2-2
その日は、ひまりの家に泊まることにした。瑠衣は、すみれドロップス時代から清澄白河駅近くに住んでいるひまりの家によく泊まっていた。ひまりは繊細な性格故、大きな仕事の前はひとりでは眠れないと、瑠衣を家に招いていたから。
いつもと変わらない、シンプルながら清潔感のある部屋だ。白や薄茶の家具で統一されている。
「ねー、これすんごいいいにおいだよ!」
お風呂からあがったひまりが、乾かしたてのふわふわの長い黒髪を瑠衣の鼻先に近づけてきた。さっきプレゼントしたピンク色のボトルを手にしている。
甘くて、フローラルで、フルーティーな……そんなような匂いが鼻をくすぐる。ホワイトなんちゃらフルーティーという名前が付いていたような気もするけれど、瑠衣は覚えていなかった。
「さっきあげたヘアオイル?」
「うん! さっそくつけてみたけど、やっぱいいにおい~。幸せな気分になっちゃうねぇ」
指でつまんだ毛先を自分の鼻に近付けてすんすんと香っている。
「あ、そうだ。あのヘアオイルをもらったこともブログに載せていい?」
「いいよ」
「やったねー! 明日載せる!」
ひまりはテーブルの上にヘアオイルを載せて、写真を撮り始める。
その間、瑠衣は先ほど更新されたひまりのブログを見る。
『今日はお昼にツアーのリハ! そのあと瑠衣ちゃんと遊んだよー!』
コメントとともに、カフェで撮影した写真も載せている。瑠衣もひまりも、どちらも写りが良いものだった。
「あ、ブログあがったんだ。マネさん仕事はやーい」
いいにおいをまとったひまりが、瑠衣のスマホを覗きこむ。ブログはマネージャーが内容を確認してから掲載される。だいたい、夜の10時頃に一斉にアップされることが多い。
コメント欄を見る。「ひまちゃんの公式彼氏だ!」「この2人好き」「るいるい元気そうでよかった」といった言葉が並んでいる。誰が公式彼氏だ、と画面に向かってツッコミを入れる。
「瑠衣ちゃんはSNSとかしないの?」
「あー……あんまり得意じゃなくて」
もともと、言葉で発信することは苦手だ。グループ時代はそれでも頑張って更新したけれど、今はそのやる気もない。そもそもなんの活動もしていないから、ファンに伝えられるようなこともない。
「でも、瑠衣ちゃんのファンの人、寂しがってるよー?」
もこもこの柔らかい風合いのライトピンク色の部屋着のひまりが、冷蔵庫から水だししたとうもろこし茶を取り出し、瑠衣の分も注いでくれた。
「ありがと……」
ひまりほどではないにしろ、瑠衣だってファンのことは大切だと思っている。ファンが喜ぶことをしたいとも思う。ファンにがっかりされたくないし、失いたくもない。ひまりみたいに可愛い子がたくさんいる中で、瑠衣のことを見つけて好きになってくれた人たちだ。
でもそれは「すみれドロップスのるいるい」が好きなだけで、「大森瑠衣」が好きなわけじゃないということも、わかっている。グループを卒業しても「あの頃のるいるい」を重ねて見ているのであろう。
「あのさ……」
瑠衣は、香ばしいとうもろこし茶を口にしながら、口を開く。
「ひまりもいつかはすみれドロップスを卒業することになるけれど、卒業後の進路、どう考えてる?」
「わたし? うーん、そうだなぁ」
ひまりは、形のいい眉をひそめて天井を見上げる。
「まだ、決めてない」
曖昧な顔をしながら、首をかしげる。
「ソロ活動しても、十分やっていけると思うけど」
「えー、どうだろう?」
ふと、もしかしたらひまりは芸能活動をやめてしまうんじゃないか、と予感がした。瑠衣の空っぽの心に、冷たい風が吹く。
「で、でも、芸能活動をやめちゃったら、今みたいに毎日「かわいいいね」「好きだよ」って言われなくなっちゃう。誰からも必要とされてない感覚になるよ?」
毎日のように、誉め言葉や愛の言葉を浴びて生きていた。でも普通は、そんな言葉を浴びることはない。なくなってはじめて、過剰に供給されていたことを知った。
慌てた瑠衣の口調に、ひまりは考え込む。
「できればずーっと、アイドルを続けたいよ。でも、いつまでもできることじゃない。かわいいって言われているうちに、辞めるべきと思う。……あのね、瑠衣ちゃんには先に伝えておくけど、わたし近々卒業発表するんだ」
卒業という言葉に、瑠衣は頭が真っ白になった。どうにかして言葉をひねり出す。
「そう、なんだ。まだ、23歳なのに」
かすれた声に気づいているのかいないのか、ひまりは穏やかな笑顔を浮かべている。
「ちょっと早いけどね、でもセカンドキャリアは早い方がチャンスも多いから」
