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江東区にある事務所を出ると、まだまだ陽は高かった。いつの間にか、日没の時間が伸びていたみたいだ。
散り始めた桜を横目に、東陽町駅の東京メトロ東西線のホームへ。帰宅ラッシュが始まり、電車は満員。しかし、瑠衣が人から顔をさされることはほぼない。日本武道館でアイドルの卒業公演をしたとはいえ、一般的な知名度はゼロ。それが心地よい気もするし、寂しい気もする。マスクの下で、そっと鼻をすすった。
乗客の顔をちらちらと見る。なんだか、みな幸せそうに見えた。スーツを着た会社員は疲れをにじませているものの、仕事がある分瑠衣よりも充実しているに違いない。瑠衣よりも若い大学生にもきっと、無限の夢もあるだろう。
今の瑠衣には、充実も夢も何も無い。
アイドル以外にやりたいことが、特にない。でももう、アイドル人生は終わった。
瑠衣は、車窓にマスク姿の自分の顔を映す。とてもじゃないが、幸せそうには見えない。これから先の長い長いセカンドキャリアを、どう過ごそうか。80歳まで生きるとして、あと55年、何をして生きる?
荒川と江戸川を越えて電車が千葉県の西船橋駅へ到着すると、武蔵野線に乗りかえて南流山駅へ。南流山駅から10分ほどバスに乗り、ようやく自宅についた。
アイドルになるため地方から上京してきた子たちと違い、千葉に生まれ育った瑠衣は恵まれていたといえる。学校を転校することもなく、親の庇護のもとでぬくぬくとアイドル活動を続けられたのだから。
すみれドロップスに在籍していたころは、同居する両親が交代で車で送り迎えをしてくれていたが、今は電車バス通勤。帰宅が深夜になるようなライブもなく、仕事もなく、明るい時間に帰宅できる娘の送り迎えを続けるほど、両親もヒマじゃない。
「ただいま」
建売の小さな家の玄関をあけて、帰宅を告げる。玄関の三和土に見慣れぬ男物のスニーカーがあるのを見て、思わずリビングのほうへと目をやる。
「やっだー叔母さんたら!」
きゃっきゃとした男性の笑い声。聞き覚えがあるような、と思って扉を開くと、久しぶりに会う男性の後ろ姿が目に入る。
「みーくん?」
ソファに座っていたみーくんこと野辺光弦が振り返り、つぶらな目を見ひらいた。久しぶりに見た従兄の顔はずいぶんと日に焼けていた。
「るいるいじゃない! お久~」
テンション高く、甲高い声の光弦に圧倒されつつ、瑠衣は自然と笑顔になった。
「ちょっと~、そのあだ名はやめてよね」
アイドル時代のあだ名、るいるい。ファンの人に呼ばれる分にはいいけれど、身内から言われるとイジられているとしか思えない。でも、光弦のキャラだと許せてしまう。
ツーブロックのマッシュヘアの光弦は瑠衣よりも10歳上の35歳ではあるが、だいぶ若く見える。
「あはは、ごめーん。おかえり瑠衣!」
白い歯を見せて、光弦が太陽のような笑顔を見せた。
「おかえり瑠衣。今コーヒー淹れるね」
母がすっと立ち上がり、キッチンへ。瑠衣は「手を洗ってくる!」と洗面所へ急いだ。病気をしてライブを休むわけにはいかないアイドル時代のクセで、過剰なまでの手洗いうがいを未だに続けている。もっとも、今の瑠衣が病気になったところで困る人はだれもいないが。
リビングに戻り、光弦の隣のソファに座る。
「どうしたの、珍しいねウチに来るなんて」
瑠衣から見て母の兄の息子である従兄の光弦とは、幼い頃はそれなりに仲良くしていたが、瑠衣がアイドル活動をはじめて盆も正月もなくなってからは会う頻度が激減した。最後に会ったのは2、3年ほど前か。
光弦は、年齢に見合わぬ無邪気な笑顔を瑠衣に向ける。
「バックパックの旅を終えて日本に帰ってきたら、いつのまにか瑠衣がアイドルやめてるんだもん。久しぶりに会いたくなってさ」
光弦には女性の恋人がいて、ふたりで世界を旅している、というのは瑠衣の母から聞いていた。瑠衣の母と光弦は仲が良い。
「気にかけてくれてたんだ」
「モチよ! ひそかにグッズも買ってたんだから!」
「え?」
光弦は、半月型のミニショルダーバッグにつけられた『アクスタ』こと、アクリルスタンドキーホルダーを見せてきた。すみれドロップス時代の、淡いブルーのドレス風衣装を着た瑠衣がほほ笑んでいる全身写真がアクリルに印刷されている。
うれしい気持ちと恥ずかしい気持ちがないまぜになる。
「言ってくれればいくらでも送るのに!」
