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光弦から、おしりの部分にパットの入ったタイトなロングパンツを履かされた瑠衣は、玄関の外に出た。家の壁に、1台の自転車が立てかけられている。ママチャリではなく、ロードバイクと呼ばれる自転車。ハンドルは羊の角のようにカーブを描いていて、サドルも高い。前かごも荷台もなく、洗練された乗り物だった。
「これ、ロードバイク?」
「そ。これなら30kmの道のりも楽々よ。アタシが昔乗っていたものを実家から持ってきた」
赤から黒のグラデーションになっている車体。光弦の好みっぽいな、と瑠衣は思う。しかし、自分がロードバイクに乗って柴又まで行くなんて、どう考えても無謀な気がする。
「んじゃ、ちょっと練習しましょ」
ほい、と光弦は瑠衣の頭にヘルメットを乗せた。あご紐をカチっと閉めると、圧迫感に喉がきゅっと苦しくなる。
「はい、自転車にまたがって」
「はーい」
光弦が「暗闇でもがいているってわかってて見過ごせない」と言ってくれたことは嬉しかったから、素直に従ってみようと思った。両親のように黙って見守るのも愛情だけれど、光弦のようにおせっかいを焼いてくれるのもまた、愛情な気がした。
瑠衣は見慣れない形のハンドルを握り、足を後ろにあげて自転車にまたがる。
「サドルの高さ、低めにしておいたわ。これなら、サドルにまたがったまま足をつけるから」
「本当は、サドルにまたがったまま足をつかないの?」
「そう。そのほうがこぎやすいからね。ロードバイクは乗りやすさよりも速さを求める乗り物だから」
「ふぅん」
「じゃ、こいでみましょ」
「え、でもはずかしいよ。いい年して自転車の練習なんて」
小学生の子ならまだしも、25歳なのに。近所の人に見られたら、アイドルをやめておかしくなったのかと思われそう。
「練習しないでコケて大けがするのと見栄とどっちが大事なのっ!? コケたらもっと恥ずかしいわよ!」
「……はい、そのとおりです」
光弦はいちいち正論を言う。
でも……腫れ物のように扱われているように思っていたから、ずばずばと言ってくれるのはありがたかった。研修生時代やデビュー当初の厳しい先生たちみたい。
「ブレーキはこれね。効きがいいから、ぎゅっと握るとつんのめるわよ」
光弦は羊の角の根本部分から生えているレバーを指さした。瑠衣は、ブレーキを軽く握って効きを確かめる。
「じゃ、道路に出てみましょう」
光弦は道路に出て、周辺に通行人や車がいないかを確認する。この辺は住宅街で交通量ないから滅多に車は通らない。宅配のトラックもまだ来ない時間だ。
家の駐車スペースから、道路のほうへと自転車をすべらせる。
ママチャリとは違い、ロードバイクはかなり前傾姿勢になるから、恐怖心がむくむくと湧いてくる。あごをあげないと前方が見えない。
しかも、ハンドル操作がなんとも柔らかい。ぐらぐらと左右に揺れて、まったく安定しなかった。思わずブレーキを握ると、効きが良すぎて体だけが慣性の法則で前につんのめる。
「これ、自転車……?」
ビビり散らかす瑠衣を、光弦は愉快そうに眺める。
「ね、別の乗り物みたいよね。とにかく、前に進むためだけに作られた乗り物よ。ロード”バイク”って言うくらいだもの」
バイクの部分を強調して光弦が言う。瑠衣はバイクに乗ったことはないけれど、いわんとしていることは分かった。自転車よりも、バイクに近いような気がする。
「もう一回、乗ってみる」
「自転車は、ペダルをこぐことで安定する乗り物よ。おっかなびっくりやっているほうが不安定で怖いわよ」
瑠衣は再びペダルを踏みこむ。光弦のアドバイス通り思い切って力をこめると、すいーと前に進んだ。操作が柔らかいハンドルだけど、ある程度のスピードが出ると安定してまっすぐ走れるようになってきた。ハンドルを持つというより、上から押さえつけるといった感覚が近い。
二、三軒分進んだところで、Uターンを試みる。が、スピードを落としてハンドルを切ろうとするとまたふらついた。怖かったけど、ペダルを少し踏み込んで前進させることで少し安定させる。
他人の家の植木鉢に接触せず、無事に自宅前まで戻ってきた。
地面に足をつくと、ほっとした感情と共に、枯渇感が喉元までせりあがってくる気がした。
子どもの三輪車にも負けるようなスピードじゃなくて、もっともっとスピードを出して走りたい。
「どう? 乗れそう?」
「うん、なんか楽しい」
「さすが、ダンスやってただけあって飲み込みが早い! じゃあ時間もないから出かける準備してレッツゴーよ」
