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3-1

 アイドルの仕事の中で一番好きなものは、ライブだった。


 ライブに来てくれるファンは、全員が幸せそうだった。どんな事情があっても、会場に来れば笑顔でステージを見上げ、自分の好きなメンバーの色のペンライトを振り、声をからして名前を呼ぶ。メンバーの書かれたTシャツを汗だくにして踊り、歌う。


 瑠衣はただのひとりの人間であるはずが、神にでもなったような気にさえなる。瑠衣のつまらないツッコミですら笑ってくれるファンのほうが、神かもしれないが。


 視線を合わせることに照れはあったけれど、それでも瑠衣は、特に自分のメンバーカラーの黄色を振ってくれる人の顔を覚えようと努力した。さほど数の多くない黄色を見逃すことはない。


 その人たちには、支払ったチケット代以上の幸せを持ってライブ会場を後にしてほしいと思っている。ライブだけじゃなくて、人生すべてが幸せであってほしいと願っている。


 卒業を決めたとき、彼らの顔が浮かんだ。推しがいなくなった人の気持ちは、瑠衣にはわからない。けれど、それなりに喪失感はあるだろう。お金を払ってグッズを買ってくれたり、CDを買ってチェキ会などに参加してくれたりしていたのに、それらがいらないものになるのだから。


 でも、ファンの側だってわかっている。いつか終わりが来るとわかっていて、推しているはず。




   *




 キッチンカーの営業がない5月の平日。瑠衣は光弦がピックアップしたお店にひとりで行ってみることにした。光弦から依頼された敵情視察のためだ。


 光弦は「アタシも月~木はいろいろ副業して忙しいのよ」と言っていた。キッチンカーだけじゃ収入が厳しいらしい。


 ロードバイクに乗って、江戸川を走る。いつもは南流山から柴又まで南下するけれど、今日は北上して埼玉県の北東部へ。なんでも、自転車ショップとカフェが一体となった人気店があるのだとか。


 マップで情報を見てみる。店名は『blancブラン roueルー』。白を基調としたかわいらしくも落ち着きのあるお店で、光弦のくすみブルーのキッチンカーに雰囲気が似ていた。どうしたらキッチンカーに来てもらえるか。来てくれた人を満足させられるか。しっかり勉強しよう。


 心地よいサイクリングロードを走っているうちに、『ブラン ルー』に到着した。


 店の外には、サイクルラックが置かれていた。サイクルラックとは、スタンドがついていないロードバイクを停めるためのもの。サドルの前部分をひっかけてぶらさげる。瑠衣も、ロードバイクを持ち上げてひっかけた。ロードバイクは重さ10kgもないため、軽々ひっかけられる。


 『ブラン ルー』の入り口は階段を3段あがったところにあるけれど、その脇には迂回スロープもついている。自転車ショップでもあるから、そのまま自転車を押して持ち込むこともできるのだろう。


 自動ドアが開いて、瑠衣は店内に入る。


 店内には、ロードバイクが掲げられていた。まるでインテリアのようだ。


 奥には広いスペースがあり、隅には工具が並んでいる。ここで自転車のメンテナンスができるのだろうか。右側に目を向けると、カフェスペースとなっていた。


 カフェスペースに、車椅子の女性がいた。ひとりで来ているみたい。なるほど、自転車のためのスロープがあるし、店内も広いから車椅子の人も来やすいのか。河川敷も、舗装されたところは車椅子の人をよく見かける。そのほか店内では、高齢女性の4人組がにぎやかにおしゃべりしていた。


「いらっしゃいませ。お好きなところへどうぞ」


 女性の店員が声をかけてくれる。瑠衣の親くらいの年齢だ。瑠衣は、自分の自転車が良く見える窓際に面したカウンター席を選んで座った。


 店員が氷入りのお冷とメニュー表をテーブルに置く。メニュー表を見るとどうやら紅茶が自慢のようで、10種類以上あった。そのほか、コーヒー、ジンジャーエール、ワッフル、フレンチトースト、ホットサンド、日替わりケーキがあるようだ。


 紅茶にはくわしくないから、どれを選ぶべきかわからない。見慣れないカタカナが並んでいて、目が泳いでしまう。


 店員が「お決まりになったらお呼びください」と言って下がろうとする。咄嗟に瑠衣は声をかける。


「あの、紅茶飲みたいんですけど……」


 店員の顔が、困惑したような笑顔になる。


 我ながら、雑な質問をしてしまったと反省する。接客業をしていて、こういうあいまいな物言いは困ると学んでいるのに。でも、自分で決められそうになかった。


「あの、おすすめっていうか……紅茶に詳しくなくてわからないので……」


 瑠衣のもごもごした問いかけに、店員はニコッと笑った。


「でしたら、テイスティングセットがおすすめです。2種類の飲み比べができるんですよ」


「あ、じゃあそちらをお願いします」


「お客様のお好みや今のご気分に合わせて、2種類選ばせていただきます」


 好みとか気分で、というのは苦手だ。自分の気持ちなんて、一番よくわからないというのに。


「ええと……」


 また、もごもごしてしまう。困った客になってしまって、余計に焦る。


「お姉さん!」


 後ろから、声をかけられた。


 振り返ると、テーブル席についていた車椅子の女性が瑠衣を見ていた。


「難しく考えなくても、暑いからさっぱりしたものがいいとか、渋いのは苦手とか、そういうのでいいんですよ」


 眼鏡をかけていて、黒い髪をひとつにくくった女性は、にこっと笑う。年頃は30代前半といったところか。化粧っけのない顔だけど、はきはきした笑顔がまぶしい。


 ……どこかで見たことがあるような気がした。


「ありがとうございます。ええっと、じゃあ……さっぱりしたものと、渋みの少ないものを。それと、ワッフルを」


「かしこまりました」


 メニュー表を返却し、お冷をぐいとあおって喉を潤おした。ひとりでカフェに来ることはないから、緊張してしまう。


 にぎやかな高齢女性たちが会計を済ませ、店を去る。店内には、陽気なギターサウンドがほんのりと流れていたことに気づく。ぼんやりと音楽を聴いていると、店員が紅茶を運んできた。