「やぁね、グッズを買うことで推しの懐があったかくなるんでしょ? そう聞いたわよ。流行りの推し活ってやつ?」
うふふ、と光弦は笑う。
「……まあそうなんだけど、ウチは給与制だからそんなに影響なくて」
モデルなど個人仕事をやっているメンバーはそれなりにもらっているだろうが、グループ活動をしている以上さほど変わらない……らしい。メンバー間でも給与がいくらかは聞けるものではないから、あくまでも推測だが。
給与が変わらなかったとしても、グッズが売れるのは重要だ。グッズの売れ行きで自分の立ち位置が変わるだろうし、グループにとっても大切な収入源だ。
「ありがとう。うれしいよ」
ちゃんと応援してもらっていたんだと実感して、久しぶりに瑠衣の心が温かいもので満たされる気がした。
「すみれドロップスの曲もけっこう好きだったしね! で、今は何してんの?」
聞かれると困る質問。光弦は良い答えが聞けると疑っていないようで、純粋に目を輝かせている。
「一応、事務所には所属してるけど……」
歯切れの悪い瑠衣の言葉に、光弦は「ふーん?」と何かを察したようだった。それ以上、何も尋ねることはしなかった。
「それより、みーくんは今何してるの?」
「それがね、今はキッチンカーをやっているの!」
「キッチンカー?」
思ってもない回答に、瑠衣は戸惑う。そのとき丁度、瑠衣の母がコーヒーを持って戻ってきた。
「はい、ミルクと砂糖入れておいたから」
「ありがと」
どうやら、お客さんが来ているということでわざわざドリップコーヒーを入れたよう。いつもより深い香りが鼻をくすぐる。口にすると、また心が温かいもので満たされる。ようやく一息つけたと、瑠衣は肩の力を抜く。やっぱり、インスタントコーヒーとは違う。
「キッチンカーって、クレープとか売ってるあれ?」
「そう。金土日は江戸川の河川敷でアイスとコーヒー売ってんの」
「江戸川の河川敷? 商売になるほど人いる? 散歩しているおじいちゃんくらいしかいないんじゃ……」
江戸川は、瑠衣の家から徒歩で数十分ほどのところにある一級河川。とはいえ、わざわざ行くことはない。川幅も広いから歩いて渡るのも面倒だし、車や電車で通り過ぎる程度だ。
光弦は、呆れたような顔をして瑠衣を見つめる。
「河川敷ってねぇ、人いっぱいいるのよ! 散歩している人以外にも、サイクリスト、ランナー、野球、ラグビー、サッカー、ゴルフ……とにかく、人の往来があるわけ。楽しいわよ、いろんな人がいて」
「河川敷ってそんなにいろんなことができるの?」
東西線で荒川や江戸川を通過するときには、見かけない光景だった。そのあたりは、整備されたウォーキングロードくらいしかなかった、ような気がする。河川敷なんて、瑠衣にとっては注目して見るようなものでもないから、記憶があいまいだ。
光弦は夢見る乙女のように、手を組んで空を見つめた。
「春は菜の花やポピーがきれいだし、秋はコスモス畑も見ものよ。ポニーがいる公園もある」
「へぇー。知らないことばっかりだなぁ」
気が付いたら、車で移動するばかりの人生だった。ツアーで日本各地のライブを行っても駅から会場までは車だし、観光する時間も用意されていない。人工的なライトに照らされてステージの上で輝くことだけが、瑠衣の仕事だった。
身近にある自然や人の行き交いについてはまるで詳しくないことに、軽く衝撃を受ける。
「いいな、楽しそう……」
瑠衣の口から、思わず声がもれる。恋人とともにアイスやコーヒーを売り、あたたかい光の中で街の人と交流して、花を愛でる光弦が無性に羨ましくなった。
そのとき、玄関のほうから物音が聞こえた。
リビングの扉を開いたのは、瑠衣の妹の亜未。まっすぐな髪をハーフアップにきっちりと結い、真新しいグレーのスーツに身を包んでいる。この4月から、新社会人となった。
「お、かえり」
喉につっかえながら、瑠衣は亜未に声をかける。
しかし亜未は瑠衣に一瞥もくれず、光弦を見て目を丸くする。
「みーくん?」
「あら亜未、大人になってぇ!」
「久しぶり! 元気だった?」
「元気元気!」
瑠衣は、亜未の明るく元気な声を久しぶりに聞いたな、とぼんやり思った。そうだ、少し前までは、こういう無邪気な笑顔を瑠衣にも見せてくれたっけ。
「おかえり亜未。早かったね」
母が声をかけると、亜未は「セミナー会場から直帰で」と答えた。
セミナーって、なんだろう。気になっても、瑠衣には質問ができなかった。「そんなことも知らないの?」ってバカにされた顔をされるだけだって、わかっているから。
