった。