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 できることなら、夢の中だけで生きていきたい。現実には戻りたくない。ずっと、菜の花に抱かれるような日本武道館の中心に立っていたい。


 けれど、朝は来る。


 瑠衣は、用もないのに朝7時に目覚めて身体を起こす。今起きると、亜未の出社前にかち合ってしまうから、しばらく自分の部屋で過ごすこともルーティンだ。


 無意識にスマホを手に取り、SNSを巡回する。スマホというものは、ドーパミンをじゃぶじゃぶ放出させるらしい。手軽に依存させてくる恐ろしいアイテムだとわかっていても、手放すことができない。興味のない話題まで含め、十二分に目を通す。ああ、違う事務所のアイドルグループの誰それが熱愛を撮られたようだ。脇が甘いんだからと、瑠衣はかすかに口角をあげる。


 玄関のドアが閉まる音を聞いて、瑠衣はようやくスマホを閉じる。7時25分、バスの発車時刻に合わせて1分の狂いもない亜未の出社時間。25分もムダにスマホをいじっていたのかと思ってぞっとしながら、ベッドから体を起こす。


 本を読むとかドラマを見るとか運動するとか、少しくらい自分に利益があることをしないと頭がおかしくなりそうだ。わかっていても、やり始める労力がわかない。


 昔、65歳で定年退職したおじいちゃんが「体が疲れていていて、なーんもやる気が起きない」なんて言っていて意味が分からなかったけど、今ならわかる。とにかく気力がわかないのだ。まだ25歳なのに、おじいちゃんの気持ちがわかるなんて……。


 階段を降りながら、光弦はもう、会いに来てくれないんだろうなと思った。昨日のことは、ケンカとは言い難いかもしれない。けれど、いい年してひねくれて「幸せそうでいいよね」などと言う従妹に会いたい人はいないだろう。


 自分で蒔いた種。いつもそうだ。すみれドロップスのメンバーとはどうにか仲良くやれていたけれど、それは周りのメンバーの性格が温厚だったというのもあるし、なにより「ケンカをしたら仕事がしにくくなる」という自制心がお互いに働いたからというのもあるだろう。仕事が絡まない間柄の場合は、自制心が効きにくい。


「おはよー」


 ため息があいさつに含まれないよう、瑠衣はつとめてフラットな声を出そうと心掛けつつリビングの扉を開ける。


「おっはよー、瑠衣!」


 もう来ないだろうと思っていた光弦が、昨日と同じハイテンションでそこにいた。ダイニングテーブルの椅子について、朝食をとっている。


「え、あ……お、おはよう?」


 ダイニングテーブルには、母も座っていた。父はすでに出社している。


「瑠衣、お寝坊さんねっ!」


「みーくんは、朝から元気だね……」


「元気なフリでもしてなきゃ、こんな世の中やってらんないわよ、ねぇ叔母さん」


「ねぇー!」


 母と光弦は昔からの友達のように笑いあっている。


 瑠衣は、冷蔵庫から牛乳の紙パックを取り、コップを持って光弦の隣の席についた。いつも瑠衣が座る席は光弦が座っているから、亜未が座るところに腰をおろす。いつもと見える景色が違ってどうにも落ち着かなかった。


 グレーのフーディーを着た光弦は、楽しそうに目玉焼きを食べていた。いつも楽しそうで、幸せそう。


 コップに牛乳を注いでいると、光弦が顔をしかめる。


「まさかあんた、朝ごはんそれだけ?」


「うん。起きるのが遅い人にはごはん作りません、ってお母さんが言うから」


 ちらりと母を見ると、心外だと言わんばかりに目を見ひらく。


「当たり前でしょ。決まった時間に起きてこない人に作っても冷めちゃうだけだし」


 起きてこないんじゃなくて、亜未のいる時間に降りたくないだけなんだけど。内心で言い返すものの、きっと母はとうに気づいているだろう。だからこそ、どうにか二人が朝食を共にするように朝食づくりをやめてみたのだろう。結果、瑠衣は牛乳だけを飲む朝食になってしまったのだけど。


「じゃ、お母さんもパートだから、あとは2人で」


 意味ありげに光弦と瑠衣に視線を送り、母も席を立つ。


 母は、瑠衣がアイドルを辞めて時間ができたからパートをするようになった。外の世界を知るようになって大変そうではあるものの、やっぱり輝いているように見える。社会とつながっている安心感があるのだとか。今、瑠衣が求めている安心感を母も手に入れている。


 一気に人がいなくなり、ダイニングテーブルを静寂が包む。おしゃべりな光弦が、しばらく黙ってパンとソーセージを口に運んでいた。


 やっぱり、怒っているのだろう。これからお説教されるのか。朝から憂鬱。世の中から、めんどくさいことやイヤなことがすべてなくなって、楽しいことだけになればいいのに。ごくりと牛乳を飲み干す。


「ごちそうさまでした。ね、瑠衣。提案があるんだけど」


 朝食を食べ終えた光弦は、食器をシンクに片付けるために立ち上がる。ダイニングテーブルのすぐそばのシンクに食器を置いて水につけると、その場所から瑠衣を見つめた。


「提案?」


「うん。まあ食器洗ってから話すわ」


 スポンジに洗剤をつけようとしている姿を見て、瑠衣は慌てて立ち上がる。


「そこまでしなくていいよ」


「でもあんた、やんないでしょ。叔母さんがやればいいって?」


 図星だった。仕事をしていないくせに家事もしていない。


 光弦はそのまま、食器を洗い始める。


 やっぱり、お説教かと気が重くなる。瑠衣以外の家族3人と光弦の食器は、慣れた手つきで洗われていく。


「ねえ瑠衣、アタシは別にお説教しにきたわけじゃないの。人にお説教できるほど偉い人間でもないし?」


 カチャカチャ、ジャーとお皿の触れ合う音と水音がキッチンに響き渡る。けどね、と光弦は言葉を続ける。


「若い人が暗闇でもがいているってわかってて見過ごせないわけ」


「若い人って……みーくんとは10歳しか違わないじゃない」


「10年ひと昔よ」


 最後の一枚を洗い終えた光弦は、タオルで手を拭いてふたたび瑠衣の隣に座る。


「今日、キッチンカーの営業日なの。瑠衣に手伝ってほしくて。場所は柴又よ」


 なるほど、外に出て働けってことか。昨日、羨ましいって言ったことを覚えていてくれたのだろうと納得しかけた瑠衣だったが、次の光弦の一言で目を丸くすることになる。


「ここから自転車で、柴又まで行きなさい」


「は?」


 柴又とは、東京都葛飾区の地名。男はつらいよでおなじみで、帝釈天がある。そしてここは、千葉県の流山市。


「さすがに遠すぎない? 無理だよ」


「ま、15kmくらいかしらね。往復30km。瑠衣はダンスやってたんだから、いけるいける」


「30kmって、自転車で走る距離じゃないよ!」


 車でもまあまあ遠く感じる。それを、自転車で。何を言っているんだ?


「まーまーまー、心配しなさんな。ママチャリで行けとは言ってないから。てことで、歯を磨いて顔を洗って、お着がえにゴー!」

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