「お待たせしました。向かって右側がキャンディ、左側がディンブラとなっています」


 聞いたことがない。瑠衣は脳をぐるぐると回転させて「過去に聞いた覚えはないか」と引き出しを開けてみたが、存在しなかった。ダージリン的なものと同様に一般常識なのかも知れないと思うと、不安になる。


 瑠衣の戸惑いを感じ取ってか、店員はフォローするように解説を始めた。


「あまり、耳慣れないですよね。キャンディは、ほんのり甘くマイルドな口当たりです。ちなみに、甘いからではなく、キャンディという地名から名前がつけられています」


 流れるように解説が出てくる。お店で何十何百と説明してきたであろう鉄板ネタであろう。


「か、かわいいネーミングですね」


「紅茶は、基本的に地名で呼ばれます。ディンブラもそうですね。日本人になじみ深いベーシックな味と香りで、飲みやすかと」


 では、ワッフルの焼き上がりまで少々お待ちくださいと言って店員は立ち去る。


 ティーカップはどちらも柄が違う。きっと高いものなのだろうと思うものの、瑠衣には価値が分からなかった。


 大ぶりの紫色の花が描かれたカップに注がれたキャンディを口にする。ふわっと甘い風味が口に広がる。比較対象がペットボトルの無糖紅茶だけという瑠衣の舌でも、豊かな風味を実感できる。渋みが少なく、ほんのりと甘さも感じる。スッキリとアイスティーで飲むのも良さそうだと思った。


 続いて、青い小花が書かれたカップを手に取る。ディンブラ……と言っていた茶葉だ。日本人になじみ深い、と店員が言っていた通り、幾度となく口にしてきた紅茶に近い。渋すぎず、甘すぎず。キャンディに比べて、爽やかであっさりした味わいだと思った。


 どちらが好みかと聞かれたら……キャンディと答える。コーヒーもミルクと砂糖がないと飲めない瑠衣にとって、甘い飲み口のキャンディのほうが好きだ。


 世の中にコーヒーのお店は多いけれど、紅茶は多くない。でも、こうして飲み比べてみると奥が深いんだと関心を抱く。


 でも……コーヒーが好きな光弦が、なぜ紅茶メインのお店に瑠衣を送り込んだのだろう?


 キッチンカーでもないし、参考にするところがあまりないような。


 そういえば、先ほど助け船を出してくれた車椅子の女性は、まだいるのだろうか。会ったことがある気がするのに思いだせないのは居心地が悪い。


 ちらりと振り返ってみると……ばちっと目が合った。


 瑠衣は思わず体を震わせ、視線を窓の外に戻す。


 恐れたのは「好奇心で車椅子をじろじろと見られた」と思われていないか、ということだ。瑠衣自身も経験はたくさんあるが、知らない人から不躾な視線を向けられるのは好ましいものではない。瑠衣は自分が望んで顔を晒してアイドルをしているけれど、車椅子の人はそうではないだろう。


 イヤな思いをさせてしまったのでは、と思うと、申し訳ない。


「お待たせしました、ワッフルです」


 焼きたてのワッフルが届いた。ふんわりとした湯気に包まれた手のひらサイズのワッフルが2つに、白いクリームが添えられていた。


 ナイフとフォークで、ワッフルを切り分けて口に運ぶ。外は砂糖でザクザクしていて、中はふわっととろっとした生地が詰まっていた。甘すぎない上品な味が、紅茶に合う。少し落ち込んでしまった気持ちが上向くのを感じた。食べ物ってすごい。一瞬で、幸せな気持ちになれる。


 白いクリームもつけてみる。甘みと塩味のあるバタークリームで、ワッフルがより濃厚になる。色々な味わいが楽しめた。


 食べ終えて、紅茶でひといき。ワッフルには、ディンブラのほうが合うかも、なんて、語ってしまう。カップ2杯の紅茶だけど、あっという間に飲んでしまった。もう少し、飲みたいくらい。


 紅茶の世界にひたっていると。


「あの」


 声を掛けられ振り返ると、車椅子の女性がこちらまで移動してきていた。そうだ、さっき目が合ってしまったんだ……。


 女性は無言で、スマホの画面を見せてくる。どういうことかと混乱しつつ、画面を見るとテキストが書かれていた。


『じろじろ見てごめんなさい。るいるいですよね?』


 思わず、女性の顔を見る。その反応で答えを得られた女性は、目を大きく見開いて、手で口を押えた。そして、両手を合わせて拝み始めた。


 あっけにとられて見ていると、女性は黄色のラインがデザインされた車椅子を操作してもとの席に戻っていった。そして、優雅な手つきで紅茶を口にする。


 その一連の動作を、瑠衣はただぽかんと眺めてしまった。


 待って待って説明して、と瑠衣は内心で懇願する。願いむなしく、女性はこちらを見ようともしなかった。


 ……おそらく、声に出して「るいるいですか?」と聞くと、瑠衣のことが店員に知られると思ったのだろう。プライベートを邪魔したくない、といった気遣いを感じる。が、拝んでおいてそのまま席に戻るというのは、よくわからない。


 別に、店員に知られても構わない。それより、このちょっと変な人としゃべってみたい、と思った瑠衣は席を立った。

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