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 ゴールデンウイークに突入した。


 光弦のキッチンカーを手伝うため、江戸川サイクリングロードを走る。菜の花はすっかり元気を無くしていて、瑠衣も気を落とす。もう黄色の光に包まれることがない自身を暗示しているようだった。


 柴又に到着し、キッチンカーの準備を始める。光弦はやる気満々といった様子で、薄手の長袖を腕まくりして陽に焼けた細い腕をあらわにしていた。


「ゴールデンウイーク初日だからね! いっぱいお客さんに来てもらって、車の借金返すわよ!」


 借金という言葉に、瑠衣は目を丸くする。


「借金してるの?」


 そんな話は聞いていない。不味いことを言ったとばかりに、光弦は顔をしかめる。


「いやまあ、大した額では……」


「いくら?」


「……中古とはいえ車を買っているということで、お察しくださいませ」


「車のローンではなくて?」


「ローン、通らなくて……」


「変なところから借りてないよね?」


 瑠衣の質問に、光弦は勢いよく首を横に振る。


「親だから! 大丈夫!」


 身内からの借金であることに、瑠衣はほっと胸をなでおろす。大丈夫かといえば、別に大丈夫ではない気がするけれど。


「そういうわけで余裕がなくてバイト代払えないから、身内の瑠衣にお手伝いしてもらえて助かるわ~」


「……やっぱり、お給料でないよね?」


「出ないわね!」


 でもヒマなんだからいいでしょ? と言わんばかりのするどい目つきに、瑠衣は小さく肩をすくめる。


「副業禁止だから、そのほうがありがたいよ。それに、こんなにいい景色を教えてくれたんだし」


 瑠衣は、目の前に広がる広大な河川敷を見つめる。緑がたくさんあって、空が青くて開放的でとても心地よい。


「気に入ってくれてよかった。瑠衣の声もずいぶん大きくなったしね」


「え、私、声小さかった?」


「うん。歌わなくなるとこんなに小さくなるの? って思ってた」


 自転車のおかげかもしれない。すっと体が軽くなって、気持ちも前向きになるから、声も自然とハキハキ出てくるようになったのかも。


 柴又は、地元民だけでなく観光客や河川事敷の野球グラウンドにいる野球少年と保護者などでにぎわっていた。しかし、だからといってキッチンカーに客が訪れる……というわけではない。近くには自販機もカフェもあるし、駅の方へ行けばレストランもある。柴又帝釈天の参道で食べ歩きする人は、河川敷のキッチンカーでアイスを買わない。


 閑古鳥が鳴くほどでもないけれど、早々に借金を返せるほどでもない。


 ぼんやりと、行き交う人を眺める。つい、口が軽くなる。


「ねえみーくん。恋愛対象って、どうやったらわかるのかな?」


「はい?」


「……女の子と一緒にいると安心するっていうか……一緒に住むなら女の子がいいかなって思ったりして。なんか、男の人って怖いっていうか、信用できないっていうか」


「それ、男のアタシの前で言う?」


 光弦が、人差し指を頭の横に立てて鬼のポーズをする。


「あ、ごめん……みーくんじゃなくてなんていうか……業界の人」


 言い訳じみた物言いで、誤解を解く。瑠衣にとって、大人の男性とはすなわち芸能人か業界の人だった。


 芸能人も業界の人も、なんだか瑠衣とは違う星の住人という感覚だった。多かれ少なかれ、金か女か権力のいずれまたはすべてが好きな雰囲気。好きになれそうな男の人はいなかった。