瑠衣にとって、セミナーとはうさんくさいワードだ。高い商品を売りつけられるとか、そういう時に登場するもの。でも、まっとうな企業に勤める亜未が当たり前のように使って、みんなが当たり前のように受け入れているのだから、反社会的なものではないんだろう。
瑠衣だけが、違う世界を生きているかのような感覚になる。
心の中も頭の中も空っぽ。歌って踊る以外、花の美しさも会社に勤める人の言葉も何も知らない。
「久しぶりに女子トークがはかどりそうね! 夕飯も作らないでさ、ピザでもとっちゃう?」
光弦が、瑠衣の母と亜未と瑠衣を見て言う。しかし、亜未はすっと表情をかたくした。
「あ……わたし疲れてるから。また今度ゆっくり!」
そう言うと、母と光弦にだけ手を振ってリビングから出て行った。瑠衣の方は見もしない。
あまりにも不自然な様子。光弦は、慌てたように瑠衣を見る。
「ケンカ? や、やーね、一人っ子のアタシには羨ましいくらいだけど?」
あはは、とフォローになっていないフォローをしてくれる。光弦は昔から変わらずやさしいな、と瑠衣はなぜだか泣きそうになった。瑠衣は長女だけれど、もし姉や兄がいたらこんな感じだったのかな、と思うことはよくある。
「瑠衣がアイドルをやめてから、ずっとあんな感じなの」
ね、と母が瑠衣を遠慮がちに見て言う。だれにも、その行動の理由はわからない。亜未はただ、瑠衣を透明人間かのように扱い続けている。
「たぶん、家でダラダラしているのが気に入らないんだと思う。芸能界にしがみついてないで、さっさと普通に働けって思ってるんだよ」
瑠衣の言葉に、母と光弦は顔を見合わせる。
アイドルをやめてしばらくしてから、あの態度になった。だから、それ以外の理由が思いつかない。
「で、でも瑠衣だって、子どもの頃から人前に出る仕事をし続けて疲れているだろうし、半年や1年のんびりしても、ねえ?」
光弦があわあわと、落ち着きなくきょろきょろしながら必死になぐさめてくれる。ありがたくもあるし、情けなくもあるしで、いたたまれない気持ちになる。
「お母さんもそう思うんだけど、亜未ったら……」
ずっとアイドル活動を応援してくれていて、今のていたらくもひとつも文句を言わずに見守ってくれる両親。妹の亜未も、アイドル活動はだれよりも熱心に応援してくれていたはずなのに。求めすぎなのかな、と思うけれど、理由だけは教えてほしかった。
いまだに甘くてミルキーなコーヒーを親に入れてもらっている身として、どうやって妹と関係を構築すべきかわからない。あれもこれもわからない。瑠衣には、歌って踊ること以外なにもない。
「ま、いろいろあるわよね、家族ってさ」
「光弦くんも、兄さんとなにかあるの?」
母が光弦に尋ねる。肩をすくめた光弦は、「そりゃあね、アタシこんなんだし?」と自虐的に笑った。
光弦の言う『こんな』に何が含まれているかわからない。35歳になっても結婚せず、自由に生きていることなのか?
その自虐的な笑顔が、瑠衣にとっては納得できなかった。だって、瑠衣よりもまっとうな道を歩いているようにしか見えないから。
自分よりできていない人間が隣にいるのに自虐するなんて。さっき、温かいもので満たされた心の栓が抜けて、すべて流れていった。なにもなくなった空っぽの心は、少しの風でも身震いするほど冷える。
瑠衣は、はぁ、とわざとらしいほどのため息をついた。
その様子に、母と光弦は視線を向ける。
「みーくんが『こんなだし』って言うなら、私はどうなるの? 芸能界なんかに入って、アイドルを辞めたらなにも残ってない私よりよっぽどみーくんはすごいよ。幸せそうでいいよね、バックパックの旅とかキッチンカーとかさ。あーあ、私みたいな子どもがいてお母さん可哀想」
苛立つ瑠衣を見て、またも母と光弦は目を見合わせる。
亜未といい瑠衣といい、まだ反抗期やってんのかしら、とでも思っているのだろうか。2人の視線の交わりすら、今の瑠衣にとっては癪に障る。
これ以上ここにいたら、もっとひどいことを言ってしまいそうになる。瑠衣は苛立ちを抑えるようにわざとゆっくり立ち上がる。
「……ごめんみーくん。またゆっくり話そう」
「あ、うん。おつかれー」
あいまいな笑みを浮かべて、光弦が手を振った。
久しぶりに会った従兄への対応ではないと、頭ではわかっている。光弦が悪いわけじゃなくて、自分がふがいないのがいけないのだとも十分承知の上だ。
でも、眉間に寄ったシワは深くなる一方。
どうやったら、幸せそうに見られるのだろうか。