第七話
真桜が風呂に入っている間、ソファでクイズ番組を見ていた。雑学のコーナーが終わり、イントロクイズが始まる。
「はあ~、さっぱりしたあ」
洗面所の扉から真桜が出てきて、そのままキッチンの鍋に火をかける。
「次、あおくん入ってくる?」
「そうするよ」
ソファから立ち上がって歩き出した時、真桜が「あっ」と声を漏らした。
「これ、聴いたことある、なんだっけ。......ああ、『ピアノソナタ』だ。ベートーヴェンの。保育園のピアノ練習の時によく弾いてた。懐かしいな」
「こういう番組でクラシックとか流れるんだ。ポップとかだけじゃない?普通」
「ね。なんでもありだ。......そうだ、次当てた方皿洗いにしない?」
「いいよ。今のうちに腕まくっといてあげようか」
「生意気」
コンロの火を止めて、ソファまで来る。
次の問題では、聴きなじみのある、ゆったりとしたシンセベルが流れた。
「あ、えっと......真夏の果実、サザン」
「うわ、早い。わかってたけどね、私も。ていうかこれ、ほんと、ジャンル何でもありだね」
しょうがない洗うかぁ、と真桜は洗い場に向かった。
その時だった。
次のイントロクイズに、突然、身体が止まった。
≪正解です!天体観測はBUMP OF CHICKENメジャーデビュー二枚目のシングルでーーー≫
背後で、そう祝福する男性司会者の声が聞こえた。
真桜は、動かないままの俺を、見ていた。
「あおくん」
風呂に入らないと。
「あおくん」
踵が床から離れなかった。膝をやや曲げた不恰好な姿勢の俺に、真桜は続けた。
「あおくん、ちょっと良いかな」
応えるしかなかった。
真桜は冷蔵庫からお茶を取り出す。そして二杯分、グラスに注ぐ。「座ってよ」と椅子に促され、言われるがまま座った。
「...........辛そう、だよ」
「そうかな」
「そうだよ。なんかね、ずっと。過去をなかったことみたいにしてて」
「そう見えてたの?」
「そう見えてたよ。聞いて。あおくんはずっと昔の話をしない。音楽の道を目指してた時のこと、社会人になってから話したことが一度も。わかってるよ、話したくないって気持ちも。でもさ、それで辛そうな顔をずっとされてるとこっちもどうしたらわかんなくなっちゃうよ」
シンバルとキーボードのイントロが流れる。誰かが回答をする。
「私ね、今自分が受け持ってるクラスでもうすぐちょっとしたイベントをやるの。まだまだちっちゃくてかわいい子たちが大きな夢を紙に書いて、画用紙に将来の自分の姿をクレヨンで描くの。それでそれをお母さんとお父さんの前で発表するんだ。年少さんでまだクレヨンも上手に使えないけど、いろんな色を握って思い思いに必死に手を動かしてるの」
≪正解!『Love So Sweet』ですーーー≫
「でもね.........時々、思ってしまうの。こんなこと、させて良いのかなって。夢を語らせること、こんなの本当は私のエゴなんじゃないかなって」
グラスの表面をつたう水が、真桜の指で止まる。テレビの中で、誰かが元気よく曲名を答える。
「私にも......夢がある。いつか自分が担当した子たちが大人になって、『わたし、こんなになったよ』って、言いに来てくれること。保育園なんて、人生の中で一瞬の時間だよ。ーーーでも、私のこと、覚えていて欲しい。あの子たちの一瞬の中に、私がいられたらって。だから、やりきれない仕事を持って帰ってきちゃうこともある」
ピンポンピンポン、と高い音が鳴る。
「でも」
歓声が湧き上がる。
「あおくんは、悲しそうな顔をする」
「ちが」
「分かってるよ。心配してくれてるんだよね。それには、すごく感謝してる。それでもーー自分勝手なのかな」
≪東軍チームに10ポイント!結果、東軍チームが優勝です!≫
「夢をあきらめて私といてくれているあおくんの隣で、夢を、追うことは、自分勝手なのかな」
クラッカーが鳴り、テープと紙吹雪が優勝チームに降りかかる。
「今のあおくんを愛しながら、自分を信じることは、矛盾してるのかな」
「そんなことは思って」
「でも、あおくんもさ、私といるから辛いんだよね」
真桜に言葉を遮られる。隙が与えられない。
「あおくんは音楽を辞めて、私を選んでくれた。私を一番にしてくれた。すごくうれしかった。私もあおくんを支えていきたいって思ったよ。.........でも、あおくんが、夢を諦めて私の隣にいることを選んだあおくんが、自分の過去を無かったことにしてるのなら」
真央の指の水滴が、一粒、ぽとん、と落ちた。
「私はあおくんにとって..........どんな、存在なのかな。もしかしたらーー」
ふわり、と窓のカーテンが揺れた、気がした。
「夢の替わり。それでここは、あおくんが妥協して選ん」
「違う」
椅子からが立ち上がっていた。久しぶりに声を発した。変な力が入る。
「違うよ。俺は、真桜との幸せを心から選んだんだ。後悔なんてあるわけない。俺を選んでくれた真桜にも後悔なんかさせたくない」
短く息継ぎをして、すぐ続ける。
「確かに、音楽のことはもう辞めた。でも、違う。.........ただ、夢が、変わったんだよ。次の夢は、真桜と共に、安心して帰る場所を作ることなんだ。これは妥協なんかじゃない。きちんとした選択だ」
生きていく限りは選択していかなきゃいけない。大きな岐路に立った時に、いくつか道を比較して、こっちに進むって決断しなきゃいけない。それはつまり何かを諦めることだ。そうまでして、手に入れたいものがあった。そのために行動することは、妥協では、ない。
「あおくんにとって、妥協かそうじゃないかの基準はなに?」
「妥協は…後ろ向きなもの。前向きなものは、そうじゃない」
「じゃあ」
ガタガタと窓が揺れている。強い風が吹いている。洗濯物がばたばたと揺れる音がする。
「私の前で、悲しそうな顔しないでよ」
風がぴたりとやんだ。番組は終わり、ニュースが流れていた。
「選んだなら、振り切ってよ」
明日は風が強いそうだ。五月の嵐が近づいてきている。
「振り切れないならーーー」
真桜は途中まで言いかけて、やめた。そして、持っていたグラスの水を全て飲み干した。
「お互いがさ、同じ選択をしないと一緒にいられないのかな」
小さな声で真桜はそう呟いた。持っていたグラスは、もう空っぽになっていた。
「ごめん、酔ったうえにのぼせちゃったのかな。頭冷やしてくる」
そう言葉を残して、真桜は扉を開ける。外は風が強い。
がちゃん、と扉が閉まり、一人きりになる。
追わなかった。
一人部屋を見渡せば、そこらじゅうに真桜の余白があった。やけに部屋が広く感じられた。