「あーなるほどね。サンプルが偏りすぎているせいで、男と女どっちが好きかなんてわからなくなりそう」


「みーくんは……その、どっちが好きって、いつわかったの?」


 光弦は、女性の恋人とバックパックの旅をしていた。ということは、女性が好きということなのだろう。いつそう感じたのか知りたかった。


 しかし、光弦は瑠衣の予想に反する答えを口にする。


「今もわからないわ。だってあの彼女と別れて、今は彼氏ができたんだもーん!」


 きゃ、と光弦は手を頬にあてた。


「……え?」


「え? じゃないわよ。アタシはね、人間が好きなの。性別は二の次よ!」


 なんだか複雑な人に相談してしまった、と表情に出てしまったのか、光弦は瑠衣の顔を見てチチチ、と人差し指を左右に振った。


「瑠衣から見たらよくわからないだろうけど、アタシはただ、シンプルに生きているだけよ。好きな人と付き合いたい。やりたい仕事をしたい。それだけ」


 光弦の言い分は理解できた。ただ、自分に素直に生きてるだけ。それは羨ましいことだと思った。


 けれど、瑠衣にとっては「何が自分にとって素直な行動なのか」がわからない。複雑に考えすぎているのかもしれないけれど、どうしたって答えは出ない。


 その後、お客さんが立て続けに来たため、この話はここで終わりとなった。


 客が途切れ、一息つくために瑠衣はキッチンカーの中に入った。まだ春なのに日差しが強くて、外に立っていると体力を奪われる。


 光弦が氷の入った水を差し出してくれた。冷たい水が喉を通り、生き返ったような気持ちになる。


「ところで、瑠衣には今度、敵情視察に言ってほしいのよね」


 光弦の提案に瑠衣は首をかしげる。


「えっと……ライバル店を見て来いってこと?」


「そう。アタシ、もっとお客さんに喜んでもらいたいのよね!」


 輝く笑顔が、少し意外だった。借金があるというのに、少しのんきなのでは? と思ってしまう。


「お金のためじゃないの?」


 瑠衣の言葉に、光弦はハハっと笑う。


「じゃあ聞くけど、瑠衣はお金のためにアイドルしてたの?」


 聞き返されるとは思わず、瑠衣はバツが悪くなる。


「……そういうわけじゃ、ない」


 もちろんお金は大切。がんばった分だけお金をもらえるのはとてもやりがいがある。


 でも、お金のためだけだったら、もう少し楽な仕事をする。常に、自己肯定感を削られる日々。売れっ子アイドルでもないから、給与は特別多いわけではない。でもやっぱり歌うことが好きで、ファンの人の喜ぶ顔が見たいから、がんばってこられた。


「そう言われてみると、どんな仕事でも根っこは同じなのかな」


 お金を得る手段はいくらでもある。その中で、自分のやりたいこと、得意なことから仕事を選ぶ。とはいえ今の瑠衣は、どんな手段で人を喜ばせたいのかイメージできないから困っているのだが。


「そうね。でもアタシたち、めんどくさい生き方よね。人に喜ばれなくちゃイヤ! 自分のやりたいことだけやりたい! なんて」


「たしかに。借金してまで好きな仕事しようって思う人ばっかりじゃ、世界は終わるよ」


「ヤダー! アタシったらハルマゲドン? ラグナロク?」


 瑠衣にはハルマゲドンやらラグナロクがなんなのかわからなかったので、黙っておいた。知識がなさ過ぎて会話が成立しないんじゃないかとヒヤヒヤする。本を読めば多少は知識が増えるのだろうか。


「てことで、お客様に喜んでもらうためにも、敵情視察お願いね。お店はピックアップしておくから、時間ある時にでもよろしくね」


「はぁい」


 ちょっとめんどうくさそうに答える瑠衣を見て、光弦は優しい視線を送る。


「空っぽの箱から無理やり正解を探したって見つからないから、今は箱をいっぱいにできるよういろいろ経験したらいいわ」


 瑠衣は思わず呼吸を止める。光弦は瑠衣をこきつかっているだけだと思っていたが、キッチンカーで働くことを通して世界を広げようとしてくれているのかもしれない。


「ありがとう。いろいろ、見てみる」


 今は、このキッチンカーでお客さんに喜んでもらえるよう、がんばるしかない。その過程で、なにか興味関心があることを見つけられたらいい。


「すみませーん、いいですか?」


 外で、男性の声がした。


「いらっしゃいませー!」


 お客さんだ。瑠衣はタブレットを手に取り、キッチンカーから出た。若い男性二人組だった。


「いらっしゃいませ。お決まりになりましたらどうぞ」


「えっと、バニラとチョコのアイスをダブルで、それとバニラアイス乗せのアイスコーヒーMサイズをひとつずつ」


 瑠衣は注文を聞きながら、タブレットを操作していく。光弦が注文システムを構築してくれたから、とても便利。間違いもないし、あとあと帳簿をつけるのも楽だ。こんなこともできる光弦はやっぱり、すごい。