そっか、と返事をしたつもりだったけれど、口の中に言葉がこもる。すみれドロップスは卒業と加入を繰り返して10年続いてきたグループだ。とはいえやはり、メンバーの卒業は寂しいものがある。特にひまりは、最後のオリジナルメンバーだ。すみれドロップスを結成から知るメンバーがいなくなる、ということ。
「正式発表までまだだいぶあるから、ナイショね。事務所の人以外は瑠衣ちゃんにしか言ってないの」
「お母さんにも?」
ひまりはこくんとうなずく。
親よりも先に知れたことに、若干の優越感が生まれてしまう。
「でもそっか、アイドルじゃなくなったら褒められなくなるのか~。アイドルを辞めても、毎日褒められたいな~」
ひまりは、うふ、とわざとらしく握った両手をあごの下に置いた。
「瑠衣ちゃんは、その寂しさをどこで埋めているの?」
興味津々、といった様子で瑠衣を覗き込む。
「……埋まってない」
埋まるどころか、空っぽの心はどんどん広がっている。ひまりは、聞いちゃいけないことを聞いた、と気まずげな表情で目をそらした。
毎日、かわいい、好きだよって言ってくれるファン以外の人って、誰だろう。
「彼氏でも作ろうかな」
瑠衣が、とうもろこし茶に向かってひとりぼやく。
真面目な瑠衣は、これまで彼氏を作ったことがない。恋愛禁止と明確にルール化されているわけではない。しかし、男性との写真を撮られたりSNSの鍵アカウントに自分で載せていたものが流出したりして彼氏バレした場合、究極の二択を迫られる。「友だちです」と苦しい言い訳をしてファンに叩かれながら平気な顔をしてアイドルを続けるか、グループを辞めるか。
適当なウソをついて平気な顔で活動を続けることも、グループを辞めることもしたくなかった。だったら、彼氏なんていらない。
「人生で、誰とも付き合ったことないんだっけ?」
「うん。片思いもない」
アイドルになるんだと思っていたから、幼いころから親しい男の子は作らなかった。人生で、誰かを好きになったことがない。どうやって恋を始めたらいいのだろうか。
ひまりもきっと、知らないだろう。真面目でファンを裏切らないひまりが、彼氏なんて作るわけがない。
「ひまは応援するよ、瑠衣ちゃんの恋活!」
ひまりは瑠衣の座るソファの隣に座り、ヘアオイルの瓶を手に取る。プッシュしてオイルを出し、手になじませる。そして、瑠衣を正面からじっと見つめたまま、両手で瑠衣の頭を撫でるように、ヘアオイルを塗っていく。
「瑠衣ちゃんの進路も恋活も、ぜーんぶうまくいきますように」
間近にあるひまりの顔。くっきりとした二重の大きな目、グレーがかった瞳、小さな鼻、光を反射する頬。甘くてフローラルでフルーティーな香りも相まって、めまいがしそう。
間近で顔を見ることは、よくある。ライブや写真撮影などで顔をくっつけたり、肩を抱き合ったり、ハグしたり。とにかくスキンシップが多い。けれど、なんてことないタイミングで顔を近づけられると、慣れているとはいえ緊張してしまう。ひまりの顔を直視しないよう、視線を落とした。それはそれで、ひまりの生足が目に入ってまたソワソワしてしまったのだが。
「これでお揃いの匂いだね~。この匂い、たぶんモテるよ!」
やさしく、毛先まで丁寧にケアされていく。最近、こんな風に誰かに接してもらったことがないかもしれない。
「ありがと、ひまり」
「ううん。瑠衣ちゃんの笑顔がひまの元気にも繋がるから!」
「こっちこそ。ひまりのおかげで生きられてきたようなものだよ」
うふふふ、と笑いあう。
「あ、そうだ! 大学の卒業写真見るー?」
「見たい!」
ひまりは、写真館で前撮りした大きな写真と、スマホで撮った卒業式の様子を見せてくれた。いくつかはひまりのSNSでも見たが、大学名にモザイクが入ってるソロショットのものだけだった。今瑠衣が見ている写真は、プライベート感のあるものばかり。友人たちと楽しそうに集まって写真を撮っているひまりは、どこか知らない人のようにも見える。
「可愛いね。赤も似合うよ」
赤地に桜が描かれた、古典的なデザインの着物だった。今っぽい柄を選ばないところがひまりらしいと思った。
「ありがと! メンカラのピンクにしようかと思ったけど、やっぱ普段着られない色にしようかと思って」
瑠衣の妹の亜未も、先月大学を卒業した。両親は卒業式に行ったが、口をきいてもらえない瑠衣が行けるわけもなく。母に写真を見せてもらった。深緑色の落ち着いた袴が似合っていた。