光弦の指示で家の中に戻り、小ぶりのリュックサックに必要最低限の荷物をつめ再び自転車のもとへ。いつのまにか、自転車に取り付けられたドリンクホルダーにペットボトルがおさめられていた。
「飲み物はここね。行先はスマホに登録しておいたけど、難しい道のりじゃないから。流山橋を渡ったら、左手側に見える道をひたすらに南下すればオッケー。信号もないから、ベンチがあるところで適宜休憩してね」
「信号がない?」
言っている意味がわからない。片道15kmの道、しかも東京なのに信号がないわけがない。
「道を選べばね。ロードバイクに乗っている人について行けば、信号にぶつからず柴又まで行けるわよ。それが江戸川サイクリングロードってやつ。それ以上に、絶景が瑠衣を待ってるから楽しみにしてなさい」
何者なのだ、江戸川サイクリングロードってやつは。瑠衣はまだ見ぬ江戸川サイクリングロードに恐れを抱き始めていた。
自転車で10分足らずの流山橋まで、おっかなびっくり自転車を走らせる。光弦は「アタシはキッチンカーで行くから、現地合流ね!」と言って、走って帰っていった。そうか、来る時は自転車に乗ってきたのか。それにしてもエネルギッシュだなと瑠衣は感心した。今の瑠衣よりもよっぽど元気だ。
上り坂となると、またロードバイクのハンドルコントロールが難しい。悪戦苦闘しつつ流山橋に到着。千葉県流山市と埼玉県三郷市を結ぶ橋で、東京都心に行き来もしやすい。いつも渋滞している。
江戸川まで来ると、瑠衣と同じようにロードバイクに乗っている人をよく見かける。皆一様に肌にぴったりフィットするピチピチの派手な色の服を着ていて、サングラスをつけている。街中ではほとんど見かけないが、ヘルメットの着用率も100%だ。
瑠衣は、あがった息のまま流山橋を渡る。右手側は車が列をなしているが、左側は広大な江戸川を望めた。午前中の澄んだ空気の中、川面は太陽の光をキラキラと反射させている。青空を映し出した江戸川は、おだやかに東京方面へと流れていた。
対岸の土手を見てみると、なんだから黄色っぽく感じる。太陽の光のせいなのか、と思いつつ見ていると、それがどうやら違うらしい。
そういえば、光弦は『菜の花がきれい』と言っていた。もしかして、あれが菜の花? でも、土手一面に、延々と続いているけれど……本当に?
それにしても、江戸川の川幅は広い。なかなか埼玉側にたどり着かない。
ふうふうと上がる息。すみれドロップスにいた頃に比べて、格段に体力が落ちているとイヤでも実感する。
ようやく橋を渡り終え、埼玉県へ。光弦は『橋を降りたら即左側のサイクリングロードに入るのよ』と言っていたので、ぐいとハンドルを左に切る。黄色い花に彩られた道が、瑠衣を出迎えてくれた。線路をくぐるゆるやかな坂道をくだっていく。
菜の花の強烈な匂いが鼻を刺激する。道端で数本群生しているとわからないが、これだけの料があると刺激的な香りになるのだと、少し顔をしかめながら瑠衣は新たな発見に目を見ひらく。
ここから先は、ひたすら江戸川サイクリングロードを南下して柴又に向かう。本当に信号がないのだろうか?
少し走ると、九十九折になっている登り道があった。細い道だから、まだロードバイクに慣れていない瑠衣は足をつきつつ曲がっていき、土手の上へと登る。道の両サイドを彩る菜の花は青空を背景にくっきりと映えていて、ふと、天国への道ってこんな感じなのかな、と思った。
土手の上の道に出ると、さらに圧巻だった。
両サイドは、道を狭めるほど菜の花がせり出してきている。ぎっしりと密集していて、菜の花が息苦しそうに感じるくらい。菜の花とサイクリングロード以外は青空しか目に入らない。
あの日の、日本武道館みたいだ。真ん中に瑠衣がいて、黄色のペンライトに囲まれて、それ以外は存在していなくて。ファンの声援の代わりに、野鳥の鳴き声が聞こえてきて。思わず目を細める。
こんな景色、知らなかった。山奥の方に行かないと出会えない景色だと思っていたけれど、こんな身近にあっただなんて。
思わず、鼻歌を歌ってしまう。卒業以来、久しぶりにすみれドロップスの歌が口をついてでた。春のウキウキ感と初恋のワクワク感をポップに歌った曲だ。人とすれ違う時は心の中で歌い、周囲に人がいないことを確認してまた歌い始める。
やっぱり、歌はいい。子どもの頃は、仕事とは関係なしにずっと歌っていたことを思いだす。
こういう景色の中にいたら、曲もつくれるんじゃないかって気になってくる。この美しい景色を、歌で残しておきたい。……と思ったものの、特にこれといってインスピレーションが湧かない。やっぱり、楽曲作りには向いていないのかも、と落胆する。
