本編 ~『勝利の味』~
許可も得ずに入室してきた神父は、談話室の真ん中へ進むと、やや大げさな仕草でソファに腰を下ろす。
革張りの座面が、彼の体重に沈む。
執事が慣れた手つきで紅茶を淹れ、香り立つ湯気が漂う中、神父は当然のように顎を上げる。
「最高級品を頼むぞ」
執事にそう命じる神父。だがローズは首を横に振る。
「いえ、これで十分です。どうせ、すぐにお帰りになるでしょうから」
その一言に神父は苛立ちを浮かべるが、すぐに笑みに塗り替える。
「辺境伯は、相変わらず口がよく回りますな」
その声音は、油を垂らしたようにねっとりとしていて、挑発の意が含まれていた。
ローズは動じず、琥珀色の紅茶をゆっくりと口に運ぶ。そして、視線で続きを促した。
「改めて交渉に参りました」
神父はゆっくりと両手を組み、膝の上で指を組み替えながら言葉を続ける。
「流れている噂はご存じですな?」
「もちろんです」
「ならば話は早い。我ら教会の要求は二つです」
神父は人差し指を立てる。
「一つ、我々教会の支援者になること」
続けて中指を立てる。
「二つ、あなたが立ち上げた慈善団体を即刻やめること」
そして、唇を歪める。
「この二つの条件を飲めば、今広まっている風聞はすぐに消して差し上げましょう」
「私が悪女だという噂を消してくれると?」
「ええ」
「そうですか……ただお断りします。訂正されなくとも慈善活動を続けていれば、皆も嘘だと気づいてくれるはずですから」
「な、ならば、王子との風聞はどうされますかな?」
その風聞とはユリウスとの熱愛を噂されたものだ。だがローズの態度に変化はない。
「私は婚約破棄された身ですから。気にはなりません」
「あなたはそれでも良いでしょう。ですがユリウス殿下が困るのでは?」
話題を振られたユリウスは、紅茶の香りを楽しむように口を付けると、鋭く澄んだ眼差しを神父に向ける。
「僕が困る?」
「ユリウス殿下には帝国の姫からの縁談が届いていると聞いております。もし風聞が広まれば、縁談が破談するのではありませんか?」
そう問われたユリウスだが、彼はまるで退屈な雑談でも聞かされたかのように肩をすくめる。
「構わないさ。もともと断るつもりだったからね」
「て、帝国との縁談ですよ!」
「僕は愛している人と結婚する。これは父上も了承済みだ」
熱を帯びた声音で続けると、ユリウスはわずかに口角を上げる。
「それに噂の相手がローズなら構わないさ」
「それはどういう……」
「君に答える義理はない。ただ一つ言えるのは、僕らは君に従わない。理解できたかな?」
その言葉を聞いていたローズは淡く微笑んで受け止める。
その一方で神父は口を半開きにし、反論の言葉を探すように瞬きを繰り返す。
だが形ある言葉は出てこない。
部屋の空気が重く沈み込み、時計の針の音がやけに大きく響く。
やがてユリウスはゆっくりと口を開き、低い声で告げる。
「君は致命的なミスを犯したね」
「わ、私がミスを……」
「ああ。噂を流したのは自分だと、今、僕の目の前で白状したんだ。言い逃れはできないよ」
その瞬間、ユリウスが軽く指を鳴らす。
控えていた衛兵たちが扉から踏み込み、鎧の軋む音が部屋の緊張を高める。
「拘束しろ」
そう命じたユリウスの一言で、神父の顔色が死人のように青くなる。
「ま、待ってください。我々は教会ですよ!」
「教会相手に揉め事を起こすはずがない。そう高を括っていたんだろうけど、残念だったね。僕は相手が強ければ強いほど燃えるタイプなんだ」
ユリウスは唇の端をわずかに上げる。心からの愉悦が滲んだ表情は、とても脅しが通用するような顔ではない。
「連れていけ」
衛兵が神父の両腕をがっしりと掴むと、彼は抵抗も忘れて狼狽える。額からは脂汗が垂れ、法衣の下で足が小刻みに震えている。
「ま、待ってください! 私は悪くないのです!」
「では誰が悪いと?」
「これは……すべて聖女の陰謀なのです!」
その名を聞いた瞬間、ローズの表情が冷ややかに変わる。
「どういうことか、説明してもらいましょうか」
ローズに問われ、神父は首を縦に振る。この状況から脱するために、彼も必死になっていた。
「噂を流し、二人の絆を崩せと聖女に頼まれたのです……私はそこに乗っかっただけの被害者なのです!」
ローズは無言で、神父を見つめる。嘘を吐いているようには見えない。彼の背後にセレフィーナがいたことは間違いないだろう。
「分かりました。ではこの状況を逆手に取ろうと思います」
「な、何を?」
「ユリウス様と私の悪評を広めるように聖女に命令された。そして教会がそれに協力した。そのような形で、公に謝罪してください」
「そんな真似できるはずが……」
「できないのですか?」
「そ、それは……」
協力しなければ、神父に訪れるのは不幸な末路だ。それを理解しているからこそ、彼は息を呑む。
「謝罪すれば、私の罪を許して頂けるのですか?」
「無罪にはできません。ただ……火あぶりと、絞首刑。どちらが好みかを選ばなくても良くしてあげることはできます」
王家の悪評を流すような真似をしたのだ。処刑されても文句は言えない。
減刑だけでも十分な対価だと案に伝えると、神父の瞳が見開かれる。顔からは血の気が引いていた。
「わ、わかりました! 認めます! 教会が加担したことも、すべて公に発表します! だから……処刑だけは……」
声に嗚咽が混じる。涙と鼻水で顔を濡らした神父は、見苦しいほどに手を合わせて謝罪を繰り返した。
(これでセレフィーナを炙り出せるかもしれませんね)
ローズは紅茶を口に運び、舌の上でじっくりと味わう。渋味の奥に甘味がある。勝利の味だった。