「バニラとチョコのアイスダブルをおひとつ、バニラアイスのアイスコーヒーMをおひとつですね」


 タブレットにメニュー名と合計額を提示する。支払いはコード決済とのことで、タブレットのカメラでお客さんのスマホに表示されたバーコードを読み取る。


「ありがとうございます。少々お待ちください」


 会計を済ませている間に、アイスクリームとコーヒーフロートが提供される。光弦は手際が良い。男性客はそれぞれを手にしてから、瑠衣をじっと見た。嫌な予感がする。


「あの……るいるいですか?」


 キッチンカーを手伝いはじめて半月だが、ようやく瑠衣を知っている人が現れた。瑠衣は自然に「接客業の笑顔」から「アイドルの笑顔」になった。間違い探しをしても、分かる人はいないかもしれない。


「はい、そうです。あ、でもこれは親戚の手伝いをしているだけで……」


 すぐに言い訳が出てくる。ネットに「キッチンカーで働いていた。副業?」「彼氏と一緒だった」と書かれるのは心外だから。


「るいるいの従兄でーす! るいるいのお母さんのお兄さんの一人息子でーす!」


 光弦がキッチンカーの中から助け船を出してくれる。光弦の明るい声とキャラクターに、男性客の表情もゆるむ。


「あ、なるほど……。るいるい、応援してました!」


 してました、との過去形。でも、この程度のことでアイドルの笑顔は崩れない。


「ありがとうございます!」


 どうせ、すみれドロップスの他のメンバーのファンで、ついでに瑠衣のことも見ていた、くらいのものだろう。顔に覚えがない。


「また、歌ってください!」


 無邪気な笑顔に、瑠衣も無邪気を装って返す。


「はいっ!」


 ここで、ファン相手に真実を語る意味はない。アイドルのるいるいとして返事をすればいい。


「それじゃ」


 瑠衣は、去り行く男性2人組の背中を見送る。


 2人は、顔を寄せ合って小さく言葉を交わす。


「るいるい、落ちぶれたな」


「しばらく見ない間に劣化したし」


 おそらく、瑠衣に聞こえない声に落として会話したつもりだろう。でも、瑠衣の耳にははっきり聞こえた。


 瑠衣は笑顔のまま、2人の背中を見つめた。久しぶりにイヤな言葉を聞いたけれど、アイドルの笑顔だったから崩れずに済んだ。「落ちぶれた」「劣化した」程度の言葉なら、優しいほうだ。


「瑠衣……」


 心配そうな光弦の声に、瑠衣は笑顔のまま振りかえる。


「慣れてるから、平気」


 アンチの声、心無い声。100の褒め言葉より1つの誹謗中傷に心を持っていかれるというのは、よくある。


 でも瑠衣は、すみれドロップスとしてデビューが決まって悪い言葉が届き始めた時に、心に決めた。絶対に、自分を好きな人たちからの嬉しい言葉を汚さないと。


 だから大丈夫。すぐ忘れる。


「ごめん、ちょっとトイレ言ってくる」


 少し頭を切り替えよう。瑠衣はエプロンを置いて、近くの公衆トイレの個室に入った。


 清潔な空気ではないけれど、一人になれる空間がありがたい。手癖でスマホを見る。


 メッセージの通知が来ていた。すみれドロップスのOGメンバーで、リーダーをやっていた最年長メンバーの藤宮凪沙(ふじみやなぎさ)からだった。


『瑠衣、久しぶり! 今月のすみれドロップスの武道館公演、来るでしょ? 最近会ってないから、会いたいな。みんなも会いたいって』


 3歳上の凪沙は、よく瑠衣の相談に乗ってくれていた。デビュー当時は19歳だったから、高校1年生の瑠衣からしたらすごく大人だった。


 既読はつけたものの、返事はできなかった。


 凪沙は3年前にすみれドロップスを卒業後、ミュージカルを中心に芸能活動をしていて、来期の朝ドラにも主人公の友人役で出演することが決まっている。アイドルを定年退職しても、セカンドキャリアも順風満帆な様子だった。


 自称ファンに「落ちぶれた」と思われるのは、仕方ない。どうでもいい。トイレに少しこもれば気持ちは切り替わる。でも、同じグループにいたメンバーに落ちぶれたと思われたくなかった。全部、自業自得なのだけど。


 トイレの個室を出る。洗面所の鏡を見ないようにうつむいて手を洗い、瑠衣はキッチンカーへと戻っていった。

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