光弦の言う通り、サイクリングロードには信号がない。線路や橋はあれど、アンダーパスでスムーズに通過できる。遠くに、スカイツリーの上部が見えてきた。
風を切って走る、というよりも、瑠衣自身が風になったような気分だった。多くのロードバイク乗りに抜かされるくらいゆっくり走っているけれど、それでも風は風だ。
埼玉県から東京都に入ると、菜の花は少なくなっていった。むせかえるほどのにおいもない。人も増えてきたけれど、その分サイクリングロードの幅が広いため、ストレスは少ない。車がすれ違えるほどの道幅があるけれど、車は通行禁止。贅沢だなと思った。
看板を見ると、もうすぐ柴又に到着するらしい。スマホでナビを確認する必要もなく、ただ一直線の信号のない道を走ってきたのだ。
最初は、15kmも走れないと思っていたのに、あっという間だった。もっと走りたかったのに、とすら思うほど。
ほどなくして、サイクリングロード側にグランドにくすみブルーを基調としたキッチンカーを見つける。『アイスクリーム』『コーヒー』と書かれたのぼりがたっていた。
自転車を降りてキッチンカーをのぞいてみると、光弦が慌ただしく準備をしていた。
「みーくん」
声をかけると、光弦は目をカッと見開いて笑顔を見せた。
「あら、ちゃんと来れたのね! よかった。自転車はキッチンカーの裏手に適当にたてかけといて」
言われた通り、スタンドのない自転車をキッチンカーに立てかける。ヘルメットを外して、ハンドル部分にひっかけ、少し乱れた髪を結び直した。
キッチンカーと同じ色の、くすみブルーのエプロンをつけた光弦が、車の中から瑠衣に声をかける。一段高い位置に、光弦の姿がある。
小さなキッチンカーの中を見る。小さなシンクが2つあり、シンクの下にはポリタンクが5つ積まれていた。また、アイスクリームのショーケースもある。冷凍機能を保つための大きなバッテリーもある。
すごく小さいのに、中は立派な飲食店だ。
キッチンカーの中に入ってアイスクリームのショーケースをのぞきこむ。バニラ、いちご、チョコ、抹茶、黒蜜きな粉、チョコチップという6種類。隣には、コーヒーのドリップマシン。また、好きなアイスを乗せられるソーダフロートやコーヒーフロートもメニューにある。
「客の呼び込みとか、お金の受け取りとかやってくれると助かるわ」
「わかった」
ふう、と汗をぬぐう。バイト経験のない瑠衣にとって、食品を扱うのはちょっと怖かったから、少し安心する。お金を扱うのも怖いけれど……。
ぼんやりと、行き交う人を見る。ちらちらとキッチンカーを見ている人もいるけれど、多くはスルーしていく。客の呼び込みって、どうやるんだろうか?
「瑠衣」
ぼんやりしていると、キッチンカーの中から声をかけられる。光弦が、手にカップを持ってこちらに差しのべていた。
「いちごのアイスよ。好きでしょ、いちご」
光弦は、ニコッと笑う。
この人の笑顔は、太陽みたいに明るい。笑顔ひとつでその場を明るくできるって、才能だ。瑠衣は薄目にして光弦を見やる。
「好き、だよ。いちご」
好きだけど、あの日以来選んでこなかったいちご味のもの。もう、食べてもいいだろうか。少しの葛藤が、瑠衣の心中をかけめぐる。
「ここまでよくがんばりましたってことで、店長からのサービスです」
うふ、と笑う光弦を直視できなくて、瑠衣は奥歯を噛みしめて鼻をすん、とすすった。
「花粉症、やばいなぁ」
言い訳がましい独り言をつぶやきつつ、じっといちごのアイスを見つめる。ドーム型にきれいに盛り付けられたいちごのアイスが、宝石みたいに見えた。
光弦の言う、「ここまで」が、サイクリングロードの道のりなのか、それともアイドル人生のことなのか。瑠衣の解釈として、どちらも含めて受け取ろうと思い、木のヘラを手に取る。
口にすると、冷たさと、いちごの甘酸っぱさに思わず目を閉じる。そうだ、いちごのかわいらしい見た目と、甘酸っぱい味と、華やかな香りが好きだったんだ。
「おいしい、おいしいよみーくん」
涙声にならないよう、明るい声を出した。
「瑠衣の人生まだまだ長いんだから、アイスでも食べて休憩する日も大事よ」
光弦は、キッチンカーの中で準備を進めながら、なんてことない風に言う。
人生って、ほんとうに長いんだろうか。だってみんな「あっという間に30代になった」「気づいたら還暦」とか言っているではないか。しかし瑠衣は問い返さず、口にいちごのアイスを運んだ。
今は、光弦の優しさに甘えたらいい。