袴姿だけじゃない。瑠衣が研修生になった14歳――つまり亜未が12歳のときから、瑠衣は亜未をほとんど見ていなかった。同じ家に住んでいるのに、中学や高校の制服を着た亜未を見たことがない。仕事がある日は早朝から晩まで家をあけるし、オフの日は昼まで寝てそれから外出して夜に戻る、みたいな生活。
気が付いたら、亜未は社会人になっていた。定年退職後に家族にすり寄るお父さんみたいな居心地の悪さを、アイドルを辞めた半年で体験することになろうとは。
「瑠衣ちゃん? どした?」
「あ、いや……あのさ、ひまりって、すみれドロップスとしてデビューが決まった14歳で、お母さんと上京したじゃん? そのとき、他の家族はどうしていたのかなって。ふと気になって」
卒業式の写真には、ひまりとひまりのお母さんしか写っていなかった。
「山梨にはパパとお姉ちゃんが残ったけど、楽しそうだったよ」
「楽しそう?」
意外な返答に瑠衣は首をかしげる。
「うん、パパとお姉ちゃんは自由人だから、口うるさいわたしとママがいなくてラッキー、みたいな」
「あ、ひまりも口うるさくしてたんだ……」
あはは、と珍しく顔をくしゃっとさせて、ひまりは笑う。
「パパは酒ばっか飲んでるしお姉ちゃんは勉強せずバイトばっかで学校休むし、もーなんなのー? って。で、見かねたママが、わたしが18歳になったタイミングで山梨に戻ったってワケ。誰かがパパの面倒を見ないと早死にしそうだし。まあ、お姉ちゃんはバイトで貯めたお金でどこかへ引っ越したらしく、いつのまにかいなくなっちゃたけど」
意外だった。ひまりの母親も真面目な人だから、家族全員がそうだと思っていた。父親は紙の新聞を読んでいて、姉は生徒会長をやっていて……というイメージ。
瑠衣は、ひまりのことをなんでも知っていると自負している。約10年、毎日朝から晩まで一緒にいたのだから、家族以上に家族のことを知っていると思っていたが、認識を改めなくてはならないようだ。
「なんか……苦労しているんだね。おもにお母さんが」
「確かに。ママは大変だと思うよ。真面目だと思っていた下の娘もアイドルになるなんて言い出したんだもん」
想像すると、ぞわっとする。夫のため子どものため、家族に尽くし続けるなんて瑠衣にできるだろうか。
「その分、いっぱいお金を稼いでママを楽させてあげたい。せめて老後にお金の心配をさせないようにしたい」
伏せた瞳は濃くて長いまつげに覆いかぶさり、ひまりの表情を見ることは叶わなかった。
深夜0時を回ったころ、ひまりのシングルベッドに身を寄せて、眠る。寂しがり屋のひまりは「一緒に寝よ!」と言っていつも瑠衣をベッドに引きずり込むからだ。結局いつも、瑠衣が腕枕をしているかのような体勢となる。
瑠衣の胸に顔をうずめるように、スースーとほのかな寝息を立てるひまりを見ていると、なぜか苦しくなる。
こんな可愛い彼女がいたら幸せだろうな。でも、自分はこんな風に可愛い彼女になれるだろうか? 想像ができない。
瑠衣は、一度も染めたことがないひまりの髪を撫でる。
初恋って、どんな気持ちになるんだろう。こうして、ひまり相手にちょっとドキドキすることも、恋のようなものなのだろうか?
いつか変わりゆく関係であることくらい、わかっている。50歳になった瑠衣とひまりがシングルベッドの上で身を寄せ合って眠ることなんてことは、ないだろう。では、いつまで続く? もしかしたら、今日が最後かもしれない。
でも、もし……ひまりも今後誰とも付き合わずに結婚もしないのであれば、一緒に生活してみたい、と思った。ひまりとなら、うまくやれるんじゃないか。
「ひまり。おばさんになってもお互い独身だったら、一緒に暮らそう」
なんだか、プロポーズみたいな言葉が口をついて出た。起きてないよね、と不安になってしまう。
やっぱり、ひとりは寂しい。でも、今更知らない異性と親交を深めて、家族になって、死ぬまで一緒にいることなんて、どんな神業だろうかと気が遠くなる。
キッチンカーのお客さんの中には、老夫婦も多くいる。傾向として、夫側がかいがいしく妻の世話を焼く夫婦が、あのような観光地にいることが多い気がした。率先してコーヒーを買い、花壇の前に妻を立たせて写真を撮る。撮られるほうの妻も「恥ずかしい」と言いつつまんざらでもない表情。高齢夫婦というのは、無口で気難しい夫の機嫌を妻が取る、というイメージだったけれど、老後まで仲良くお出かけできる人たちはそうではなさそうだ。
幸せそうでしかない。
あんな風に愛されて、老後を過ごしたい。でも、一体誰に愛されるというのだろうか。
瑠衣は、わずかに力をこめてひまりを抱きよせる。瑠衣の鼻先をお揃いのにおいがくすぐった。